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2章 天上天下、蠢動

13.悪魔の転生者と悪魔の転生者

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 平坦なこの世界にはと呼ばれる、誰も近づかない終点がある。
 日月じつげつの光と魔力すらも飲み込む闇が広がり、吸い込まれるような風とけだるさを与えるほど大食らいな風が吹き荒ぶ大地の淵だ。
 落ちてしまえば魂は消え去り、祖先と同じ墓には入れず、悪魔の手も届かないと言われているから、人も生物も決して近づかない。

 ストレーヴァ王国西部の果てでは1人の女が立ち竦んでいた。ぼろをまとった彼女は、大地から果てへ吹き下ろす風に体を揺らしながら、虚空を眺めていた。何もない真っ暗な空間。上空には日月じつげつが夜への準備を始めている。まだ朝の光が大地を照らしているのに、果ての底にも視線のその先にも届かない。

 あらゆるモノを食い尽くす風。常人ならば耐えられない。そんな場所で彼女が気にしているのは暗黒の果てだけだった。この先に求めるものがあるのか。それとも、本当に無なのか。そう考えながら一歩を踏み出そうとした時、森が音を立てた。
 吹きすさぶ風に木々が応えた、そんな優しい音ではない。重機が木々を根こそぎ押し倒すような、そんな轟音である。

 彼女が振り返ると土煙を上げ、大木がゆっくりと倒れていくところだった。何かが八つ当たりでもするように、乱立する木々は一本の道を作る。そしてその轟音と振動は迷うことなく彼女へ向かっている。
 だが彼女は、深淵を見つめた時と同じように、じっと何かを見極めようとしていた。細い体が風で吹き飛んでしまわない様にバランスを取りながら。

 そして最後の巨木が倒れた。

 長い鼻と巨大な体躯、四つ足で地面を揺らすマンモスのようなバケモノ。
 大きな牙と毛むくじゃらの体を上下させながら、ぼろをまとった彼女の元へゆっくりと近づいてく。天変地異を思わせる乱暴さは鳴りを潜め、随分と慎重に彼女の目前までやってくると、獣の周囲から漆黒の霧が立ち込めた。
 下草を飲み込みながら立ち昇る真っ黒な闇は獣を中心に真円を描き、拡大していく。ぼろ布を纏った彼女まで円が及ぶと獲物を仕留めるように一気に濃さを増した。

 するとドーム型に変形し一匹と1人を包み込んだ。

 果てに吹き下ろす風など意に介さず、半球の頂点から内側へ巻き込むようにそれぞれを覆い、一匹と1人は繭のような黒霧に包まれた。
 包み込む黒い繭が徐々に萎んで体にピタリと張り付き、輪郭を強調するように、更にキツく締め上げる。
 あれだけの大きさを誇った獣は黒霧に圧縮されながら随分と小さく細くなり、最後には、人間の彼女と変わらないシルエットを採った。

 締め付ける黒い霧は動きを止め、ぷっくりと膨らむと弾けた。

 荒れ狂う風が嘘のように、黒霧はゆったりと拡散した。黒い粒子が宙空で動きを止めると、主の元へと一気に収束する。
 主とは、人間の容姿を騙る獣だ。
 ブラウンの髪を撫で上げ、風ではためくシルクのネクタイを抑えた男の背中には、先ほどの黒霧が漆黒のマントとなって大人しくしている。

 果てを背に、男の真向いに立つ彼女も装いを変えていた。ぼろを脱ぎ捨て純潔である事を強調するかのように、極限まで白いドレスを身に纏っていた。桃色の髪から下がるヴェールで顔を隠し、素肌が晒される隙はない。

「こんなところまで来て、楽しかったですかあ?」

 憎々し気に悪魔は尋ねた。風で靡く漆黒のマントを鬱陶しそうにしながら。

「……みんな、最低」

 その言葉を聞き顔を綻ばせる。しかし、彼女に心情を気取られたくないのか、目元だけは悲しそうにしてみせた。

「辛かったんですねえ。では帰りましょう、王がお待ちですよお」

 一歩近づくと、彼女は半歩下がる。暗黒の果てに片足を放り出すのに後半歩。

「絶対に帰らない。お願いだから助けて。あなただけは優しかった、人間をちゃんと分かってる。ね、そうでしょう?」
「ええ、分かってますともお。さあ帰りましょう、危ないですよお」
「近づかないで!ねえお願いよ、見逃して。オーランドという町に転生者の集団がいるらしいの。お願いだから、その人たちに会うまでは……」

 彼女の言葉に、悪魔は顔を顰めた。愉快そうに笑っていた男の影はどこへやら、目を細め獲物を狙う獣の表情である。

 転生者の集団か、オーランドの。
 聞き出さないとなあ、私の王様のためにも。

 男の密かな決意が黒い影が伸ばした。薄暗い果てで、確かな黒みを帯びた影が彼女の足元へ到達すると、黒霧となって這い上がり、膝下まで飲み込んだ。
 二人を繋ぐ影が地面から浮かび上がり、主である男の手に握られ、細く心許なかった継糸から、彼女と男の関係を表すように手綱へと変貌した。

 すると、どんよりとした日月の魔力を切り裂く悲鳴が、大地の淵と世界の果てにこだました。

 バランスを失い、純白の乙女が果てへと倒れたのだ。
 黒い霧に足の自由を奪われ、成すすべもなく。
 それを眺める男の顔は、笑いとも泣きともつかない、三日月を目ん玉に貼り付けた冷徹なものだった。

 落下してすぐの、驚きが恐怖へと変わる前、背中から後頭部に強烈な衝撃が加わった。彼女の目の前に広がるのは闇。
 落下しているのだろうか。びゅうびゅうと煩い風は、地上にいる時と変わらない。
 もう死んだのだろうか。今聞こえるこの音は、地獄の嘆きかもしれない。
 女は走馬灯も消す闇だけを見て、前後不覚で生死の判別すらつかない状態で、果ての上でぶら下がっていた。

 片や、果ての大地にいる男は黒い手綱を握り、岸壁ににじり寄って、果ての底を覗き込んでいた。

「マルカーヴァにいる転生者集団」

 聞き捨てならない。

 その集団とやらもこの彼女も取るに足らない、いつでも殺せるくだらない生き物だ。しかし、その集団にかなり入れ込んでいるという悪魔が問題なのだ。その悪魔、もとい王の品性は嫌っていたがその実力は認めていた。その悪魔が天下に召喚され数年。天上へ帰ってきていない。蓋を開けてみれば、転生者たちを囲って何やら画策している様子。
 そして、女の言葉に含まれた希望。
 そこに行けば助かるとでも言いたげな、甘ったるい考えが透けていた。

 上手いこと立ち回るその悪魔に、これ以上好きにはさせられない。


 手首を返すと、釣り上げられた可哀想な人魚が大地の淵へ飛び乗った。腕を縮こませて受け身を取った真っ白な人魚は、目を瞬き必死に状況を理解しようと励んでいた。

「君を殺すのは簡単だよお。さて質問だあ。その転生者集団のこと、誰から聞いたのお?」
「わ、わたし、落ちたんじゃ」

 道草を食う我が子の手を引っ張るように、彼は手綱を軽く振った。

 しなる綱の波が地面を砕き、彼女目掛けてじりじりと流れていく。
 さながら、死を刻む時限爆弾。
 波が彼女へ到達すると脚から頭まで波が伝わり、体がピンポン玉のように跳ね上がった。
 くぐもった呻きが上空へ舞い、鈍く地面にぶつかると、彼は再び問いかける。

「マルカーヴァの転生者集団、誰から聞いたのお?後2回で死ぬよお」

 仰向けに落下して背中を強打した上に、呼吸もままならないようで、女は手を上げ猶予を求めた。言うから待ってくれと。

 人間は脆いから、少しだけ待ってやろうか。
 急を要するわけでもない。侮られたわけでも、バカにされたわけでもない。
 余裕が優しさを作ったのだ。

 しかしそんな優しさも、容易く塗り替えられた。忌々しい同輩たちからの言葉で。
「人間に優しくして、何がしたいの?」
 彼女が静止を求める姿に、嘲笑を受けた忌々しい記憶が頭を過る。

 彼の中にいる王は優しく、そして苛烈だ。その至高には未だ届かないし、届くことはないだろう。だが憧れの御方に近づこうと努力している。
 ただ優しいのではない。
 優しく苛烈、それが正当なのだ。
 そうあろうと励んでいるのに、理性なく向上心もない、欲望だけで構成された愚物共の顔がチラつき、感情は曇っていく。

 何も分かっていない、馬鹿な悪魔どもが…………。
 女を見つめる優しい笑みがグニャリと曲がった。

「はっ、はっ、わ私が」

 呼吸のリズムを取り戻した女が、どうにか喋りだした途端、男は手首を動かした。
 それは調教師が与える鞭だった。

 先程よりも弱々しい波が地面をえぐり、彼女へ届いた。

 ポキッ――――。

 足の指は砕かれ脛は枝のように折れる。

 バギッ――――。

 強引な力で両膝が外れ、肉と皮膚が上半身へとその力を伝えた。奇妙な踊りで頭部を地面に打ち付け、反動で高く上空へ舞い、小さなうめきと共に再び地面に衝突した。

 悲運にも彼女には意識が残っていた。手を震わせながらも、地面を握りしめ激痛に堪えようともがいている。

「最後だよお。マルカーヴァの転生者集団の事は、どこで聞きつけたのかなあ?」
「……です」
「んん?」
「お、男の人です。宝石とか、貴金属とか、たく、たくさん、身に着けた、男の人です」

 赤茶けた純白のドレス。それ以上に白い頬に手を当て首を傾げる男。
 一頻り考え、挑戦的に口を開いた。

「メリットの見込めない仕事を、頼まれてもいないのに請け負う理由は?敵対だよねえ」

 特段答えを求めているわけでもない。
 王はよく、こういう問答をするから。それだけの理由で尋ねたに過ぎない。

 呻きながら浅く速い息を必死に殺そうとしている。どうやら彼女に答える気がなさそうなのを見て、男はため息をついた。

「君に聞いているんだよお?どう思う?」

 喘鳴の中、女は細い声で答える。

「はい」
「敵対ってことお?」
「……はい」
「そうだよねえ。そして君は、そちら側につこうとしたんだねえ」
「…………ます」
「んん?なにい?」
「…………す」

 男は辛うじて動く彼女の背中を見て、脆いなと感じていた。自分ならば、王の喜悦の為、もっと頑張れるのに、なぜ人間なのだろうかと、心底疑問に思っていた。そして、このまま見殺しにしてやろうかとも考えたが、諦めた。「あの奴隷を連れてきて」という命令を頂いていたからだ。

 黒い綱が縮まり、彼女はズルズルと男の元へと引きずられていく。随分と汚れてしまったドレスに、足跡をつけて彼女をひっくり返す。そばかすだらけの顔は血の気がなく、小さな唇は紫色になり、呼吸は小さくなる一方。
 ため息をつくと、彼女へと手を翳した。

治癒キュア

 彼女の周囲は仄かに明るくなるも、果てに吸い込まれるようにすぐに消えてしまった。
 果てを忌々しげに一瞥すると再び魔法をかけた。
 しかし、果てへと光が流れていく。男は手綱を握り舌打ちをした。
 髪を撫でつけ、呼吸を整えて怒りを鎮め、手綱を手放した。
 この魔法では転生者に効かないと思い至ったからだ。

 膝下を包んでいた黒い霧は、粘性の生物を彷彿とさせる動きで彼女の全身を包み込んでいく。

治癒クーラ

 どす黒い霧が僅かに震え、ピタリと止まった。
 男が手のひらを差し出すと黒い霧が吸い込まれていく。
 墨のように黒い霧が男の手に消えたあと、残ったのは意識を失った彼女だった。
 ドレスは白さを取り戻し、血色は良く、疲れて木陰で休む、家出したどこかのご令嬢のように寝息を立てている。

「まったくう」

 両手を思い切り合わせた音が、世界の果てに轟いた。
 彼女の体がびくんと跳ね、慌てて飛び起きると、男を見てあからさまに視線を落とした。夢だと思いたかった、そんな面持ちだ。

「帰るよお。悪魔の魔法を要求するなんて、転生者はなかなか良いご身分だねえ」

 自身の魔力を使うハメになり、自業自得という言葉を思い出した男は彼女をなじる。ちょこんと針で突き刺した程度の言葉遊びだというのに、彼女の反応は大袈裟で、ビクビクと震えて俯くだけ。

 張り合いのない態度に辟易した男は目を閉じた。歩いて帰るのは時間がかかる。元の姿に戻って人間を背に乗せるというのも絶対に嫌だったので、ある悪魔のある能力を使うことにした。
 深く深呼吸して意識をその悪魔に集中させる。ミシミシと体が音を立て、変化を感じると目を開けた。この変化にもどうせ怯えているのだろう彼女には目もくれず、カウントを始める。

『変位』

 変位した先は彼の王が居城とする場所だった。ここが決まるまでは、王都の別邸を与えられていたが、この屋敷の主が死んだということで移り住んだ場所である。

「お帰りなさいませ」
「王はお愉しみかなあ?」
「は、はい。大広間」
「はいはーい」

 老執事の言葉を待たず、軽い足取りで大広間へと向かう。女の遅々とした足取りを待たず、肩口を掴み引き摺るように廊下を歩く。

 ホコリ一つなく、窓には指紋一つない。点々と灯る明かりは行く先を照らし、絶叫と哄笑が扉を突き破り響き渡っていた。

 狂ったような笑い声と悲鳴が漏れる両開きの扉。
 男は薄い笑みを浮かべると、バタンッと乱暴に開け放った。
 足早に広間中央へ行くと、女を転がし、マントを靡かせながら跪く。

「王さま、連れて参りましたあ」
「ヒャハハハ!見て!見て!ワインをボトルで!」

 耳には釘を。
 鼻には蝋燭を。
 穴という穴に異物を詰め込まれた、太ったメイド服の女性は、口からワインボトルの底を出して跳ねていた。
 空中で仰向けになり、声帯の代わりに全身の筋肉が悲鳴を上げている。

 壁際ではタキシードの男やメイド服の女が、涙を零し、吐瀉物を零し、小便を零し、大口を開けて絶叫のような笑い声を響かせていた。

「私は仲間はずれですか、少し寂しいですう」

 男が親しげに語りかけたのは、愛くるしい笑顔を咲かせる少年だった。
 しかし、寂しいという言葉を聞いて、細い瞳が更に細まり悲しげな表情で唇を尖らせた。

「ごめんね。君を仲間ハズレなんて、本当にごめんなさい」

 タッと駆け出した少年は、跪く男へと飛び込んだ。そして男は待ってましたとばかりに少年を抱きしめる。
 肩に顔を埋め、高い鼻を首筋に押し付け、目を潤ませ、紅潮した頬を少年へ擦り付けて。
 そして大きく息を吸い込む。何度も何度も、過呼吸になろうかという勢いで繰り返し息を吸い込み、目を充血させながら、ギチギチと音を立てるほど強く抱きしめる。

「ラビー?ハアハアしてるねハアハア」
「王さまと離れて淋しくてえ」
「ヒャハハハ。お部屋行こう!お部屋!」

 少年を抱きしめたまま立ち上がると、堰を切ったように走り出した。羽が生えたように軽い足が扉を越えようかというその時、王と呼ばれた少年は思い出したかのように制止をかけた。

「あっ!待って!」
「ふぇぇ?」

 情けない声を漏らした男の頭を小さな手で撫でながら、広間で震えてへたり込む、純白のドレスの女性へ視線を移した。

「君、逃げたんだよね?何だっけ、名前は何だっけ?」
「あ、杏渡優あんどうさえ、です」
「ふ~ん、全然ピンと来ないや。シトリー!逃げないように見張っててね!絶対に逃げないようにね!」

 しっとりと固めた灰色の髪が後ろへ流れ、犬歯が目立つ口にはタバコを咥え、胸と股間を隠すだけの布を纏った女性は、2度頷くとめんどくさそうにあくびをした。

「じゃあ行ってくるね!行ってくる!」

 無邪気な子供が手を振り、それを抱えた男は全力で走り去る。そうして広間には静寂が広がった。浮いたままの女性は、もはや動いていない。王が去るまで、大口を開けて笑っていた5人の従者たちは、糸が切れたように崩れ落ちて、ぶるぶると震えるばかり。

 純白のドレスで着飾る女性は姿勢を正した。両膝を付き、背筋を伸ばし、手を合わせた。死者への弔いではない。これから受ける罰が、これ程までに酷く恐ろしいものではないことを、祈っていたのだ。

 種々の反応を広間の片隅で眺めていたグレーヘアの女性は、口を開いた。

「何してんの?」

 広間中の視線が集まる。誰への問いなのか、それが自分達の命運を分けると知っているからだ。

「アンタだよ」

 顎で示したのはドレスの女性、さえだった。

「こ、これは、祈っていました」
「へぇー。誰に?」
「故郷の神様に、です」
「かみさま?何それ」
「……救いを与えてくれる、方です」
「ん?あ、そう。で、救われた?」
「わ、分かりません。これから分かります」
「あっそ」



 意地らしいベルトを外し、カラーを投げ捨て、ボタンを引き千切り、すっかり身軽になったブラウンの髪の男は、ベッドの横で跪いていた。

「デカラビア君!」
「はい!王様あ!」
「あ~んして」
「はい!あ~、あっ!王様、今日は能力を使わずに、シテいただけませんかあ」
「えー、何でー?」
「ご心配なくう。私は王様の寵愛を頂けるだけで幸せなのですう。必ず笑い続けましょう」
「ハハッ。怖い顔したら能力使うからね」
「はい!あ~ん」

 苦痛に満ちた幸せな笑い声が王の寝室から絶え間なく漏れた後、ベッドで寝転ぶ血みどろの悪魔は笑顔だった。
 白かった寝具は真っ赤に染まり、白を探すのが難しいほど、鮮血で染め上げられていた。

 そこで仲睦まじく横になる少年と男は、余韻に身を浸していた。

 肩口の穴に指を突っ込みペロペロと指を舐める王は、震える息を押し殺し純真な笑顔を咲かせるデカラビアを愛おしそうに撫で、貪るように唇を奪い、噛み切った。

「ハハハ、おうひゃま!はだ足りないのですねえ?」
「ヒャハハハ!ラビが死んじゃいそうだから、もう終わり!終わりー!」

 ゴクリと喉を鳴らすと、デカラビアの頬に手を添え、優しい口づけをした。欠けた下唇を舌で優しく撫でると黒い霧が王のマントから広がり、二人を包む。

「王様、これは」
「ご褒美だよー、ご褒美!いつもありがとうね」

 黒い繭が王のマントへ還ると、すっかり傷の治ったデカラビアが驚いた表情で固まっていた。
 笑顔の王を食い入るように見つめ、目に涙をためて、そして、みるみる顔を歪ませる。
 おんおんと子供のように泣きながら、背の低い王を抱きしめて、髪の毛に顔面を擦りつけた。

「よしよし。あんまりスーハースーハーしないでー」
「ん申し、わけ、ハアハアありません」

 顔を上げたデカラビアの顔は、恍惚と感動が入り混じっていた。久々の再開、3日ぶりの再開に箍が外れてしまっていたのだ。

「王様、あの人間は何をしたのです?私を待てない程とは」
「だってさー、あいつら盗んだんだよ」
「盗んだあ?何をですう?」
「釘でしょー?蝋燭、ワイン、靴にナイフ」
「彼女は何をしたのですう?」
「アイツは何も知らない新人だよ。そういうのが効くかなーと思ってさ」
「それでは効果が無いのでは?新人を使い潰そうと考えるかもしれません」
「んー、そうなのかなー?人間は妊婦を大事にするんでしょ?これで効かなかったら、別の方法を探すよ」
「妊婦、なるほどお。ただのデブかと思っていましたあ」
「ちゃんと子供も死ぬように、アッチは」
「ナイフですねえ?さすがです、私の王様あ!」
「ありがとー!ラビーー!!ありがとー!」

 元は王族の屋敷だった巨大な邸宅は、2人の悪魔によって夜半中軋み続けた。愛し合うなんて生易しく美化できる営みなどそこにはない。思いやりを持って優しさを持って心を溶かし合う正道とは程遠い閨の仲。

 互いの精気を貪り、互いの限界に挑戦し、互いの仮面を剥がし合う、グロテスクな狂気が彼らの愛であり、止めどない欲望が表出し肉体と精神を削り合うだけの殺し・殺されたがる嵐の中の大航海。
 船乗りは2人だけ。
 吹き荒れる雷雨暴風の中、あらん限りの魔力を吐き出し、真っ赤な大波に体を揺らし、明日を忘れる暴力で大切な唯一の男を壊し続け、昨日を忘れるほどの沸騰する衝動の底の底を浚い続け、くたびれた脳みそが溺れるぐらいの苦痛と劣情で満たし合う。
 強固な依存は肉体的な凸と凹で生まれるのではない。この2人がそうであるように。



 上機嫌のデカラビアと共に広間へ入ると、隅には無数の吸い殻と灰がこんもりと盛られていた。

「忘れてた?」

 紫煙をくゆらせる銀髪のシトリーは、眉をへの字に曲げて鋭く言い放った。

 デカラビアが「あっ」と声を漏らして思い出したのは、転生者を見張っておけと命じた昨日のことだった。

「――――う、うん。ごめんね、本当にごめんね」
「うい」

 ピンッと短い煙草を捨てながら、顎をしゃくったので、どうやら怒ってはいないようだ。

 昨日よりも少しやつれた王は、申し訳なさそうに謝罪すると唯一の椅子に腰掛けた。

「ごほんっ。死体は燃やしてしまいますかあ?」
「あ、ああ、そうだね。うん、そうだね」

「火事になるから外でな」

 お前には言われたくない!と二人は思っていたが、大人しく頷いた。
 今日は召喚主がやってくる大事な日だから、彼女を不機嫌にすると、自分たちの身が危ういのだ。罷り間違って召喚主に唾を掛けようものなら、一瞬で天上へと還されて、天下での活動ができなくなってしまう。第3位から位階を上げるチャンスが、シトリーのご機嫌が斜めという理由でパチンと弾けてしまうのだ。

 だからデカラビアは、異物を詰め込まれた浮き死体を、楽しげな風船のように大人しく引っ張っていこうとした。
 両開きの扉を開けて玄関を抜けて、門を抜けたその辺で、煙草の灰ぐらい風に飛ばされやすく燃やしてやろうとしたが、そうもいかない事態が訪れた。

 死体の髪の毛を掴んだら、廊下の奥から何かをぶち破る音が響き、お次はミンチ肉をまな板へ叩きつけるような音、そして馬が駆け、廊下からこの部屋の扉の前では、床を引き剥がしてへし折るような音が響いたのだ。

 バタンッ!

 開いた扉の先に居たのは、真っ赤な体のポニーに跨がる、ツンツン頭の青年だった。浅黒い上半身に鮮血と脂を付けて慌てた表情で広間へ上がり込んだ。

「おおぉ!バルベリト君、久しぶりだね!久しぶり!」
「ヒィーヤッ!どうも王様。1週間ぶりですか」
「そうだね!それよりも慌ててどうしたの?どうした?」
「ああそうだ。我が王よっ!」

 思い出したかのように背筋を伸ばすと、仰々しく配下然とした態度に戻った。

「第12位階の王、ウヴァルがブルッファーヴァに現れました!」
「――――へぇ」

 三日月の口から細い声を漏らし、眦を静かに落とした。

 ※※※

「第3位階の王アエーシュマ様、此度のお目通りに感謝致します」
「はいはい。要件はなーに?」

 少年と机を挟んで向かい合うのは、この国の宰相であるミョルマン・ランドバルド公。側仕えの騎士は、三本の剣が花開く紋章を輝かせ、堂々とした佇まいで控えている。

「如何お過ごしですかな?この屋敷はかつて、エドモンド殿下が……」
「人間てさ、そんなに余裕があるの?」
「はっ?余裕ですか?」
「すぐ死ぬでしょ。時間を無駄にしたら勿体ないよ」
「――――はい」

 アエーシュマの表情は、いたって真剣そのもの。本当に心配だと、薄い眉根を山にして額にしわを作っていた。
 見掛けはただの少年に、時間の大切さを説かれた55歳の若宰相は、頬をピクつかせて居住まいを正す。
 咳払いで気を取り直し、率直に少年と向き合った。

「では端的に申し上げましょう。エーレンハウ、ターヌマエの両州まで敵を追い返しましたが、奪還は未だ叶わず。いつになれば貴方様は動くのでしょう」
「まーだ早いと思うなー」
「遅すぎるぐらいでしょう。何人もの騎士が死んでいるのですよ?」
「ふーむ。騎士だけ?平民は数えないの?」
「言葉の綾です。国民とでも言い換えてください」
「僕たちを呼ぶために、国民を何人殺したのー?それに比べたら、今死んでる数なんてどうでも良くないかな?」
「どうでも良くないからこうして参ったのです」

 暖炉が爆ぜる冬の応接間にて、大の男たちは額に汗を滲ませて、カチカチと奥歯を鳴らし、柄に手をかけていた。
 火花散る視線を見守る騎士は、ビリビリする鎧が物語る圧倒的な魔力を前に、近衛騎士として臨戦態勢だった。

「さすが政治家、肝が座ってるね」
「お褒めに預かり光栄でございますな」

 視線がぶつかる最中、悪魔たちは騎士とは対照的だった。
 デカラビアは、アエーシュマの隣に陣取り、頬杖をついてその横顔を鑑賞していた。モデルに見惚れた絵師のように、物憂げに妄想を膨らませて、小鼻も膨らませて、彼の視界には人間の存在がないようだ。

 ポニーを撫でるバルベリトは、灰色頭のシトリーへと近況を語っていた。痩せこけたウヴァルが如何に貧相だったか、オーランド市にいる転生者の集団は取るに足らないだとか、マモンが何をしたいのか理解できないだとかを、無表情のサンドバッグと化したシトリーへ浴びせかけ、こちらもまた人間への興味が皆無。

 しかし、宰相のある言葉によって、応接間の様相は一変した。

「んー、期限は決めないよ?召喚の時に君たちが決めなかったんだから、変更するなら対価を頂戴よ」
「――――権限ですか。私共が与えられるのは、国内の自由移動のみだと申したはずです。これ以上はありません」
「あるよ。市民を徴兵する権限とか、騎士を動員する権限とか」
「そっ、そんなバカなこと……」
「嫌なら待っててよ。1年以内には全部終わらせるからさ」
「軍事指揮権だけが望みなのですか?」
「まあね。それ以外は自分で手に入れるよ」
「――――ならば、交渉は決裂ですな」
「そうだね。えーっと……」
「ランドバルドです。こうなれば、奴らの力を借りるしか…………」
「奴ら?他にアテがあるの?」
「ええ、オーランドという街に異人共が居りましてな」

「オーランド?」

 バルベリトの声が消え、デカラビアの上気した熱が冷め、シトリーは宰相を見据えて小首を傾げた。
 彼らの王であるアエーシュマは、小さな拳に顎を乗せて天井を眺めている。

 意識の埒外から一転、その的になった人間たちは、背骨から体を震わせ、顔面から赤みが引いていった。

 魔力ではない。
 小賢しい敵の尖兵が話題に登り、少しだけ殺気が立っただけ。それが、この応接間では一大事だった。

 宰相はパクパクと口を動かしているが、声が出てこない。薄っすらと涙さえ浮かべて、向かいに座るアエーシュマへと手を伸ばす。
 その様は、道端に落ちた一欠のパンへ手を伸ばす乞食だった。

「ふーん。彼らは何を対価に動くのかなー」
「はっ…………はく…………は」
「ああ、ごめんね。ランド君が怖がってるから、みんな落ち着いてくれる?」

 その言葉で、悪魔たちの殺気が沈んでいった。
 拘束する縄が解けたように、騎士たちは突如として剣を抜き放ち、身構えた。
 しかし震える鋒では牽制にも脅しにもならない。

「はあ、はあ、はあ。止めなさい……止めろ!」

 言葉を取り戻したランドバルドの怒声が響く。立ち上がって騎士の腕を掴む表情は、政治家のポーカーフェイスをかなぐり捨てた鬼気迫るものだった。

 一国の宰相を守るという責務から抜いた剣ではない。恐怖から身を守る剣だ。
 ついさっきまでは、殺気で身動きすら取れなかった彼らの精神は、宰相という高貴な男の言葉ではなく、感情を露わにした同じ人間の言葉によって、落ち着きを取り戻した。

 悪魔へ剣を向ける行為が如何に愚かなのか。
 召喚主たる宰相が殺される事はないにしても、魔法や殺気で平静を忘れた動物に成り下がる危険はある。
 その盾となる覚悟で、騎士たちはやってきたのだ。

 この剣が悪魔の逆鱗に触れれば、その任すらも遂げられず、肉壁の覚悟ごと鏖殺されるだろう。
 宰相の言葉と表情は、騎士たちの働き出した脳みそに剣を仕舞うことが得策だと結論を導かせた。

「いいよいいよ。そっちが落ち着くならご自由にね」

 余裕綽々な少年の言葉に、騎士や宰相のメンツは潰された。
 悪魔といえども、王である。
 御前で抜き身を見せ、鋒を向けたのだから、怒り狂ってもおかしくない。即時処刑を覚悟せねばならない蛮行である。
 しかし、当の本人は軽く微笑みかけるばかり。
 騎士たちは、手の震えが治まらず、剣を戻すことさえできていないというのに。

 少年のそれは、生まれたての赤ん坊へ向けるものであり、勇敢な近衛騎士と国王の最側近へ向けられるものではなかった。

 それが意地に火をつけた。

 宰相として、一国の政治家として、一人の男として、ランドバルドはハンカチーフで汗を拭うと腰掛けた。未だに死人のような青さではあるが、国を背負うには十分な気概が表情に表れている。

 カチカチと剣身と鞘をぶつけながら、指を切り血を流しながら、なんとか剣を収めた騎士たちは、恭しく頭を下げて、本来いるべき場所へと下がった。

 メンツを潰されても、敢えてらしく振る舞うのは、男として仕事人としてのプライドからだった。

「し、失礼致しました。何卒ご容赦を」
「うんうん、気にしてないよー。それで、彼らが求める対価はなに?」
「金でございます」
「ふーん」
「アエーシュマ様、1つ伺っても?」
「どうぞ」
「その……オーランドの転生者に因縁でもお有りですかな?」

 アエーシュマは口角をグニャリと曲げた。

「ないよー。仲良くしたいだけ」

 宰相の乾いた笑いが応接間に広がり、第3位階王とマルカーヴァ宰相との懇談はお開きとなった。

 精根尽き果てた彼らは、馬車に乗り込み冷たい風を感じていた。寒さが厳しくなってきたマルカーヴァ。田舎では家に閉じこもり、絶やさず火を灯す時候だ。

 宰相は、整備された道行きで窓から吹き込む寒風を浴びていた。白髪混じりの苦労を靡かせながらポツリと呟く。隣に座る騎士にも聞こえない、小さな声で。

「転生者か」
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