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第一章

21 名前呼び

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数時間前、冬華の母親、星川雪弓が急遽訪問してきて、その後嵐のように別の要件で家を出た雪弓を見送った冬華とエリカは、夕食までの時間を家で過ごしていた。



「やれやれ、やっと肩の荷が降りた」
「・・・・・」
「?どうした紅野?顔赤くして・・・・あ~そうか。悪ぃ、母さんが言った事は全部無視でいい。アレはあの人の冗談というか揶揄いがあっての発言だから」
「は、はい。私は、冬華くんがそんな事する人じゃないっていうのは分かってるので心配はしてません。そういうリスクを犯す前に自分に返ってくる厄の方を心配するタイプですもんね、冬華くんは」
「まぁそうだな。お前に手を出した日にゃ生きてる自信はないしな」
「そんな大袈裟な・・・」
「いやいや、大袈裟じゃないんだぞ?親衛隊やらファンクラブなんて出てきて大変なんてものじゃないさ。まだお前と話す前に一度仰々しい程の親衛隊が出てきたことがあったぞ」
「そ、そんな事になってたんですか」

冬華の実話にエリカは少々引いていた。まぁ自分が作ってくれって頼んでもいないのに勝手に親衛隊やらファンクラブなんて有れば誰でも普通に引くものだ。


「まぁでも私は確かに他人より顔がいいとは自覚あります」
「うお~。サラッと自画自賛しやがった」
「事実を否定してもせんなきなき事ですから」
「世の中の頑張ってる女の子達に謝れ」

とは言ってもエリカもエリカで日々、美を怠らないように努力しているので一概に馬鹿にはできるわけがない。
エリカは朝早くから学校に行くようで、寝癖はおろか隈や疲労さえも見たことがない。

1日たりとも姿が変わらず綺麗。これも妖精様と言われる要因だなと実感する。
隣で見ていても分かるし昨日髪を乾かしてもらってる時に髪を見た時だって痛んでいる様子はなかった。


じっと見ていると視線に気がついたエリカがこちらを振り返った。
突然だったのでギョッとして慌てて目を逸らす。

「・・・・髪に何か付いてましたか、冬華くん?」
「あ~いや、別になんも。・・・・というか紅野、お前いつまで俺のこと名前で呼ぶ気だよ」
「えっ?・・・・あっ」
「あってお前」

どうやら全く気がついていなかったらしい。指摘されて初めて自覚したのか紅野は思わず手を口で押さえていた。
雪弓が居た僅かの間でもう【冬華くん】が定着してしまったようだ。

あまり気にするのも体に毒だと思ったのだが、いい加減指摘するべきだと思い言ったのは果たして良かったのかと悩んでしまった。
別に名前で呼ばれるのが嫌という訳ではなく、単純にエリカが困るのではと思ったからだ。

「・・・今日は雪弓さんに名前で呼ばれるのが多くて、なんだか安心しました。他の人も私の事は名前で呼んだりしませんでしたし」
「クラスメイトや友人には?流石に名前で呼ばれたことくらいはあるだろ?」
「・・・今まで親戚くらいしか名前で呼ばれなかったですし、親しいと呼べる人もいませんでした。確かに友人はいますが、その人達と仲良くなるにも時間がかかりました。今は普通にエリカちゃんって呼んでくれますけど、他は苗字でさん付けです。ファンクラブの方々はエリカ様なんて呼んでくれてますけどね」
「あーね」

確かにたまに見かけるファンクラブ共はエリカ様エリカ様と連呼していて正直うるさい。毎日煩わしいと思いつつ無視している。
「・・・でもだから、今日名前で呼んでくれて、とても嬉しかったんです」
「・・・そっか」
「エリカちゃんって呼ばれるの、なんだかお母さんに呼ばれてる気がして、冬華くんのお母様には感謝したいです」
「それ直接本人に言えよ。まぁ言った所でもみくちゃにされるだろうけど・・・・・でも、そっか。よかったな」

エリカの目に偽りはないものの、何処か寂しげな目をしていた。家族に何か切なく辛い思い出があるかのように。
冬華は、絶対エリカは名前で呼ばれているんだろうなと思っていた。だが逆に周りの人間は敷居が高いと思い、おいそれと名前で呼べないのだろう。

中にはあだ名で呼んでいる人もいる。しかし、前にあだ名で呼ばれているのを見た時は、本人はめちゃくちゃ嫌がっていた。顔には出していないが、冬華は何となく分かったし、家に帰ってきた時も、あだ名で呼んできた男の人がいたと少し迷惑そうにしていた。
妖精様も大変なんだなぁ。と思う。

「・・・あと、嬉しいって思ったんです」
「何が?」
「冬華くんのお母様、賑やかでとても優しくて冬華くん想いで、それでいて素晴らしい人だと思います。あんな素敵なお母様は早々いませんしあんな人に名前で呼んでもらうのはとても嬉しかったです」
「素敵な人なのは認めるが、あの人は五月蝿いだけだし、それに過保護すぎるからうざい」

お世辞でもなんでもない目でそう言うので、なんだかこそばゆい思いをした。

しかし雪弓の言動を冬華は知り尽くしているので思い出すだけで身がすくむのだが、良い人であることは否定はできない。
人生の長さは他の母親に比べれば粗末なものだが、人生の濃さなら他の母親を凌駕している筈だ。

なにせ雪弓は魔術士だ。外道な場面や理不尽な事など沢山ある。それは雪弓の口癖でもあった。
そんな彼女に対して、冬華の過去がどうして彼女の過去より酷いと言えようか。

だから子供のうちから社会に慣れておけと言われていた。
なので積極的に魔術士の道を進めてくるが、乗り気はしない。
今の所は普通に過ごしたいので、暫くは魔術士面での生活はしないつもりだ。


「でもさ、親とかには名前で呼ばれるだろ?」
「絶対にあり得ません」

とてつもなく冷えた声で即答されて、ビクッと体が震えた。
さっきまで楽しい色を見せていたエリカの表情は無だった。
まるで死人かと錯覚するほど、色もなく感情もない表情だ。

エリカは容姿がいいので異変はすぐに気づく。よく知らない人間が今のエリカを見れば、体調が悪いと思うが冬華は違う。
どう考えても家族関連で触れてほしくないと言わんばかりなのは一目瞭然だった。

冬華の視線に気づいたのか、エリカは慌てず何処か申し訳なさそうに微笑んで肩を落とした。

「家族当然の人からは呼ばれてました。けど・・・親からは絶対に呼ばれませんよ。あの人達は・・・呼ぶ事なんてないんですから・・・絶対に・・・・兎に角、エリカちゃんって名前で呼んでくれるの好きなんです。嬉しかったですから」

そう吐息のように言ってソファの方へ歩いて行った。
親については聞くのは憚れるが、今度親戚についてはなんとなく聞こうと思った。両親のことは兎も角、親戚に対する眼差しは幾分か違っていた。

だが親から名前で呼ばれない、なんていうのは本来あり得ない。唯ならぬ事情があるのは明白だが、冬華はあえて聞いたりはしない。
聞けば絶対に傷つくのは分っているからだ。

だからという訳ではないがーーーーーーー


「・・・エリカ」

だから冬華は話を逸らす為とかではなく、ただ自然と、今まで呼ぶことを躊躇ってきた名前を口にした。

ソファに座ろうとしたエリカは突如名前で呼ばれて振り返り、サファイアの瞳をパチリと瞬かせる。
驚いたというよりは、不意をつかれた、きょとんとした表情をしていた。

さっきまで暗い顔をしていたのが嘘のようになくっていた。機嫌が直ってくれてホッとするが、エリカを初めて名前で呼んだので少なからず気恥ずかしさはある。いや正確には昨日名前で呼んだみたいなのだが、冬華自身覚えていないのでノーカンだ。

「名前なんて呼ぶのは簡単だ。みんな遠慮してるだけなんだよ。俺も単に呼ぼうとしなかっただけだから・・・」
「それも、そうですね。ありがとうございます」
「どう、いたしまして」

普段誰彼構わず名前で呼ぶことに抵抗がない冬華だが、この時ばかりはかなり恥ずかしかった。
まぁでも、嫌がってはいないようなので助かった。

「・・・冬華くん」

さっきまで呼ばれていた名前なのに、何故か今のは驚かざるを得なくて思わずエリカの顔を真っ直ぐ見てしまい、冬華もまた、エリカと同じようにキョトンとした顔をした。

「二人でいる時にしか呼ばないで下さいね」
「分かってる。外では言ったりしねぇよ。俺が殺される」
「そ、それは言い過ぎでは?」
「お前は自分の人気ぶりを再認識しろ。下手すりゃ公開処刑になりかねん」
「き、気をつけます」
「俺も気をつけるよ」

とてもにこやかに笑っているエリカを冬華は直視する事が出来なくて、ただただキョトンとするしかできなかったが。

「これからも暫く宜しくお願いします」
「ああ」

短くかつぶっきらぼうに答えて、「コーヒー入れてくるわ」と言ってそのまま回れ右してキッチンに入った。
コーヒーを入れると言ったのはただの口実であり、エリカの顔をまともに見れなくなって逃げてきただけだ。

「・・・エリカ、か」

冬華は棚から物を取るふりをしてエリカに見えないように座り込んでエリカの名前を口にする。
落ち着かないし、そして同時に頭が痛かった。

エリカを名前で呼んだ時、確かに何か頭を刺激、というよりは、頭の奥にある記憶を刺激されたような感覚が走った。

しかし気になった程度で今の冬華には些細な事で、今は心臓の鼓動がうるさく、とても痛いという感情しかなくて、どうしようもないまま立ち上がってコーヒーを入れ始めた。





















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