岡崎昂裕不思議話短編集

岡崎昂裕

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お裾分け

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「被告は取調べの間、自分の犯した罪を認めたものの、犯行の理由については一度も説明をしなかったそうだね」
 穏やかな声音で尋ねた判事の目をAは真っ直ぐに見返した。
 判事は戸惑った。
(こんな濁りのない目をした若者が、本当に人を殺したというのか)
 裁判官になってもう三十年にもなる。
 数多の犯罪者を見てきたが、今目の前にいる若者はその誰とも違う清らかな目をしていて、それが判事を慄然とさせた。
『無垢の罪』という言葉が脳裡を過ぎる。
「今から罪状認否を行うのだが、これからも君は動機を話してはくれないのかね」
 Aはにっこり笑って、
「いいんだ、誰にも信用できないような話だから。しない方が」
 さっきから、検事もそわそわしているのが判事には見て取れた。
 裁判員たちも奇妙な顔つきになって互いの様子を窺っている。
 それほどAは異質だった。
 判事は意を決し、
「話してくれないかな。それがどんな内容にしろ、信じ難い話だとしてもだ。君が罪を犯した理由も知らないまま、わたしたちが君の量刑を判断することはできないのだよ。わたしの言う意味は、わかってもらえるかね」
 Aは澄ました顔つきで、
「わかりますよ。正常なのか異常者なのか。もし正常だとしたらどの程度の刑に処すべきなのか。そのためには殺した相手に対する憎しみの度合いを計らなくてはならない。相手が善良で何の落ち度もない人間ならば刑法上の最高刑を科せば済むことだ。しかし仮に正当防衛とまではいかなくても過剰防衛であったり、情状酌量の余地があるような事情があったりするのであれば、それによって科す刑罰の重度も調整しなくてはならない。そういうことですよね。でもね、判事。相手は死んでいてひとことも発することはできない。僕だけ話すことでできるというのは不公平だと思いませんか?僕はそんな後出しじゃんけんみたいな卑怯者の真似事をしたくないんだ。だから警察の取調べでも罪を認める以外は何も話さなかったんです。だから公判でも同じです。ただの殺人者として判決を出してください。控訴なんかしませんから」
 珍しいことに被害者の遺族から重い刑を科してくれという意見がひとつも出ていない。
 それどころか警察の事情聴取にも応じていなかった。
 被害者の家族は、被害者との間に距離を置きたがっている。
 それが異様だった。
 裁判が始まる前に公判前整理手続を検察側と行ったのだが、検事が、
「実にやりにくい」
 とこぼしていた。
 いったい何が原因なのか、判事は釈然とせず個人的に担当検事と何度かあってAのことで確認作業を行ったのだ が、何も問題が出てこない。
 なにもなさすぎる。
 動機なき殺人なのか?
 しかしそういう犯罪を犯す人間はある程度タイプが決まっていて公判が始まってつらつら事情を述べるのが定番なのだ。
 誰でもよかったとか、悪いのは自分じゃないとか、身勝手な理由を述べては裁判を煙に巻こうとする悪意が見て取れるものだ。
 それがAにはない。
「ひとり殺しても死刑になれるのなら、わたしはそれでも良い」
 と言ったそうだ。
「何故か」
 と問うと口を噤んでしまう。
 それが不気味だったと検事は溜息をつくのみだった。

 判事は辛抱強くAを説得した。
「裁判員は一般市民です。彼らの気持ちも汲んであげて、事情を話して下さい。犯行理由も分からないまま量刑を科すのは、判断する側の心にも重いものを残すことになるのですよ」
 判事の言葉に、沈黙を守っていたAが遂に重い口を開いた。
「どうせ信じられないと笑うよ、ずっとそうだったんだから」
 と前置きし、
「僕はね、身寄りがない。物心ついたときは他の子供と一緒に施設にいた。捨て子だったんだ。あまりにも良い施設でね、お菓子のひとかけらすらも食べたことのない少年時代を過ごしたよ」
 そういった施設は国から援助を受けるが微々たるものだ。
 その僅かな援助を管理者が搾取すると、もう子供たちにはなにも回ってこない。
 誰もそれを告発できない。
 子供が大人を告発することなどできはしないのだ。
 たまに親が会いにくるような施設ならまだしも、Aがいた場所は親族の面会すらもないような子供たちばかりが押し込められた、強制収容所のようなものだった。
「小学生のとき、初めて自分の奇妙な力に気がついた」
 友達と手を繋いだ瞬間だった。
 言葉には言い尽くせない幸せ。
 それまで感じたことのなかった幸福感を味わった。
「最初はそれの正体がわからなかった。幼かったからね。しかし歳を重ねるに従って段々わかるようになった」
 それは、触れ合った相手の経験した幸せと同期しているのだった。
「誕生パーティーやお正月のお年玉、それにクリスマスパーティー。僕は一度も経験したことなんかなかったのに、経験しているかのように生々しく感じたのさ」
 触れ合った相手の感じた幸福感を疑似体験できる特殊能力だった。
「それまで無味乾燥だった僕の生活は少しだけ、色や香がついてきた。友達たちからお裾分けをしてもらいながら暮らしたのさ、幸せのお裾分けを」
 雇用が冬の時代、Aのような立場の若者は職に恵まれず、学業優秀であったにも関わらず肉体労働の派遣という立場に甘んじていた。
 身寄りがないというのはそれだけ辛いものなのだった。
 そして少し働いては切られまた次に回されては切られという暮らしをしているうちに、
「心の中に荒々しい掠れたような濁ったような感覚が積もっていくのを感じました。これじゃ悪い道に落ちそうな気がして。それで他人の幸福を味わって自分の荒んだ心を立て直そうとしました。大人になってからはやらないようにしていたんですけどね」
 その相手が、被害者だった。
「ところが奴は……」
 それまで落ち着いた声音だったAの表情が突如として豹変した。
「奴の感じていた幸福は、とんでもないものだったんだよっ!」
 そのおぞましさに、疑似体験したAは、
「まさかと思った。発狂しそうになりました」
 被害者は、児童や弱いものを傷つけることに無常の喜びを感じるパラノイアだったのだ。
 そして自分の犯罪が露見していないことを誇りに思い、
「奴はその犯罪行為を生きている限り続けていこうと考えていました。そして僕がそれを知った夜、あの夜、奴は二十四時間のマンガ喫茶でその計画を練っていたんです」
 実行は翌日の早朝。
 狙っていたのは小学生の女の子。
「それを知ったのは、彼がそれを人生最高の幸せだと感じていたからでした」
 阻止するには、どうすればいいのか。
「警察に通報することを考えなかったんですか」
 と判事が問うと、
「まだ起こっていない犯罪だったし、そいつが捕まっていないということは証拠を残していないからだと思ったので。でも、それは言い訳です。僕はあの夜冷静さを失っていました」
 他の選択肢を見出す努力をすることもせず、
「後ろから首を締めて殺しました。こんな悪夢を見せやがって、と。その怒りが何ものにも勝っていたかもしれません。僕はね、ばちが当たったんですよ。報いを受けたんです。他人の幸せを掠め取るような真似を長年してきたから。それはね、窃盗ですよね、判事」
 Aは泣いていた。
 ポロポロと涙を流しながら、
「だから、僕は奴と巡り合わされ、殺す羽目になったんです。ゴミがクズを殺したようなもんです」
 と自らを嘲った。
「死なせてから、やっと気付きました。僕は奴の首を締めているときには自分が正義漢にでもなったような思いだったんだ。でもそれは違う。結局は、奴と同じ人殺しになっただけです」
 法廷内は静まりかえっていた。

 次の公判までに、被害者のDNAが検査され、幾つかの未解決事件で犯人と思われる遺留品や体液などから採取されたDNAと一致したことがわかった。
 しかしその事実とAの行為との因果関係を結びつけることは極めて困難であり、減刑の対象とはなりえず、一年後の判決時には懲役十八年の実刑判決が下された。

 服役したAの元には、解決した幾つかの事件の遺族、関係者から礼状や差し入れが届いた。
 しかし、
「僕にそれを受け取る資格などない。僕はただの人殺しなんだから」
 と受け取りを頑なに拒否した。
 Aに殺された被害者は幾つかの事件の犯人、もしくは容疑者として被疑者死亡のまま書類送検された。
 被害者の家族は行方が分からなくなっていた。

 Aは自分の行為を後悔したまま、服役して三年後病死した。
 享年二十七歳と短い生涯だった。
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