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第61話 僕と姉の結びつき

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 姉が結婚して三か月余り。夏の始まりを告げるころ、将司さんから連絡があり、みんなで日帰りでグランピングをしようという。これは将司さんからの提案ではなく、姉の提案だろうなと思った。彩寧に連絡すると、参加できそうなので僕、姉、彩寧、将司さんの四人で出かけることにした。
 場所は引退競走馬牧場で、キャンプやグランピングやバーベキューの設備も整っている。
 二台の車に分乗し牧場に辿り着く。

「ふぃー、すっずしー」

 助手席のドアを開けると、気持ちよさそうな顔をする姉。ここは盛岡より北で標高も少し高いから涼しくて過ごしやすい。降りようとして四苦八苦する姉を見かねた彩寧が姉を介助する。将司さんは姉のそばに立っているだけだった。恐らくいよいよ転倒の危険が出てくるまでは触るなと姉から厳命されているのだろう。
 この牧場は広くて色々なアクティビティがある。競馬はよく知らないが、こうしてみると競走馬は大きくたくましく美しい。
 その競走馬にニンジンやリンゴを与える。つぶらな瞳でぼりぼりと大きな音を立てて夢中になって食べる姿が可愛い。ところが姉は驚いたことに馬を怖がって近づくこともできない。杖を突いて逃げ惑うばかりだった。一同、将司さんでさえも笑っていた。
 そのあとは馬に乗る。本当は僕も将司さんのように姉のすぐ傍らにいたかったんだけれど、そうしたら彩寧一人で馬に乗ることになってしまう。それはあまりなので、僕も乗馬に挑戦することにした。馬の背は凄く高くてかなり怖い。脚が不自由な上馬を恐れる姉は馬に乗った僕と彩寧を遠巻きに眺めて僕たちをからかうばかりだった。将司さんは姉から少し離れた場所で、まるで護衛のように立ち尽くしていた。
 そのあとは絵画教室。岩手山を描いてみた。ショートカットで口数の少ない痩身の女性が講師をしてくれたが、教え方が巧いのか、意外といい出来に僕たちは感心する。
 その間僕は姉と将司さんを観察していたが、原則として将司さんには介助をさせる様子がない。ただ姉が将司さんの名前を読んだ時だけは将司さんが介助をするようだ。そういう風に取り決めでもしているのかも知れない。こんなんで結婚した意味があるのか。

 さてそれではいよいよバーベキューだ。僕たちは準備を始める。姉はロフストランドクラッチを外し掴まり歩きをしながら僕たちを手伝う。
 紙皿他の食器が足りなかったので事務所に取りに行く。僕と姉と将司さんで向かった。姉は杖を症状の重い左腕にしか装着していなかった。

「おい、ちゃんと両手にしないとだめだぞ」

「いーのいーの。へーきへーき。今日はすっごく調子いいもん大丈夫」

「ほんとか?」

「ほんとだよ。だってさあ……」

「だってなんだ」

「なんでだと思う?」

 にやにや笑う姉。

「知るかっ」

 僕は吐き捨て、紅潮した顔を隠すように向こうを向いた。
 受付で不足分の食器を受け取って戻る。姉まで左手に杖を突きながら紙食器の入った袋を右手に持っている。どうしてもというのだから仕方がない。
 歩く姉の左側に将司さんがいて、僕は右後方でかさばるトレー類を姉の命令によって持たされていた。
 その時微かな変化が起こった。杖を突いてない姉の右肩がすっと傾く。脱力性転倒だ。僕は急いで姉の右側面に駆け寄り身構える。その瞬間姉はガクッと右脚から崩れ落ちた。それをしっかり抱きかかえる僕。姉は僕に抱えられ転倒せずに済んだ。その間わずか一.三秒程度だったと思う。将司さんはおろか姉でさえもポカーンと呆気にとられたままだった。慌てた将司さんが姉に言う。

「だっ、だいじょうぶですかっ」

「あ、うん、全然大丈夫……みたい……」

 姉は必要以上の時間僕にしがみ付いていた。僕はこんな場面での姉の感触に動揺してしまう。

「こら、ちゃんと立てよ」

「……あ、うん」

 呆然とする姉をしっかりと立たせて脚の土を払う。起き上がって姉の顔を見ると、嬉しそうで、照れくさそうで、僕に全幅の信頼を置いた満面の笑みを浮かべていた。僕は姉から眼を逸らす。

「だからちゃんと両手にしないとだめだって言っただろっ」

「……うんっ」

 将司さんが慌ててロフストランドクラッチを持って来る。姉はそれを持つと僕と将司さんの間に入って歩く。顔を赤らめ嬉しそうな顔でちらちらと何度も僕の方に視線を送る。そのなんとも言えない気恥ずかしさと、姉を救った誇らしさで不思議な気分だった。
 そんな三人を遠くから彩寧がじっと見つめていた。
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