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思惑(2)
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「シュールな絵だな」
早翔がふと気付くと、向井が少し離れた所に立っていた。
早翔は、向井との関係は身体だけだと割り切っていた。
会うのは、向井がかつて独立してあっという間に潰したという事務所。仕事場と言うわりに、書棚に法律書が並んでいる程度で、仕事に関するものは置かれてもいない。常に事務机の上は何もない状態で、早翔にとっては心置きなく荷物を置いて、勉強道具を広げるのには都合が良かった。
「情事の後、事務机に向かって素っ裸の男が勉強している図… 実にそそられる」
「邪魔するなよ。今日の課題終わらせるんだから… それにパンツ穿いてるし」
早翔が机上に視線を戻すと、向井が早翔に向かって上着を放り投げる。
「風邪を引かれたら困る… 次は勉強する余力もないくらいにヘロヘロにしてやる」
早翔は向井の声など届いてないかのように、無表情で無視している。
その姿を見て、向井が苦い笑みを浮かべた。
「お前は何が面白くて勉強している? そんなに会計士になりたいのか」
早翔の手が止まる。
「…さあね。やればやるほど、これは本当に俺がやりたかったことなのか疑問ばかりが生まれる。親父の会社を失ったのがきっかけだったけど、今はね…」
「親父さんの会社はいいブレーンはそろってたほうだ。士稼業はどれだけ頭が切れても、クライアントの意向で良くも悪くもなる。厄介な商売だ」
自嘲気味に薄笑いを浮かべる向井の顔を、早翔がチラッと見て視線を戻す。
「でもやりたいからやる。あんまり会計士には向いてないし、別に興味もなかったことを自覚するための勉強…かな。それでも机に向かってると落ち着く」
「そう言うのを無駄って言わない?」
早翔がしばらく沈黙する。
「…言わない。贅沢っていうのさ。いくらでも勉強できる環境にいるヤツは気が付かない。それが奪われた時にしか感じない贅沢と幸せ。俺は机に向かうだけでそれを感じてる。今はそれだけでいい」
「学歴コンプレックスだな。学歴にこだわる必要はないのに。大学を卒業した後のほうが多くのことを学ぶ」
早翔が再び手を止め、向井に視線を向けた。
「それは何の疑問もなく大学に行ったヤツの言うことだよ… 向井さんは? 何が楽しくて法律を学ぼうと?」
「楽しいなんて思ったことない。弁護士になる手段として仕方なく勉強した」
向井が脱ぎ散らかした服を拾い集め、帰り支度を始める。
「帰るの?」
「このままいると、邪魔することになるぞ。それでもいいのか」
向井がフッと笑うと、早翔が首をすくめて視線を外す。
「お前は妹弟のために犠牲になって働いてるが、今は感謝されても将来まで続くとは限らんぞ。ほどほどにしとけよ」
「何だよ、いきなり」
早翔が訝しげに向井を見る。
向井は黙って身支度を整えている。早翔はしばらく無言でその様子を眺めていた。
髪を整え、早翔を見てニヤリと笑う。
「帰って欲しくなければそう言えよ」
「帰れよ… それより、ほどほどにしろって何が言いたいんだよ」
向井が視線を泳がせ、ふうと息を一つ吐く。
「俺の親父は兄貴… 俺の伯父貴のお蔭で大学まで行って大企業に入った。伯父貴は高卒で工場で働いて、親父の学費を稼いだんだ」
「俺の立場が向井さんの伯父さんってこと」
向井は頷くと、二つのグラスに水を入れ、一つを早翔に手渡し、もう一つを一気に飲み干した。
「会社の上司の娘と結婚して、俺が生まれた。出世して… 俺たち家族が伯父貴の家に行くと、いつも親父のことを誇らしげに眺めてたよ。だけど、親父は自力で出世したと思っていたし、母は、伯父貴一家を蔑むような目で見てた」
向井が切ない目で宙を見上げ、薄っすら笑みを浮かべる。
「伯父貴の末の娘が俺と同じ歳でさ。子供の頃、伯母さんが、大きくなったら結婚したらいいのにって冗談言っても、母は苦々しい顔してた。伯母さんは、俺に言ったんだ。兄弟は他人の始まりで仕方ないけど、悔しいって… 伯父貴にも大学に行って弁護士になる夢があったのにって…」
「だから弁護士になったの」
向井が苦笑しながら頷く。
「だから、お前も兄弟思いはほどほどにしておけよ」
ほどほどに兄弟を思うことなどできるだろうか。
早翔がそんな言葉を飲み込んだ。
兄弟が他人の始まりなら、できる限りのことをして、彼らを守りたいという単純な思いも兄弟だから生まれるものだ。
兄弟だけの存在から、別の守るべき存在ができた時に、他人の目線で損得を計り、裏切られたとか恩知らずなどの思いが湧くのかもしれない。
少なくとも、今はやりたいかやりたくないかという本能で、早翔は二人を扶養する道を選んだ。
一人っ子の向井に、そんなことを言ってもわからない。
早翔はグラスの水をあおった。
「いいさ。もしかしたら俺にも向井さんみたいな、伯父思いの甥っ子や姪っ子ができるかもしれないし… 今から楽しみだ」
向井が優しく微笑んで、そうだなと返す。
「風邪ひくなよ」
向井は早翔の髪をクシャっと軽くつかんだ。
「キスされるのかと思った」
「キスしたら止まらないけど… いいのか?」
向井がニヤリと笑うと、早翔がぶるぶると首を左右に振る。
向井は笑い声を漏らしながら部屋を出て行った。
早翔がふと気付くと、向井が少し離れた所に立っていた。
早翔は、向井との関係は身体だけだと割り切っていた。
会うのは、向井がかつて独立してあっという間に潰したという事務所。仕事場と言うわりに、書棚に法律書が並んでいる程度で、仕事に関するものは置かれてもいない。常に事務机の上は何もない状態で、早翔にとっては心置きなく荷物を置いて、勉強道具を広げるのには都合が良かった。
「情事の後、事務机に向かって素っ裸の男が勉強している図… 実にそそられる」
「邪魔するなよ。今日の課題終わらせるんだから… それにパンツ穿いてるし」
早翔が机上に視線を戻すと、向井が早翔に向かって上着を放り投げる。
「風邪を引かれたら困る… 次は勉強する余力もないくらいにヘロヘロにしてやる」
早翔は向井の声など届いてないかのように、無表情で無視している。
その姿を見て、向井が苦い笑みを浮かべた。
「お前は何が面白くて勉強している? そんなに会計士になりたいのか」
早翔の手が止まる。
「…さあね。やればやるほど、これは本当に俺がやりたかったことなのか疑問ばかりが生まれる。親父の会社を失ったのがきっかけだったけど、今はね…」
「親父さんの会社はいいブレーンはそろってたほうだ。士稼業はどれだけ頭が切れても、クライアントの意向で良くも悪くもなる。厄介な商売だ」
自嘲気味に薄笑いを浮かべる向井の顔を、早翔がチラッと見て視線を戻す。
「でもやりたいからやる。あんまり会計士には向いてないし、別に興味もなかったことを自覚するための勉強…かな。それでも机に向かってると落ち着く」
「そう言うのを無駄って言わない?」
早翔がしばらく沈黙する。
「…言わない。贅沢っていうのさ。いくらでも勉強できる環境にいるヤツは気が付かない。それが奪われた時にしか感じない贅沢と幸せ。俺は机に向かうだけでそれを感じてる。今はそれだけでいい」
「学歴コンプレックスだな。学歴にこだわる必要はないのに。大学を卒業した後のほうが多くのことを学ぶ」
早翔が再び手を止め、向井に視線を向けた。
「それは何の疑問もなく大学に行ったヤツの言うことだよ… 向井さんは? 何が楽しくて法律を学ぼうと?」
「楽しいなんて思ったことない。弁護士になる手段として仕方なく勉強した」
向井が脱ぎ散らかした服を拾い集め、帰り支度を始める。
「帰るの?」
「このままいると、邪魔することになるぞ。それでもいいのか」
向井がフッと笑うと、早翔が首をすくめて視線を外す。
「お前は妹弟のために犠牲になって働いてるが、今は感謝されても将来まで続くとは限らんぞ。ほどほどにしとけよ」
「何だよ、いきなり」
早翔が訝しげに向井を見る。
向井は黙って身支度を整えている。早翔はしばらく無言でその様子を眺めていた。
髪を整え、早翔を見てニヤリと笑う。
「帰って欲しくなければそう言えよ」
「帰れよ… それより、ほどほどにしろって何が言いたいんだよ」
向井が視線を泳がせ、ふうと息を一つ吐く。
「俺の親父は兄貴… 俺の伯父貴のお蔭で大学まで行って大企業に入った。伯父貴は高卒で工場で働いて、親父の学費を稼いだんだ」
「俺の立場が向井さんの伯父さんってこと」
向井は頷くと、二つのグラスに水を入れ、一つを早翔に手渡し、もう一つを一気に飲み干した。
「会社の上司の娘と結婚して、俺が生まれた。出世して… 俺たち家族が伯父貴の家に行くと、いつも親父のことを誇らしげに眺めてたよ。だけど、親父は自力で出世したと思っていたし、母は、伯父貴一家を蔑むような目で見てた」
向井が切ない目で宙を見上げ、薄っすら笑みを浮かべる。
「伯父貴の末の娘が俺と同じ歳でさ。子供の頃、伯母さんが、大きくなったら結婚したらいいのにって冗談言っても、母は苦々しい顔してた。伯母さんは、俺に言ったんだ。兄弟は他人の始まりで仕方ないけど、悔しいって… 伯父貴にも大学に行って弁護士になる夢があったのにって…」
「だから弁護士になったの」
向井が苦笑しながら頷く。
「だから、お前も兄弟思いはほどほどにしておけよ」
ほどほどに兄弟を思うことなどできるだろうか。
早翔がそんな言葉を飲み込んだ。
兄弟が他人の始まりなら、できる限りのことをして、彼らを守りたいという単純な思いも兄弟だから生まれるものだ。
兄弟だけの存在から、別の守るべき存在ができた時に、他人の目線で損得を計り、裏切られたとか恩知らずなどの思いが湧くのかもしれない。
少なくとも、今はやりたいかやりたくないかという本能で、早翔は二人を扶養する道を選んだ。
一人っ子の向井に、そんなことを言ってもわからない。
早翔はグラスの水をあおった。
「いいさ。もしかしたら俺にも向井さんみたいな、伯父思いの甥っ子や姪っ子ができるかもしれないし… 今から楽しみだ」
向井が優しく微笑んで、そうだなと返す。
「風邪ひくなよ」
向井は早翔の髪をクシャっと軽くつかんだ。
「キスされるのかと思った」
「キスしたら止まらないけど… いいのか?」
向井がニヤリと笑うと、早翔がぶるぶると首を左右に振る。
向井は笑い声を漏らしながら部屋を出て行った。
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