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第69話 離婚
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ザリガニ釣りの翌日、僕が病室に行くと将司さんもいた。だが二人とも今までにない深刻な表情だった。僕は病室には入らず外から二人の会話を盗み聞きした。
「じゃ、『契約』のその二十二、あたしの方から一方的に離婚を切り出せる、でよろしく」
「でも、愛未さん。愛未さんはこれからますます介護や看護が必要になってきます。ここでの離婚は適切ではないと思いますが」
「適切なんだよ。これからは病院の人が全部あたしの面倒を見てくれる。だからもういいんだ」
「でも退院した時にまた僕の介助が必要になるじゃないですか」
沈黙のあと姉は吐き出すように言った。
「随分と残酷なこと言うんだね」
姉のその言葉に将司さんは戸惑っている様子だった。姉の言っていることが理解できていない。
「それじゃあ言うけどさ、あたしはこれからガリガリに痩せて眼も落ち窪んで、肌もガッサガサで土気色になって髪もバサバサに…… もう今までのあたしと違う二眼と見られない姿になるんだ。そんな姿を見られたくないんだよ」
「そんなの構いません! 愛未さんがどんな姿になったって僕は!」
「その愛未さん本人が嫌だってんだよ。あたしの言ってることちゃんと判ってるのかなあ?」
「それでも僕は……っ」
「将司の役目はもう終わり。だからこれ持ってっさっさと市民登録課行ってきて。今日明日中に。いい?」
不穏な気配を感じた。
「嫌です」
「じゃどうすんの」
「僕は、僕は…… 僕はっ!」
僕は病室に駆け込み姉に手を伸ばそうとする将司さんの腕が見えた。火事場の馬鹿力とでも言うのだろうか、僕は難なく将司さんの腕を背中側に捻り上げる。
将司さんがうめく。姉はベッドの上で将司さんの手から自分を守ろうとしたのか手を掲げ、ひどく怯えた表情を見せていた。
将司さんが腕をねじ上げられたまま膝をつく。将司さんは嗚咽していた。そりゃそうだろう。条件付きでの結婚というあれだけひどい仕打ちをされて泣かない男なんかいるものか。その一方で僕は釘を刺しておいた。
「夫婦間でもセクハラや不同意性交は成立しますからね」
将司さんは塩ビタイルの床に頭を擦り付け泣いていた。どれほど苦しかったろう。僕は将司さんに心底同情した。姉さんはすっかり怯えて見る影もなかった。僕は姉にも冷たく言い放った。
「これが姉さんのしたことの結末だ。よく目に焼き付けておくんだな」
「ね、姉ちゃんは将司が自由になればって」
「もういいっ!」
僕は思わず叫んだ。
「姉さんは姉さんで思うところがあってこの結婚をしたんだろう。だけどこの結婚で誰か一人でも幸せになったやつがいるか! いないんだよ。誰一人としていないんだよ! どうすんだ! 彼の心の傷はどうやって埋めるんだよ! 姉さん責任取れんのか!」
かつてない剣幕の僕に姉はさらに怯える。これほど強い非難を僕から受けたことがなかったショックで姉の眼にはうっすらと涙が浮かんでいた。その時将司さんがゆっくりと起き上がる。また何かするかもしれない。僕はさらに腕を締め上げた。うなだれた将司さんはそのままぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「先ほどは大変失礼いたしました。申し訳ありません。でも、優斗さんのおっしゃったことは間違っています。少なくともここに一人幸せだった者がいるのですから。ですからどうか気に病まないで下さい。そしてもう僕のことは忘れて下さい」
そしてオーバーベッドテーブルの上にあった白地に緑で印刷された紙、離婚届を鷲掴みにすると背中を丸めてとぼとぼと病室を出て行こうとする。
「将司」
姉が震える声で将司さんの背中に呼びかける。
「ごめんね。ありがとう」
将司さんは丸めた背中を震わせ、くしゃくしゃになった離婚届を握り締めて病室を出て行った。
「じゃ、『契約』のその二十二、あたしの方から一方的に離婚を切り出せる、でよろしく」
「でも、愛未さん。愛未さんはこれからますます介護や看護が必要になってきます。ここでの離婚は適切ではないと思いますが」
「適切なんだよ。これからは病院の人が全部あたしの面倒を見てくれる。だからもういいんだ」
「でも退院した時にまた僕の介助が必要になるじゃないですか」
沈黙のあと姉は吐き出すように言った。
「随分と残酷なこと言うんだね」
姉のその言葉に将司さんは戸惑っている様子だった。姉の言っていることが理解できていない。
「それじゃあ言うけどさ、あたしはこれからガリガリに痩せて眼も落ち窪んで、肌もガッサガサで土気色になって髪もバサバサに…… もう今までのあたしと違う二眼と見られない姿になるんだ。そんな姿を見られたくないんだよ」
「そんなの構いません! 愛未さんがどんな姿になったって僕は!」
「その愛未さん本人が嫌だってんだよ。あたしの言ってることちゃんと判ってるのかなあ?」
「それでも僕は……っ」
「将司の役目はもう終わり。だからこれ持ってっさっさと市民登録課行ってきて。今日明日中に。いい?」
不穏な気配を感じた。
「嫌です」
「じゃどうすんの」
「僕は、僕は…… 僕はっ!」
僕は病室に駆け込み姉に手を伸ばそうとする将司さんの腕が見えた。火事場の馬鹿力とでも言うのだろうか、僕は難なく将司さんの腕を背中側に捻り上げる。
将司さんがうめく。姉はベッドの上で将司さんの手から自分を守ろうとしたのか手を掲げ、ひどく怯えた表情を見せていた。
将司さんが腕をねじ上げられたまま膝をつく。将司さんは嗚咽していた。そりゃそうだろう。条件付きでの結婚というあれだけひどい仕打ちをされて泣かない男なんかいるものか。その一方で僕は釘を刺しておいた。
「夫婦間でもセクハラや不同意性交は成立しますからね」
将司さんは塩ビタイルの床に頭を擦り付け泣いていた。どれほど苦しかったろう。僕は将司さんに心底同情した。姉さんはすっかり怯えて見る影もなかった。僕は姉にも冷たく言い放った。
「これが姉さんのしたことの結末だ。よく目に焼き付けておくんだな」
「ね、姉ちゃんは将司が自由になればって」
「もういいっ!」
僕は思わず叫んだ。
「姉さんは姉さんで思うところがあってこの結婚をしたんだろう。だけどこの結婚で誰か一人でも幸せになったやつがいるか! いないんだよ。誰一人としていないんだよ! どうすんだ! 彼の心の傷はどうやって埋めるんだよ! 姉さん責任取れんのか!」
かつてない剣幕の僕に姉はさらに怯える。これほど強い非難を僕から受けたことがなかったショックで姉の眼にはうっすらと涙が浮かんでいた。その時将司さんがゆっくりと起き上がる。また何かするかもしれない。僕はさらに腕を締め上げた。うなだれた将司さんはそのままぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「先ほどは大変失礼いたしました。申し訳ありません。でも、優斗さんのおっしゃったことは間違っています。少なくともここに一人幸せだった者がいるのですから。ですからどうか気に病まないで下さい。そしてもう僕のことは忘れて下さい」
そしてオーバーベッドテーブルの上にあった白地に緑で印刷された紙、離婚届を鷲掴みにすると背中を丸めてとぼとぼと病室を出て行こうとする。
「将司」
姉が震える声で将司さんの背中に呼びかける。
「ごめんね。ありがとう」
将司さんは丸めた背中を震わせ、くしゃくしゃになった離婚届を握り締めて病室を出て行った。
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