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幕間・一 イレーヌの話
三
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一瞬、何が起きたのかわからなかった。
経験したことないような痛みと、わずかな浮遊感。
目の前の人物に蹴られたのだと気付いたのは、どこか呆れたような男性の声が聞こえたときだ。
「ご主人様、汚れてしまいますから、そういうことは私が……」
「捨てるからいい」
淡々と進められる会話に、どんどん痛みがひどくなる。鼻血が出ているのか、口周りに温かいものが垂れていく。
「――あぁあっ、いだぃ! いだっ――ぅっ」
「黙れ。耳障りだ」
「っぐぅっ、っぁ」
よく磨かれた黒い革靴が再び近付いてきた、と思ったときには、肩を蹴られ仰向けにさせられ、喉を思い切り踏まれていた。
(っ苦しい! 苦しい……! 息が――!)
喉を踏まれているからではない。鼻の奥から垂れてくる液体に軌道を塞がれ、溺れたように満足に息が吸えないのだ。
「ぅあ゛ぁっ……! あ゛あ゛ぁっ……!」
両手両足を拘束されているため足を退かすこともできず、ただ無様に体を捩るしかない。
心臓の鼓動はどんどん速くなり、視界が狭まっていく。
死ぬ、と思ったところで彼の足が退き、体は反射的にうつぶせの状態になり、喉の奥に溜まった血を吐き出した。
げぇ、げぇ、と血を吐き出しながら、必死に酸素を取り込む。
まったく引かない鼻の痛みに、先ほど死を覚悟した苦しみ。どれもまごうことなき現実なのだと悟った瞬間、どっと冷や汗が出た。
(そうだ、私……)
何故自分がここにいて、こんな目に遭っているのかも、徐々に思い出してくる。
伯父の家を追い出されたあと、仕方がないので実家に戻った。
実家と言っても、祖父が買ってくれた邸ではない。あの邸はイレーヌが働き始めてすぐに売り払われ、両親は平民が暮らす一般的な木造住宅へと引っ越していた。
状況を知った伯父が最後の慈悲だと買い与えた小屋のような家。
両親がこの家を与えられたときはお似合いだと思ったが、自分には到底相応しくない。
しかし、背に腹は代えられない。家を飛び出して以降、金の無心ばかりする両親とは距離を取っていたが、自慢の娘が帰って来たのだ。彼らは涙を流して喜び、自分たちの以前の行いを反省するだろう、と思ったが、その予想は外れた。
親不孝な娘だと詰られ、父には頬を叩かれた。家に金を入れるか、父の薦める相手に嫁がない限り住まわせないと言われ、すぐに家を出た。
贅沢癖の抜けない両親にはまだ多額の借金が残っているようだった。
あんな醜い人間たちが自分の親など信じられない。
自分はなんて可哀想なのだと、イレーヌは自分を哀れに思った。
そして、今すぐジルヴィウスに会いに行こうと決意した。
本当は彼から迎えに来てほしかったが、お姫様が王子様を迎えに行く話があってもいいだろう。
近場の宿で頬の腫れが引くのを待って、イレーヌは東部公爵領へと向かった。その途中で、ジルヴィウスがメイドを募集しているという話を聞き、世界が自分を後押ししてくれていると思った。
まさに“運命”だと。
自分は公爵夫人となるべき存在なため、メイドとして雇われるというのは少々不満だが、会えさえすれば問題ない。メイドと公爵の恋など、物語のようではないか!
意気揚々とその募集に応募したイレーヌだが、ジルヴィウスに会うことはできなかった。
試験はすべて側近のギーというぱっとしない男がするのだそうだ。それに関しては、不服だけれど納得した。しかし、そのあと続いたギーの言葉には、頭を殴られたような衝撃を受けた。
『旦那様は半年後に迎える奥様のために貴女たちを集めた。そのことを肝に銘じて試験に臨むように』
信じられなかった。
彼の“運命”は自分のはずなのに。
何故、神はこんな試練を与えるのか。ここに来るまでだって、たくさん大変で苦しい思いをしたのに。
混乱するなか、それでも出される試験は順調にこなしていった。そうして過ごすうちに、顔も名前を知らない“未来の奥様”への憎しみがどんどん募っていった。
ジルヴィウスは騙されているに違いない。嫌々結婚を決めたに違いない。自分が救ってあげなければ。
その強い想いが願いを叶えたのか、無事メイドとして採用されることになった。
早くジルヴィウスに会いたい。早く自分という存在を教えてげないと。
そう思って数ヵ月を過ごし、ついにその日はやって来た。
初めて見るジルヴィウスは、想像していた以上に美しく逞しい男性だった。ただ立っているだけでも人目を惹き、ただ息をし、瞬きするだけでうっとりと見惚れてしまうほどの色香を纏っていた。
自分の運命の伴侶に相応しい、最上の男。
ドキドキと胸が高鳴るのを感じながら、“私はここよ!”と彼の前に立つ。しかし、彼の煌めく金の瞳はちらりと一瞥しただけで、興味なさそうにすぐに逸らされた。
それどころか、「妻のため」を何度も繰り返し、念を押すように注意事項を告げられた。
状況が呑み込めないまま、ついにその“妻”と対面したときには、今までにないほどの憎悪と嫌悪を抱いた。
とても大切そうに“妻”を抱き寄せるジルヴィウスに、それを当たり前のように受け入れている黄色い髪の、何の特徴もない小娘。
何故、どうして、と怒りを滾らせるなか、ふと従姉妹の言葉が思い出された。
『貴女って、今でも人のおさがりばかり欲しがるのね』
黄色い小娘から視線を逸らさないジルヴィウスの姿に、違う! と心の中で叫んだ。
もともとは自分のものだった! 奪われたのだ!
目の前の何の苦労も知らなそうな厚顔無恥の小娘が。代替品でしかない偽物が。恥知らずにも彼を誑かしたのだ。
だから、早く彼の目を覚まさなければ。
だから、早く彼を取り戻さなければ。
そのためには、自分の邪魔をする目障りな女を消さなければ……。
(それで……あのガキに襲い掛かって……)
魔法に阻まれて意識を失ったのだ。
呼吸が落ち着き、すべてを思い出すと、痛みも忘れるほどの怒りを覚えた。
しかし、その怒りは肌を刺すような殺気によって一瞬にして小さくなる。
「この期に及んでそんなにも醜く顔を歪ませるとはな。自分のやったことを理解してないのか?」
「ご主人様、知能のない獣に道理を説こうとしても無意味かと」
「……うちのドブネズミは稀有な存在だったようだな」
「お褒めに預かり光栄に存じます」
こちらのことなど何も気せず話を進めるジルヴィウスとギーに、イレーヌはとにかく現状を把握しようとそっと辺りを見回した。
薄暗い室内に、硬い石の床。もしかしたらと思ったが、自分は今牢屋のようなところにいるようだ。
(何よ! 結局怪我の一つもさせられなかったのに! なんでこんなところに入れられないといけないのよ!)
自分は何も悪いことはしていない。
そもそも自分を傷付け、怒らせるようなことを言ってきたのは向こうなのだ。
それをわかってほしくて口を開いたものの、声は出なかった。
(なに!? なんで!?)
いくら口を開き、喋ろうとしても呼吸が漏れる音しか聞こえない。
「舌を切り落とされたくなければ今すぐ口を閉じろ」
竦み上がるような冷たい声に、反射的に口を閉じる。
ジルヴィウスが指を鳴らすと、簡素な木製の椅子が現れ、ジルヴィウスはそこに腰掛けた。今すぐにでも射殺されそうなほど鋭い視線を向けるジルヴィウスは、それでも美しかった。
鼻はひどく痛み、恐怖で体は小刻みに震えるが、それでも彼の目に自分が映っていることが嬉しかった。思わず恍惚とした表情を浮かべると、ジュッという音と鋭い痛み、耐えがたいほどの熱気が左目を襲った。
「――っ!」
声は出せないので叫び声は出なかったが、イレーヌはその場にのたうち回り、先ほどできた水溜まりへと顔を突っ込む。
「またふざけた目を向ければ反対の目も焼く」
息をするかのような吐かれた残酷な言葉に、体は縮み上がった。
何故あれほど皆がジルヴィウスを恐れていたのか、やっと理解できた。
(こ、公爵様は本気だわ……ほ、本当に反対の目も焼いて……)
最悪、殺すことも厭わないだろう。
ぞっと背筋が凍った瞬間、股の間から温かいものが漏れ、独特のツンとした匂いが辺りに立ち込めた。と、同時に上から大量の水をかけられ、骨が軋む。
羞恥。恐怖。痛み。
様々な感情が渦巻くなか、滝のように降り注いで水が止まると、静かに息を吸う音が聞こえた。
「お前にどんな罰を課すかはすでに決まっている。が、この世で最も尊く、何よりも価値のある俺の妻が、何故お前があんな行動を取ったのか気にしていてな。嘘は言わず、余計なことは言わず、質問にだけ答えろ。――何故、あいつを……シーラを襲った」
経験したことないような痛みと、わずかな浮遊感。
目の前の人物に蹴られたのだと気付いたのは、どこか呆れたような男性の声が聞こえたときだ。
「ご主人様、汚れてしまいますから、そういうことは私が……」
「捨てるからいい」
淡々と進められる会話に、どんどん痛みがひどくなる。鼻血が出ているのか、口周りに温かいものが垂れていく。
「――あぁあっ、いだぃ! いだっ――ぅっ」
「黙れ。耳障りだ」
「っぐぅっ、っぁ」
よく磨かれた黒い革靴が再び近付いてきた、と思ったときには、肩を蹴られ仰向けにさせられ、喉を思い切り踏まれていた。
(っ苦しい! 苦しい……! 息が――!)
喉を踏まれているからではない。鼻の奥から垂れてくる液体に軌道を塞がれ、溺れたように満足に息が吸えないのだ。
「ぅあ゛ぁっ……! あ゛あ゛ぁっ……!」
両手両足を拘束されているため足を退かすこともできず、ただ無様に体を捩るしかない。
心臓の鼓動はどんどん速くなり、視界が狭まっていく。
死ぬ、と思ったところで彼の足が退き、体は反射的にうつぶせの状態になり、喉の奥に溜まった血を吐き出した。
げぇ、げぇ、と血を吐き出しながら、必死に酸素を取り込む。
まったく引かない鼻の痛みに、先ほど死を覚悟した苦しみ。どれもまごうことなき現実なのだと悟った瞬間、どっと冷や汗が出た。
(そうだ、私……)
何故自分がここにいて、こんな目に遭っているのかも、徐々に思い出してくる。
伯父の家を追い出されたあと、仕方がないので実家に戻った。
実家と言っても、祖父が買ってくれた邸ではない。あの邸はイレーヌが働き始めてすぐに売り払われ、両親は平民が暮らす一般的な木造住宅へと引っ越していた。
状況を知った伯父が最後の慈悲だと買い与えた小屋のような家。
両親がこの家を与えられたときはお似合いだと思ったが、自分には到底相応しくない。
しかし、背に腹は代えられない。家を飛び出して以降、金の無心ばかりする両親とは距離を取っていたが、自慢の娘が帰って来たのだ。彼らは涙を流して喜び、自分たちの以前の行いを反省するだろう、と思ったが、その予想は外れた。
親不孝な娘だと詰られ、父には頬を叩かれた。家に金を入れるか、父の薦める相手に嫁がない限り住まわせないと言われ、すぐに家を出た。
贅沢癖の抜けない両親にはまだ多額の借金が残っているようだった。
あんな醜い人間たちが自分の親など信じられない。
自分はなんて可哀想なのだと、イレーヌは自分を哀れに思った。
そして、今すぐジルヴィウスに会いに行こうと決意した。
本当は彼から迎えに来てほしかったが、お姫様が王子様を迎えに行く話があってもいいだろう。
近場の宿で頬の腫れが引くのを待って、イレーヌは東部公爵領へと向かった。その途中で、ジルヴィウスがメイドを募集しているという話を聞き、世界が自分を後押ししてくれていると思った。
まさに“運命”だと。
自分は公爵夫人となるべき存在なため、メイドとして雇われるというのは少々不満だが、会えさえすれば問題ない。メイドと公爵の恋など、物語のようではないか!
意気揚々とその募集に応募したイレーヌだが、ジルヴィウスに会うことはできなかった。
試験はすべて側近のギーというぱっとしない男がするのだそうだ。それに関しては、不服だけれど納得した。しかし、そのあと続いたギーの言葉には、頭を殴られたような衝撃を受けた。
『旦那様は半年後に迎える奥様のために貴女たちを集めた。そのことを肝に銘じて試験に臨むように』
信じられなかった。
彼の“運命”は自分のはずなのに。
何故、神はこんな試練を与えるのか。ここに来るまでだって、たくさん大変で苦しい思いをしたのに。
混乱するなか、それでも出される試験は順調にこなしていった。そうして過ごすうちに、顔も名前を知らない“未来の奥様”への憎しみがどんどん募っていった。
ジルヴィウスは騙されているに違いない。嫌々結婚を決めたに違いない。自分が救ってあげなければ。
その強い想いが願いを叶えたのか、無事メイドとして採用されることになった。
早くジルヴィウスに会いたい。早く自分という存在を教えてげないと。
そう思って数ヵ月を過ごし、ついにその日はやって来た。
初めて見るジルヴィウスは、想像していた以上に美しく逞しい男性だった。ただ立っているだけでも人目を惹き、ただ息をし、瞬きするだけでうっとりと見惚れてしまうほどの色香を纏っていた。
自分の運命の伴侶に相応しい、最上の男。
ドキドキと胸が高鳴るのを感じながら、“私はここよ!”と彼の前に立つ。しかし、彼の煌めく金の瞳はちらりと一瞥しただけで、興味なさそうにすぐに逸らされた。
それどころか、「妻のため」を何度も繰り返し、念を押すように注意事項を告げられた。
状況が呑み込めないまま、ついにその“妻”と対面したときには、今までにないほどの憎悪と嫌悪を抱いた。
とても大切そうに“妻”を抱き寄せるジルヴィウスに、それを当たり前のように受け入れている黄色い髪の、何の特徴もない小娘。
何故、どうして、と怒りを滾らせるなか、ふと従姉妹の言葉が思い出された。
『貴女って、今でも人のおさがりばかり欲しがるのね』
黄色い小娘から視線を逸らさないジルヴィウスの姿に、違う! と心の中で叫んだ。
もともとは自分のものだった! 奪われたのだ!
目の前の何の苦労も知らなそうな厚顔無恥の小娘が。代替品でしかない偽物が。恥知らずにも彼を誑かしたのだ。
だから、早く彼の目を覚まさなければ。
だから、早く彼を取り戻さなければ。
そのためには、自分の邪魔をする目障りな女を消さなければ……。
(それで……あのガキに襲い掛かって……)
魔法に阻まれて意識を失ったのだ。
呼吸が落ち着き、すべてを思い出すと、痛みも忘れるほどの怒りを覚えた。
しかし、その怒りは肌を刺すような殺気によって一瞬にして小さくなる。
「この期に及んでそんなにも醜く顔を歪ませるとはな。自分のやったことを理解してないのか?」
「ご主人様、知能のない獣に道理を説こうとしても無意味かと」
「……うちのドブネズミは稀有な存在だったようだな」
「お褒めに預かり光栄に存じます」
こちらのことなど何も気せず話を進めるジルヴィウスとギーに、イレーヌはとにかく現状を把握しようとそっと辺りを見回した。
薄暗い室内に、硬い石の床。もしかしたらと思ったが、自分は今牢屋のようなところにいるようだ。
(何よ! 結局怪我の一つもさせられなかったのに! なんでこんなところに入れられないといけないのよ!)
自分は何も悪いことはしていない。
そもそも自分を傷付け、怒らせるようなことを言ってきたのは向こうなのだ。
それをわかってほしくて口を開いたものの、声は出なかった。
(なに!? なんで!?)
いくら口を開き、喋ろうとしても呼吸が漏れる音しか聞こえない。
「舌を切り落とされたくなければ今すぐ口を閉じろ」
竦み上がるような冷たい声に、反射的に口を閉じる。
ジルヴィウスが指を鳴らすと、簡素な木製の椅子が現れ、ジルヴィウスはそこに腰掛けた。今すぐにでも射殺されそうなほど鋭い視線を向けるジルヴィウスは、それでも美しかった。
鼻はひどく痛み、恐怖で体は小刻みに震えるが、それでも彼の目に自分が映っていることが嬉しかった。思わず恍惚とした表情を浮かべると、ジュッという音と鋭い痛み、耐えがたいほどの熱気が左目を襲った。
「――っ!」
声は出せないので叫び声は出なかったが、イレーヌはその場にのたうち回り、先ほどできた水溜まりへと顔を突っ込む。
「またふざけた目を向ければ反対の目も焼く」
息をするかのような吐かれた残酷な言葉に、体は縮み上がった。
何故あれほど皆がジルヴィウスを恐れていたのか、やっと理解できた。
(こ、公爵様は本気だわ……ほ、本当に反対の目も焼いて……)
最悪、殺すことも厭わないだろう。
ぞっと背筋が凍った瞬間、股の間から温かいものが漏れ、独特のツンとした匂いが辺りに立ち込めた。と、同時に上から大量の水をかけられ、骨が軋む。
羞恥。恐怖。痛み。
様々な感情が渦巻くなか、滝のように降り注いで水が止まると、静かに息を吸う音が聞こえた。
「お前にどんな罰を課すかはすでに決まっている。が、この世で最も尊く、何よりも価値のある俺の妻が、何故お前があんな行動を取ったのか気にしていてな。嘘は言わず、余計なことは言わず、質問にだけ答えろ。――何故、あいつを……シーラを襲った」
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