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名前の主は誰

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 ダイニングキッチンを覗くと岩石のようなごつい顔をしたあかねの父、佑利ゆうりと、母、真琴まことが朝食を食べていた。

「おはよう、あかね。どうだ、蔵の掃除ははかどってるか?」

 佑利の呑気な声が、あかねを少しイラつかせる。
 あかねは佑利を一瞥もせず、無言のままキッチンに向かう。
 その様子に佑利の落ち着きがなくなり、そわそわと不安げな顔で真琴に視線を送るが、真琴は意に介さず黙々と朝食を食べている。

 あかねが冷蔵庫から果物や野菜を取り出して、毎朝飲むスムージーを作り始めると、ぶっきらぼうに「飲む?」と訊く。
 途端に佑利の顔に満面の笑みが戻る。

「飲むよ、飲む飲む。あかねのスムージーは最高に美味しいよ。パパの一日のパワーの源だよ」
「あら、ママの作った朝ごはんはパワーの源とやらにはならないのかしら…」

 真琴がすかさず横やりを入れると、佑利が焦って「違うよ、ママァ」と情けない声を出す。
「ママの朝ごはんはパパの健康の中心なんだよ。その周りにあかねのスムージーとかお昼のワンコインランチとか…」

 あかねが佑利の前に、多少乱暴にスムージーのグラスを置いて、佑利の言葉を止めた。
「はい、その周りのスムージー」

 あかねの嫌味な言い方に真琴が思わず吹き出す。
 母の笑いに釣られて表情を緩めるあかね、それを見て佑利もほっとしたように、ぎこちなく笑いに加わった。

「そろそろ出かける時間よ」
 真琴にそう言われ立ち上がった佑利に、真琴がハンカチとポケットティッシュを渡す。

「はい、岩石」
「なんだよ、昨日から急に岩石岩石って。僕をバカにしてるの」
「してないわよ。愛してるわ」
「な、なに言ってるの、あかねの前で」
 照れながら佑利がチラッとあかねを見る。

「あ、忘れてた」
 そこで今日初めて、あかねが佑利と視線を合わせた。
「楠木幸子って名前、聞いたことある?」
「ああ、あの写真の…」と真琴が応じると、あかねがうなずく。

「ママが岩石に訊いてみたらって言うから… 誰だかわかる?」
「あかねまで岩石って… 知らん間に変なあだ名付けるのやめてくれよぉ」
 佑利が情けない声で真琴を見ると、あかねがイラついたように佑利を睨む。

「知ってるの知らないのどっち!」
「楠木幸子… 幸子… どっかで聞いたことあるようなないような…」
「うわ… 役立たず」
「なんだよぉ… あかね、パパに向かってそれは酷いぞ」
「楠木って苗字が付いてるんだから、きっとうちの先祖の誰かよね。へえ… あの平べったい顔がうちの先祖ねえ」
 真琴が呑気に茶をすすり上げる。

「ねえねえ、何の話? 蔵でなんか見つかったの? 金目のものなら売ってさ、蔵つぶしてあかねの家を建てる資金にしようよ」
「はぁ?」
 思わず出た素っ頓狂すっとんきょうな声とともに、あかねの顔がゆがむ。

「何なのそのたくらみは。勝手に私の人生決めないでよ、岩石のくせに」
「そうよ、勝手にそんなこと決めたらあかねが可哀そうよ」
 真琴もすかさず、あかねに同調する… と見せかけて…
「でもママもね、あかねが隣に住んで孫の成長とか、ずっと近くで見守れるのは理想よね」
 佑利がようやく味方を得たと言わんばかりの笑顔を見せる。

「もう、そんな勝手なこと言ってんなら、蔵の片付けなんかしないからね」
 佑利が「いや違うよ」と慌てる。
「今すぐどうこうって話じゃないから。あかねが結婚して、ゆくゆくは…」
「岩石、もう行かなきゃ。遅れるわよ」
 真琴が佑利の言葉を遮り、カバンを持たせると追い出すように背中を押した。
「いってらっしゃ~い」と言う真琴の軽い口調に対し、「行ってきま~す」と寂し気な口調で返し、佑利が出て行った。

 佑利が行ったのを確認すると、真琴が目を見開いてあかねに笑いかける。
「岩石よりももっとしっかりした頭のいい人に聞いてあげるわ」
 言うなり、スマホを手に取り電話を掛ける。

「もしもし、義姉ねえさん。私、真琴です。おはようございますぅ。元気ですかぁ…って昨日も話したわ」
 転げるように笑って話している相手は、佑利の姉の悦子えつこである。
 あかねは真琴からスマホを奪うと、スピーカーに切り替えた。

「ひゃぁッ、ハッハッハッハ…」
 いきなりスマホから笑い声が聞こえる。
伯母おばちゃま、お早う。あかね」
「ハッハッハぁぁぁかねちゃん。お早う。元気そう…」
「突然だけど、楠木幸子って名前、聞いたことある?」
「何、ホント突然ねぇ」
「そんな名前の人、うちの先祖にいるの?」

「うん、いるぅ」
「誰!」
「どうしたの、あかねちゃん… そんな切羽詰まって」
「とにかく教えてよぉ、伯母ちゃま」
「楠木幸子は『さっこ婆ちゃん』のことね。私のひい婆ちゃん。佑利が生まれた年に、確か85か6で亡くなったけど… それがどうしたの」

 あかねは、夢の中で聞いた名前が、実在する人物だったことにしばらく言葉を無くす。
 昨夜のリツと変な声の死神は夢ではなかった。
 それを現実として、自然に受け入れている自分が不思議でもあった。

「へぇ… あの平べったい顔がねぇ…」
 傍でやり取りを聞いていた真琴が茶をすすりながら呟く。と、「あッ」と突然思い出したように持っていた茶をテーブルにどんと置いた。
「来月の『激乱』スケジュール送られてきたけど、いる?」
「いるーーーッ! いるに決まってるーーーッ! すぐ送って。予定立てなきゃ」

 ああ、ここにも『激乱』のおっかけがいたんだった…
 半目で呆れた笑みを残して、あかねがダイニングキッチンを後にした。
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