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 喫茶店にて昼食

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 ーー彼女が危なかったとはいえ、あんな恥ずかしい行動に出てしまうとは……(羞恥)
 俺は喫茶店のボックス席で頭を抱えていた。
 お陰で彼女が言おうとしていた事もーー恐らくは留守電の件で嘘をついていた事だろうーー有耶無耶になってしまったし、その彼女はと言えば速攻で注文を店員に言った後「ちょっと私トイレ行ってくる!」と宣言し、席を離れてしまった。
 ーーいや、ここはプラス思考だ。
 落ち着いて話をするための時間を与えられたのだと考えよう。
 俺は酷く慌てた精神状態をクールダウンさせる為に、深呼吸して目を閉じる。喫茶店を流れる、レコードの落ち着いた曲調に心を委ねる。ゆったりと穏やかな旋律が、耳を蕩かせるだけでなく、心もほぐすかのように胸の奥に流れ込んで来る。
 そうして冷静になった頭に浮かんで来たのは。
 鮮明に記憶された先程の彼女だった。
 ーーなんでだよぉおおお!
 全然落ち着けてない。
 寧ろ興奮が加速したまである。
 彼女の身体の軽さ、柔らかさ、香り、温度、少し驚いた表情、そしてその瞳の輝きーーそれら全てが俺の心を占有して離れない。
 俺は彼女の記憶に興奮する自分と冷静であれと言う理知的な自分との間でひとり悶絶した。
 ーーと。
「お待たせしました」
 そんな折、声が聞こえた。
 声のした方を見ると、この喫茶店のオーナーらしき初老の男性が控えていた。
「サンドイッチにアイスコーヒーのレギュラーサイズ、フレンチトースト、ウインナーココアになります。ご注文は以上でよろしいですか?……はい。こちら、ミルクと砂糖になります。お好みでお加えください。……それではごゆっくりどうぞ(イケボ)」
「あ、ありがとうございます」
 ダンディーなお爺さんは落ち着いた笑みで次々と注文した品を置いていき、気付いた時には目の前にはお洒落な昼食が広がっていた。手前側には俺の頼んだサンドイッチとアイスコーヒー、奥には流奈の頼んだフレンチトーストとウインナーココアが置かれている。
 突然の事に頭が一気に冷静になる。
 一旦落ち着くには、予想外の出来事が一番なんだなと妙な感心を抱いた。
 俺は眼前のランチに改めて注目する。
 サンドイッチは思ったよりボリューミーで、食パン2つで具材をサンドし、半分に切った形のものが4つ皿に並べられていた。中身はざっと見ただけでも輪切りの大きなトマトやシャキシャキのレタス、分厚いだし巻き卵とかなり量がある。
 アイスコーヒーは比較的一般的なもので、背の高いグラスによく冷えた状態で注がれていた。そしてその隣には、ナンカレーのルーでも入れそうな銀色の容器に入ったミルク、スティックシュガーが置かれている。
 フレンチトーストもこれまた意外と量があり、サンドイッチと同じ大きさのものが4切れ程皿に安置されていた。卵を程良く吸ったふわふわのパン生地が黄金色に輝いているーーあれは美味しそうだ、後で彼女にひとつトレードを申請しよう。
 ウインナーココアは熱々のココアの上にクリームが高くトッピングされている代物だった。俺は彼女が頼むのを見て初めてその存在を知ったのだが、まさかこのようなものだとは……如何にも混ぜる、混ぜない、混ぜ方のテーブルマナーにうるさそうな飲み物だ。まぁ、実際混ぜるにしてもその瞬間ホイップが器から溢れそうで、飲むのには相当な精神力を要しそうだがーー美味しそうなのは美味しそうだ。ただ個人的にはあざとい系の小悪魔美少女の飲みそうなイメージで(偏見)、俺自身は絶対飲まないだろうなとも思う。
「あ、もう来てたんだ。……待たせてごめんね?」
 目の前に広がる豪華ラインナップに目を奪われていると、流奈がトイレから戻って来た。そのまま向かいの席に腰掛ける。
「いや、今来たとこだから」
「そっか、じゃあ食べよう?」
 どうやら彼女もトイレで冷静になったようで、先程の事は何もなかったように接してくるーーありがたい限りだ。話題に出されたらもう一度冷静に戻れる自信はない。
「「いただきます」」
 俺と彼女は合掌し、それぞれのものに手をつける。
 サンドイッチには前述したように沢山の具材が入っており、顎関節の可動域の限界へレッツ・トライ!する羽目になったが、ひと口入れた瞬間に脳が一新されるような、フレッシュな美味しさがあったーーこのレタスとトマトの瑞々しいのなんの。味付けのケチャップソースもしつこ過ぎない程度に効いていて食欲を増幅させられる。
 俺は「このサンドイッチは絶対世界一美味しい」とーーある種の感動に打ち震えながらそれを貪るようにして食べた。多分俺はその間、呼吸するのを忘れていたと思う。
 あっという間に食べ終えて、アイスコーヒーで文字通り一息つく。
 彼女の方を見るとフレンチトーストを半分も食べていなかった。
「やっぱり食欲ないのか?」
 声をかける。
 彼女は何か言いたそうにしていた。
 俺は喫茶店に来る間の先程の会話を思い出したーー有耶無耶になったから食べながらゆっくり話を聞こうと思っていたのに、サンドイッチの美味さにすっかり忘れていたーーフレンチトーストとのトレードの件も。
「さっきの話の続きか?」
 彼女が何度も何か言おうとしては口を噤むのを見て、俺は橋を渡してみる。
「うん」
 それでようやく彼女は口を開いた。
「実はね……」
 古時計の振り子の音と、「ごくり」と彼女が覚悟を決めた音が妙に大きく聞こえた。
 沈黙って些細な音が聞こえる時に一番感じるものなんだな、とぼんやり思った。
「ごめん!留守電入れたっていうのは嘘!本当は電話もしてないの!」
 言って、物凄い勢いで頭を下げる。
 一方の俺は既に知っていたので、……さて何と言うべきか、とアイスコーヒーをちびちびやる。
「まぁ、正直に話したから許してやろうーー面を上げい」
 結果ーー空気がシリアス且つ重くならないように茶化す事にした。
 別に嘘をつかれた事に対して俺は怒っていない。嘘をつく苦しさを知っているのもあるし、自分だって嘘をつくことがあるのに自分のことを棚に上げてむやみやたらにその人を責めることは出来ない、というのが俺の自論だからだ。
 そして何より。
「俺もヘアピン落としたしーーこれでおあいこな」
 嘘をつき合わないーーお互いを裏切らない関係が良い訳ではない。
 お互いを許し合える関係が一番なのだと、俺は思うのだ。
「うん……。ありがとう」
 彼女がほっとしたように言った。謝罪の後にありがとうを言えるところが彼女の良いところだ。
「でも俺の留守電はちゃんと入ってるからそのうち親御さんから連絡は来ると思うぞーー今はまだ来てないけど」
 話を現実に戻し、言いながらスマホを確認する。着信履歴、留守電の履歴、共に誰からも来ていない。
 しかし誰かからLINEの通知が1件来ていた。
 LINEクーポンからだろうか?
 見ると『池崎健太』とあるーーそういえば昨日の七夕祭りの集合のためにLINEを交換したんだった。懐かしいな、すっかり存在を忘れていた。
 祭りの最中に蒸発したの謝っとかないと。
 そう思ってトークルームを開くと、
『昨日はすまん!』
 と送られていた。彼も途中で俺の存在を忘れて祭りを楽しんだ事を悪く思っているようだ。おおよそ、それで怒った俺が勝手に帰ったと誤解しているのだろう。
 俺も『こっちも勝手にどっか行ってごめんな』と送り返す事にする。詳しい事は学校で直接話そう。
「何してるの?」
 何やら打ち込んでる俺を見て不思議に思ったのか、流奈が訊いてくる。
「いや、ちょっとな」
 俺と池崎との事を彼女に知られるのがなんだか気恥ずかしく感じて、俺は返答をぼかした。
「ふーん」
 彼女ははぐらかされたのを少し不服そうにしたが、嘘をついていたバツもあってか、それ以上は追求して来なかった。
「それよりこれからどうする?」
 彼へのLINEを終えて、俺は改めて今後の方針について彼女に持ちかけた。親御さんからの連絡が来ないとはいえ、流石にこのままでは不味い。彼女だって明日(月曜日)は学校だろうし、今日中に家に帰っていないといけないだろう。
「やっぱり俺が金出すから1人ででも帰った方が……」
「それは悪いよ。いつ返せるか分からないし……」
 彼女は朝も言った事を再び口にする。しかし家に電話しなかった事実を知っている今、俺には先程とは違う『彼女』が見えた気がした。
 それだけが理由じゃないような気がした。
 こういうのは試すみたいで嫌なんだが、現実的に話を進めるためにも致し方ない。
 俺は少し多めに息を吸って。
 普段は見れない彼女の目を見る。
「でももうそう言ってる場合じゃないだろ?明日は流奈だって学校あるだろうし、両親だって心配してるだろ。それにお金のことが心配だって言うなら具体的にどのくらいかかるのか教えてくれ。……そういえば転校の事とかその辺りの話諸々訊いてなかったけど結局何処に引っ越したんだ?流石にもう教えてくれてもーー」
「優希くんは私と一緒にいたくないの?」
 俺の長ゼリに耐えられなくなったのか俺の言を遮って彼女が訴えてくる。言外に「私は優希くんと一緒にいたい」と主張するその目に嘘はない。
 しかしやはり。
 それだけではないという実感も多分にあった。
「そうは言ってないだろ?俺だって流奈と一緒にいたい。でも現実的に考えてーー」
「ーー嫌なの!」
 急に叫ぶような声を出す流奈。
 客は俺たちしかいないが、ちょっとびっくりする声量だ。
「家に帰りたくないの!それにお父さんだって……」
 一瞬ーー眉を潜め、歯を食いしばって言い淀む彼女。
 しかし。
「お父さんだって私の事なんて捜さない!」
 我慢の限界だったのか彼女は苦しそうな顔でそう言った。
 ……それは何処かの誰かに似た顔で、本心のーー心からの叫びだった。
 俺は。
 それを知っているような気がした。
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