崩壊のディストピア

光屋尭

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第1話「陰陽が映す日常」

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 ――― 20■■年03月20日 AM06時15分 ―――



「朝ごはんできたよー! 起きてるー? ウタ―? そろそろ起きないと遅刻するよー?」

 1階から聞こえた声は2階で眠る家族へ、少女へ向けられたものだった。

「うぅん、ふぁーい」

 その少女、和葉詩は寝起きの気だるさに抵抗しながら振り絞れるだけの声で返事をし、毛布から抜け出そうとする。
 でも、抵抗できたのはそこまでだった。

「やっぱり、あと5分」

 瞼を下ろして睡魔に身を委ね、二度寝へと突入した。
 詩は、どこにでもいそうな高校2年生の女子高生だ。
 栗色の髪は肩よりも少し長く、ベイビーフェイスの顔立ちは実年齢より低く見られてしまうほどのあどけなさが残っている。
 平均的な女子高生よりも小さい身体がより幼い印象を助長させていた。反して、寝返りを打つと不釣り合いに豊かな胸が蠱惑的な揺れを再現しながら張りと弾力で元の美しい形に戻る。
 パジャマは胸の下までボタンが外されており、瑞々しい柔肌と鎖骨、たわわな実りが際どいラインまで曝け出されていた。
 大胆な寝姿になってしまっているのは、胸の成長のせいでパジャマのサイズが合わず、ボタンを掛けると息苦しくて眠れないからだ。

「ウーター? 起きないと悪戯しちゃうぞー?」

 そんな無防備な寝姿を晒す詩の部屋の扉がわずかに開けられ、隙間から琥珀色の瞳が中を覗いていた。
 反応がないと見るや音もなく侵入してきたのは、学校の制服を着たまた別の魅力的な女子高生だった。
 白銀の髪は右側が長いアシンメトリーであり、肌の色は相反する褐色。
 出るべきは出て引っ込むべきは引っ込んでいる良い肉付きの体躯は、詩と同年にしては身長も高く、足も脚線美を映すほど長いモデル体型だ。
 顔は整ってはいるが詩とは似ておらず、血が繋がっていない事を語っていた。
 所奈美カノン。彼女は詩と同じ天井の下で暮らす同居人であり、この世で唯一の家族でもある少女だった。
 
「あーもう、また夜ブラしないで寝てるよこの子は。おっぱいが風邪引いちゃうって、せっかく良い形もしてるのに」

 カノンはカーテンを開けて朝日を入れ込んでから詩の傍に座ると、あられもない姿で寝ている彼女に毛布を胸の上まで被せる。
 ボタンを掛けない理由は理解しており、無理に整わせる気はなかった。
 カノンが詩を見る眼差しは慈愛に満ちており、ただの同居人というよりも可愛い妹を見守る姉のような、それ以上の特別な感情を持っているのがわかった。
 窓から差し込む朝日が部屋を照らし、影を生んでいる。
 闇と光。陰と陽。表裏一体という数多ある世界の理の一片が満たされた部屋では、全ての現実は明暗の元に区別され、狭間に巣食う存在を炙り出す。
 カノンの人影。
 彼女の影、その背中には骨だけで形成された歪んだ翼が、頭と尻には獣の耳と尾に似ている身体的特徴が繋がっているように見えた。
 だが、光に当たっている当の彼女はごく普通の人間だった。

「カノン」

「なあに?」

 詩がカノンの名前を呼んだのは寝言だった。わかっている上で応えていた。
 どんな夢を見始めてしまったのかは悲しそうな表情から想像でき、カノンは慣れた手付きで指を絡ませて恋人繋ぎをする。
 小さい頃から詩は精神的に不安的になった時、誰かと手を繋いでいると安心して落ち着きやすくなるのを知っているからだった。

「1人に、しないで・・・・・・」

「しないよ。私はここにいる、私だけはずっと一緒にいるから」

「お父さん、お母さん」

 詩の目尻から涙が頬を伝い落ちる。
 言葉が全てを物語っているように、まだ、彼女の心の底には理不尽な悲劇が傷口から血を滲ませているようだった。

「大丈夫だよ、もうウタを悲しませない。私はそのためにいる、だから笑ってごらん?」

 優しく囁きかけながら、カノンは覆いかぶさると首筋に軽くキスをする。

「んっ」

 不意な刺激への反応を無視して唇で啄ばみながら肌をなぞり、頬まで到達すると涙を軽く舌で舐めて拭った。
 涙の味と意味を共有する、慰めのための行為だった。
 すると、悲しい夢は終わったのか詩はくすぐったそうに笑顔になり、安心した寝顔に戻る。
 穏やかな寝息と表情になった髪を、カノンは愛おしそうに撫でた。

「そう良い子だね。悪い夢は忘れてしまえばいいんだよ・・・・・・・さてと、可愛い寝顔も堪能したし、そろそろ起こしますか」

 6時20分を回った時計を横目で見やると、詩を起こさないように慎重にお腹に馬乗りをする。
 詩の枕元には開いたままのファッション雑誌と、便箋から出されて広げられた複数の手紙、充電器に繋がれてSNSアプリの画面が表示されたままのスマートフォン、ペンダント型の懐中時計が置いてあった。

「まったくこの子は」

 呆れたように起きない理由を悟りながらも両手の指をいやらしく動かす。

「強制目覚まし擽りの刑、3秒前、サーン、ニーイ」

 カノンの瞳からはさっきまでの慈愛の感情が消え、代わりに悪戯心に満ち、口元も相応ににやけていた。
そして、カウントダウンが数え終わる。

「イーチ、ゼーロー。ウター? ちゃんと起きないとくすぐっちゃうぞー! こーちょこちょこちょこちょ!」

「うにゃ!? にゃあああああん! えへ、えへ、あはははははは! や、やめてカノン! もう起きたから! 目が覚めましたから!」

 刺激的な感触に身体を仰け反らせて起きた詩は、状況を理解して必死にマウントから脱出しようとするもカノンの方が何枚も上手であり、されるがままに弄ばれて逃げられない。

「だーめー! もう今月だけで何度目の寝坊だと思ってるの? だから今日は擽りの刑! 覚悟しろー!」

「あひゃあ! うふふふ、ひんっ! ちょっとどこまさぐってるの! やめて、そこは弱くて敏感だから、ひゃあっ!」

「いいではないかー、いいではないかー」

「あはははは! んっ! あ、あひひにゃはははははは! ひんっ! にゃあああああん! もうやめてぇえええええええ!」

 早朝、少女2人が住むマンションの部屋からは、笑い声と甘い声が響いていたという。

「ごめんなさいぃいいい! これからはちゃんと1人で起きるからああああああ!」

 こうして、詩の日常は始まりを告げる。



                       ○ ○ ○



「朝から、酷い目にあった・・・・・・」

「最近ずっと夜遅くまで起きてるでしょ、自業自得だよ。はい牛乳」

「はーい、反省します。ありがとう、カノン」

「どういたしまして」

 詩が感謝をすればカノンは優しい面持ちで受け入れて微笑みを返す。
 寝起きの擽り攻撃によってやつれ気味の詩だったが、大好物であり、出来立ての定番朝食であるパズーパンを頬張り、コップ一杯の牛乳を飲んで削られた気力を回復させる。
 パズーパンは海外でも有名なアニメ映画の主人公が食べていたパンに眼玉焼きを乗せただけの簡単な料理だったが、それをカノンがアレンジして朝食として出したところ、詩が気に入り、定番の朝食となった。
 小麦色になる絶妙な加減で焼かれた食パンは、マーガリンを塗られると表面を黄金色に艶めかせ、香ばしい匂いと共に朝の寂しい胃袋に食欲をそそらせる。
 その上に、黒コショウをまぶした目玉焼きを乗せて噛み締めてみれば、サクサクした食感にマーガリンによって旨味を加えられたパンと黒コショウのスパイスを含んだ目玉焼きとのタブルパンチが味蕾に吸い付く美味しさを楽しませてくれる。

「ご馳走様でした。やっぱりカノンの作るパズーパンは美味しいね、大好き!」

「お粗末様でした、食器は洗っておくから着替えてきなよ」

「はーい」

 カノンに甘えてテーブルに置いていた懐中時計を持って洗面所に向かう。
 顔を洗い、パジャマを脱いでブラジャーを付ける。

「あれ?」

 嫌な予感がしたが無視をして制服で身を包み、梳かした髪をおさげに纏める。
 詩たちが通っている高校の制服は黒色を基調にしたブレザーとプリーツスカートのセットで、女子はリボンかネクタイかどちらかを選択できる。
 2年生の学年色である赤いリボンの傾きを直していると、嫌な予感の正体である窮屈さを感じる、制服を持ち上げる胸に視線を落とした。
 おもむろに両手で胸を持ち上げてみる。

「やっぱりまた大きくなってる、よね? また色々と買い替えないといけないの、可愛くて気に入ってたのに・・・・・・でも、もうボタン外さないときついし・・・・・・・・・・・・」

 大きく育つ胸は詩のコンプレックスだった。
 どうせならカノンのように身長にも栄養が回って欲しいと願ってはいるものの、現実には何も反映されていない。
 コンプレックスが成長する弊害として敏感な年齢の悩みもあるが、最も気にするのは金銭面の問題だった。
 詩とカノンはアパートで2人暮らしをしており、両親は共にいない。彼女たちは生まれて間もなく児童保護施設に預けられた孤児だ。
 2人は親の顔を知らずに育った似通う境遇と幼い頃は病弱だった詩をカノンが良く面倒を見ていたのもあり、気づけば同じ歳だが姉妹のように仲良くなり、いつも一緒に居るようになった。
 現在のアパートは高校進学を機に引っ越した新居で、施設から自立したいという詩の気持ちにカノンも共感して今の形になった。
 というのも、詩たちの世話になった施設は政府から支給される運営費と善意ある協力者からの寄付金だけで成り立っており、資金も人手も常に不足していた。
 幼い頃から、保護者代わりになってくれている職員が毎日大変そうにしているのはわかっていた。だから、  アルバイトが可能になる年齢になったら自立をして少しでも施設の負担を減らそうと、これまで育ててくれた 恩返しをしていこうと考えた結果だった。
 たまには施設に帰り、手伝いをしている。
 SNSや文通を使って始めた子どもたち向けの相談室の真似事は意外と人気があって、詩の夜更かしが増えた嬉しい原因になっている。
 毎月、アルバイトで作った貯金から寄付金の形で仕送りもしている。
 しかしアルバイトは安定している訳ではなく、仕送りできない時もあれば、多感な時期の彼女たちには誘惑も多くて無駄遣いをしてしまう時だってたまにはある。
 欲しい物を言い出せばきりがない、サイズが合わなくなったパジャマや下着を買い替えたいのもそうだ。
 お金は生活するために必要な物だ。
 やりたい事があったとしても生活がままならなければ生きていけない、でも、やりたい事をやれなければ自立した意味がない。
 両立させる結果のために、どちらかを犠牲にしなければならない。
 節約などで努力はしているつもりだが、詩が思い描いた理想の生活と現実はかけ離れていて、もどかしさと罪悪感を抱えてしまう。 
 それが詩の悩みの根っこだった。

「ねえ、カノン」

「なに?」

「ごめん、やっぱりなんでもない」

「そうなの? わかった」

 新しいパジャマと下着を買う相談をしようとして、やめて洗面所に戻る。
 カノンの顔を見たら、余計に罪悪感が強くなってしまったからだった。
 詩にとってカノンは特別だ。
 親友でもあり、頼れるしっかり者の姉のようでもあり、血の繋がりなんて関係ない家族のような人。
 小さい頃、熱でうなされて、苦しさと寂しさに泣きそうになった時は必ず彼女は傍に居て手を握っていてくれた。それだけじゃなく、彼女はいつも詩を気にかけてくれて困っていたら助けてくれた。
 カノンがいなかったら今の生活も続けられていたかもわからない。
 自立の発案者は詩だ、カノンはそんな詩の我儘に付き合ってくれている。
 そんな自分の我儘が彼女の負担になると考えると、胸の奥が軋む痛みを感じてしまった。

「私が我慢すればいい。我慢するだけでいい、それだけで皆が幸せになれるのなら」

 詩は洗面台の鏡の前に置いていたペンダント型の懐中時計を首にかけ、胸の前で、両手で握りしめておまじないを呟いた。
 辛くなった時、弱音を吐きたくなった時はいつもこのおまじないで心を切り替える癖があった。
 施設に預けられた時から身に着けていたらしいこの懐中時計に触れていると、不思議と気持ちが落ち着いた。
 記憶にも残っていない、顔もわからない両親の名残が力を与えてくれると信じていた。

「よし、今日も頑張ろう」

 あとちょっとだけ、お気に入りのパジャマとブラジャーを使ってからカノンに新品を買ってもらうように相談しよう。そう気持ちを仕切り直してリビングに戻る。

「え?」

 思わず変な声を出してしまったのは、彼女がそんな葛藤を抱いていたなんて知らんとばかりにリビングで見た事もない真新しいパジャマと下着の上下セットを持っていたカノンに動揺させられてしまったからだ
 可愛らしいデザインは詩の好みのど真ん中を貫いていた。

「何、持ってるの?」

「ごめんウタ、着替えたばっかりだけどちょっとこのパジャマ着てみてくれない? サイズは合ってると思うけど。はい、バンザーイ」

 詩は何が起こっているのか理解できず、呆然と従うしかなかった。
 カノンは詩の懐中時計を預かってポケットに閉まってから、制服を素早く脱がせ、新品のパジャマを着せ、全身を見渡して満足気に頷いた。

「さすが私、採寸も完璧! で着心地はどう?」

「うん、いいんじゃないかな?」

 確かに胸部の締め付けもなく、ゆったりした着心地はすぐに布団に潜って眠りたいほど感触が良かった。

「下着の方も試着してきてよ、また胸大きくなったでしょ? ちゃんと言わないとダメだよそういうのは、健全な女の子の身体は下着選びからって言うしね? 可愛い詩の魅力がそんな事で損なわれるなんて私は耐えられないよ・・・・・・あれ、ウタ?」

「えしてよ」

「へ?」

 湧き上がってくる感情を我慢して肩が震えだした詩の声は小さく、反応が薄いと感じたカノンは別の意味だと解釈してしまう。

「もしかして、デザインが気に入らなかった? おっかしいなー、いつの間に好みが変わったの? でも、まだクーリングオフできるから大丈夫だよ! じゃあ脱がすね、はい、バンザーイ」

「じゃなくて!」

「うわお」

 カノンの手から逃げる詩は、しっかりとパジャマと下着セットを握り締めていた。
 絶対にクーリングオフなんてさせない! という強固な意志が感じられた。

「びっくりした、もう、じゃあ何を怒ってるのウタ。なんでも話してみなって、ずっと私たちそうやってきたでしょ」

 色々問い詰めたい事はあるが、我慢の限界があった。

「返してよ」

「何を?」

「私の我慢を返してよ、カノンのバカ―!」

 感情が爆発した詩は、ポカポカの擬音が似合う優しく弱いパンチでカノンを攻撃する。
 
「あイタ! くない? ちょ、突然何、くすぐったいって」

「バカバカバカバカー! 私がどれだけお金の心配とか色々我慢してたと思ってるのカノンのバカ―!」

「なら、気に入ってはくれたんだよね?」

「すごく気に入ったよ! それが余計に怒れるし、でも嬉しいし、ありがとうって言いけど、もうどうしたらいいのカノンのバカ―!」

「えー、なんか理不尽なんだけど。わかった、またこの子は独りで抱えて勝手に暴走してるな」

 詩の精一杯の反抗はカノンにとってこそばゆい威力しかなく、彼女は寛容に抱きしめた。
 負けず劣らずの豊かな胸に詩の顔を埋め、微笑みながら、何も言わず髪を撫でる。
 さながら、我儘な子どもをあやす母親のようでもあった。
 しかし、誰にも見られていない死角に位置する瞳には、人間にしては不可思議な変化が起こっていた。

「まったく、世話の焼ける妹だ」

 カノンの両眼の瞳には、はっきりと鏡写しの時計盤が映し出されていた。
 正転で時を刻んでいた時計盤の針が、高速で逆回転を始める。
 詩は全身を一瞬だけ硬直させて揺れたかと思えば、力が抜け、腕を力なくぶら下げ、顔からは一切の感情が消え失せた。
 口はだらしなく半開きのままで、焦点はどこにも合っておらず、虚空を見つめるだけの人形のように動かなくなってしまっていた。
 彼女の瞳にも同一の時計盤が不気味な鈍色の光を輝かせて映っていた。
 カノンのポケットに閉まっている詩の懐中時計が、独りでにカタカタと震えていた。

「落ち着きなよウタ。嫌な気持ちも、不都合な記憶も、命を脅かす敵も、私が全部消し去ってあげるから。それが私が生きる理由だから」

 カノンは無抵抗の詩の唇に愛おしそうにキスをする。
 彼女は詩が知らない詩を知っていた。有限に束縛される人間の限界により失った、忘却の彼方に置き忘れてきた記憶すらも知り得ている。

「あれ?」

 瞳から時計盤が消えると、何が起きたかわからないと言いたげに詩は間抜けな顔をしていた。

「もしかして私、寝てた?」

「そうなの? 気づかなかったけど?」

 何もなかったように答えるカノンの瞳からも時計盤は消えていた。

「嘘! やだ、恥ずかしいんだけど! 起こしてくれたっていいのに!」

「一瞬だったから気にならなかったよ、よっぽど眠たかったんだね。それよりも新しいパジャマと下着を試着してた途中だったでしょ? 気に入ってくれた?」

「そうだったっけ? うん、パジャマはすごく快適だよ! ブラもきつくなってたんだ、ありがとう! カノンが買ってきてくれたならサイズも問題ないと思うけど」

「どういたしまして、じゃあ、古いパジャマの方は洗って施設の子のお下がりにでもしちゃおうか」

「うん、その方がパジャマも子どもたちも幸せだよね、ってもうこんな時間! ごめんね、すぐに着替えてくるから」

「急がなくてもいいからね」

 着替える詩は、さっきまで抱えていた葛藤を嘘のように忘れているようだった。
 お金の心配や、愛着があったはずのパジャマや下着に対してはもう興味もない素振りだった。
 無邪気な詩の様子に満足してカノンはほくそ笑む。
 2人の関係は、昔と何1つ変わってはいない。



                   〇 〇 〇



 登校のために家を出る時間になっていた。
 まだ冬の寒さを残す3月の末。詩は制服の上にコートを、カノンは詩のリボンと同色のネクタイをして、コートとマフラーを着込んでいた。

「あれ? 時計がない!」

 詩は胸元の違和感の正体に気づいてポケットや鞄の中を探る。
 懐中時計は普段から肌身離さず持っており、目の届く場所にないと無性に不安になってしまう。
 児童保護施設に預けられた時から身に着けていたという事は、この世で唯一、自分と両親を繋げる可能性がある宝物だった。
 どのような理由で両親はまだ赤ん坊だった詩を手放したのかはわからない。でも、どんな事情があったにせよ、和葉詩という名前と私物を残していったという事は、そこに愛情は確かに存在していたと考えていた。

「ごめんごめん。パジャマの試着の時に私が預かってたんだ、返すの忘れてたよ」

「なんだ、良かったー」

 カノンが返すと詩は嬉しそうに懐中時計を受け取り、首に掛ける。
 懐中時計の裏側には不気味さを煽るデザインの幾何学模様が彫られているが、気にする様子はなかった。
 戸締りを2人で一緒に確認して、学校までの道のりを歩く。
 しばらく進むと、同じ学校の生徒や通勤中のサラリーマンを見かけるようになる。
 他愛もない会話をしながら歩む風景は、いつもと変わらない平穏な世界を象徴しているようだった。
 だが、その日は予定調和にはない人物の出現に詩の視線は奪われた。
 白杖を持った盲目らしい若い男性と、男性の手を肩に置かせて歩調を合わせながら先導する少女だった。
 詩が釘付けにされたのは、男性よりも信じられない美貌の少女の方だった。
 当てはまった印象は人間を模した精巧な人形だ。
 地面に着きそうなほど長い髪は、朝日を反射するナチュラルゴールド。
 左目の下に泣きボクロのある色白の顔は、生気を帯びた躍動を感じさせながらも張り付いた仮面のように無表情であり、無機質な冷たさを含んでいた。
 美人の要素を詰め込んだ作り物にも等しい完璧な美貌を備えながらも、それ故に近寄りがたく、底知れない人物像を彷彿とさせる少女だった。
 すれ違い様にすらも、少女は詩やカノンに一切視線を向けず、意識すらしていないような素振りをしていたせいでもあった。

(すごく美人なのに勿体ないな)

 失礼にならない程度に横目で盗み見て、他人として通り過ぎようとすると男性の方から声を掛けられる。

「すいません」

「はひゃい!」

 声が裏返ってしまったのは、まさか喋り掛けられるとは思ってなかったからだった。

「驚かせてごめんね、君たちは近所に住んでいるのかな? 僕たちは土地勘が無くてね、ちょっと道を教えて欲しいのだけど」

「はい、勿論です」

 時間に余裕はあり、詩は男性が差し出した紙に書かれた住所への道順を丁寧に教える。
 後々に思い返してみれば不自然な点は多々あったが、その時は気づかなかった。
 盲目の男性は20代前半と若く、華奢な体つきで、落ち着きのある喋り方や清潔感のある身なりから礼儀正しく知的な印象を与える人物だった。
 色のついた眼鏡をしているせいでわかりづらかったが、近づいて見れば爽やかなイケメンでとても好感が持てた。
 聞いていると安心のできる、優しく包まれるような不思議な声だった。
 詩は好みのツボを捉えられて緊張していたが、なんとか道順は理解してもらえたようでホッとした。
 金髪の少女は、その間も無関心とばかりに視線を宙に固定していたが一瞬だけ目が合ったような気がした。

「ありがとう、とてもわかりやすかったよ」

「はい、お気を付けて」

 お辞儀をして背を向けて歩いていく男性と金髪の少女は、羨ましいほどの美男美女のカップルに見えた。
 距離が空いてから詩はカノンに聞いた。

「良い人たちだったね、どこから来たんだろう」

「そう? 私には変な人にしか見えなかったけど、両方とも」

 いつもどおりの日常に戻っていく詩たちは、他人だと思っていた相手を話題にしているのは向こうも同じであり、その出会い自体が意図的に仕組まれたものだったという事実を知らずにいた。

「ここまで離れれば大丈夫かな。金色」

 コンジキ。
 男性に人間とは思えない名で呼ばれた金髪の少女はようやく反応を示す。
 わずかに頷くだけだったが、男性は手から伝わってくる振動で意図を察する。

「どうかなあの子たちの可能性は。未来が君にはどう視えたのか、何もできない僕の代わりに教えて欲しい」

 金色は閉じ切っていた口を開き、応える。

「あの人間の少女からは、死の未来が視えた」

「そうか、また、悲しい事が起こりそうだね」

 感情の起伏が排除された抑揚のない声に告げられた未来に、男性は心苦しそうに嘆く。

「死の未来は争いの運命を惹きつける。彼女を中心にまた戦いが始まる。敵は既に動き出している」

「なら、僕たちは戦いに備えるとしよう。帰ろうか、頼れる仲間の元へ」

「王の命ならば」

 金色が軽く握っていた手を開く。
 解放された手の平から1個の泡がシャボン玉のように宙に舞い上がり、空に届く前に儚くも爆ぜて、跡形もなく消える。
 泡と同様に、男性と少女の姿もいつの間にか道の真中から消えていた。忽然と跡形もなく。
 他に通行人はいたが、目の前から人が消えたにも関わらず、スマートフォンを注視して超常現象のような、現実にはありえないはずの出来事に気づいてもいなかった。
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