蘭 子ーRANKOー(旧題:青蒼の頃)

ひろり

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「今年は桜を見る会は開かれるのかなあ」
 3月に入り、中学卒業の報告に訪れた庸一郎よういちろうがぽつんと呟いた。
「知らない。どうして?」
「卒業記念の旅行に友達から別荘に来ないかって誘われてるからさ…」
 そこまで言って庸一郎は思い直したように私の顔を見た。

「まだ決めたわけじゃないから、叔父さん、叔母さんには内緒だよ」
「桜を見る会があっても庸一郎さんはお休みするってこと?」
「そんなわけには…」と言いかけて庸一郎が笑う。
「蘭ちゃんは余計なこと心配しなくてもいいよ。学校は楽しい? 今年は2年生だよね。勉強、わからないところがあったら何でも聞いてよ」
 取って付けたように軽く言うと、腕時計を見て席を立った。
「叔父さん、書斎だよね」
 誰に言うともなく呟いて庸一郎は食堂を出て行った。

 庸一郎が来ると、私とお喋りする時間を与えるように食堂に二人だけにされる。
 十分もない短い時間だが、庸一郎にとってはとても退屈でつまらない時間であることは私にも理解できた。
 15歳と7歳。その当時の私には埋めようがない大きな年の差に感じて、幼い自分が口惜しく早く大人になって対等に話をしたいと思っていた。

 父と母の口から、面と向かって将来は庸一郎と結婚するよう言われたことはなかった。
 だが、どこかで何となくそう望まれているような空気を感じ取っていた。
 るり子はあからさまに、
「蘭子様、未来の旦那様がいらっしゃいましたよ」
 と、ニヤニヤしながら私を呼びに来たりしたが、サチや他の使用人たちから軽々しく言われることはなかった。もっともるり子が口にするということは、陰で彼らがそんな噂話をしているのは明らかだったが。

「あら、庸一郎さんが来てるんじゃなかったの?」
 食堂に入るなり、庸一郎の姿を探して母が部屋からテラスまで見回して言った。
「お父様を呼びに行ったわ。サチがぐずぐずしてるから我慢できなかったんじゃない」
 私はソファに座る母に紅茶を用意していたサチをチラッと見た。

「お二人で楽しそうにお喋りされていたから、旦那様をお呼びするのはゆっくりでいいと思ったんですよ。すみません」
「楽しそうにお喋りなんかしてないわよ」
 不満げにサチに言葉をぶつけると、母が私を見てふふっと笑う。
「サチは忙しいのよ」

 しばらくすると、父とともに庸一郎が戻ってきた。
 庸一郎を見ると母の表情も一瞬にして変わる。

「時が経つのは早いなあ。もう中学卒業だって」
 父の弾んだ声が部屋に響く。
 二人の視線が庸一郎を捉えて離さない。
 敵わない…
 私は席を立った。

「お母様、私、お花を摘んできていい? 庸一郎さんの卒業祝いに伯母様に持って帰ってもらいたいし…お兄様にも卒業のお祝いに差し上げたいから」
 私を見る母の表情がつか固まるが、すぐに目を細めうっすらと瞳を潤ませる。
「そうね…ありがとう。お願いね」
 私はテラスから庭に出た。
 母が幼い隆太郎とともに種を植え花を育てた思い出の、この庭で一番豪華に整えられた花壇の花を私が切り取ってももう誰も何も言わない。
 ほんの1年前、母を激怒させたことが遠い昔のような気がした。

 数本の花を切り取り、テラスに戻りかけると庸一郎を挟んで父と母が満面に笑みを浮かべ楽しげに話している姿が見えた。
 まるでホームドラマの幸せなワンシーンをスクリーンで観ているような感覚に陥り足が止まる。
 私はくるりと向きを変え花壇に戻る。
 無理だよとつぶやく。
 父と母の中ではそこに居るのは庸一郎ではなく隆太郎なのだ。あの中に無邪気に入れるほど幼くはなれない。

 不意に瞳が潤んで視界がぼやける。
 私は邪念を振り払うように一心に花を切り取り始めた。
 こぼれ落ちそうになる涙を袖で拭うと、母が大事にしている薔薇に生え始めた新芽が目に入った。無意識にハサミでパチンと新芽を切り落とす。また見つけては切り落とす。
 パチンと心地良い音が耳に響いて心が少し晴れるような気がした。

「蘭子様」
 突然の呼びかけにビクンと肩が跳ねる。
 振り向くとサチが立っていた。
「薔薇の芽かきは庭師の仕事ですよ。皆様、蘭子様をお待ちです。戻りましょう」
 サチが無造作に地面に切り落とされた花を拾い上げ籠に入れる。
「屋敷中に花を飾れますね」
 籠に入り切らない花を抱えてサチが言った。
 フンと不満げに鼻を鳴らしサチに背を向け、テラスへと向かう。
「大丈夫ですか」
 私の背中に掛けられた言葉に「何が?」とツンと澄ましてサチを横目で見る。
 サチが肩をすくめて「大丈夫ですね」と呟いた。

 私は足早にテラスを通り抜け食堂へと戻った。
「まあ、そんなにたくさん…」
 サチが抱える花を見て母は目を丸くした。
「だって庸一郎さんとお兄様、二人分の卒業のお祝いですもの。それより私、お腹ペコペコよ」
 母は目を瞬いて「まあ、この子ったら」と白い歯を見せ微笑んだ。

「お父様、今年は桜を見る会はどうされるの?」
 庸一郎を交えて4人で食事を共にし、デザートが運ばれてきた時、おもむろに口を開いた。
「そうだなあ、蘭子はどうしたらいいと思う?」
 私は最近、飲むことを許されるようになったコーヒーを一口すすった。

 コーヒーと言っても大人が飲むようなコーヒーの色はほとんどミルクに消されていたがそれでも少しだけ大人になった気分になれる。その上、父に意見を求められたのだ。
「桜を見る会なんて誰も桜を見てないし、会社の人の子供たちとは同じ学校じゃないし私は退屈だわ」
 父は確かにと言って豪快に笑った。

「だけど、会社の方々と交流を深めるのは大切なことよ」
 母が「ねえ」と庸一郎に同意を求める。
「そうだね。僕も将来社会に出た時のために色々な人たちと会うのは大事な勉強になると思う」
 父は、ほほうと感心したように眩し気な視線を庸一郎に送る。
 瞬時に私の中のスイッチが入った。

「庸一郎さんは、友達から卒業記念の旅行に誘われてるから今年はないほうがいいって言ってたじゃない」
 見る間に庸一郎の形相が変わり「僕はそんなこと言ってない!」と声を張り上げた。
 真っ赤な顔で睨む庸一郎に驚いて、私は顔をゆがめ泣き出しそうな顔を作った。

 そんな私を見ても、庸一郎は表情を変えず声のトーンこそ落としたが、「嘘をつくなよ」と畳みかける。
「嘘なんてついてないわ…」
「叔父さん、僕は蘭ちゃんに旅行に誘われてるとは言ったけど、桜を見る会がないほうがいいなんて一言も言ってないよ! 絶対に言ってない!」
 ムキになって否定し、私に対する怒りを露わに「噓つきは泥棒の始まりだよ」と暴言を吐く。
 あの頃、私には父と対等に話せるくらいに大人に見えた庸一郎も十分幼かった。

 母はあらあらと言って席を立ち、私の傍らに来て抱き寄せ、泣いている私の頭を撫でる。
「庸一郎さん、嘘つきは言い過ぎよ。蘭子はまだ小さいからあなたが言った言葉がうまく伝わらずに勘違いすることもあるわ。あなたはもう高校生になるんだから、こんな小さい女の子を怒鳴りつけて泣かせるなんてあんまりだわ。もう少し大人にならないとダメよ」
 母の柔らかな口調が庸一郎を落ち着かせ、はたと自分の立場を自覚したのだろう。

「蘭ちゃん、ごめん。僕、言い過ぎたよ。蘭ちゃんよりうんと大きいのに大人げないことして本当にごめんなさい」と言いながら肩を落とす。
 私はううんと首を横に振って「私もごめんなさい」と返した。
「子供は素直でいいね。まあ、たまには喧嘩するのも悪くないだろ。隆太郎とは取っ組み合いの喧嘩だってしてたしなあ」
 父が大らかに笑うと庸一郎も平静を取り戻し笑い返す。
「叔父さん、それは3歳とか4歳の頃の話だよ」
「そんなこともあったわね」
 見上げると母は目を潤ませ庸一郎を見つめていた。
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