岡崎昂裕不思議話短編集

岡崎昂裕

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Thin edge(薄刃)

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 その男、西本は大汗を掻きながら、太めになった体を揺すりながら、深夜の住宅街を走っていた。
逃げているのだ。
 人を死なせてしまった。
 愛人の夫を殴って押し倒したところ、打ち所が悪かったらしく、そのまま死んでしまったのだ。
 計画通りではない。
 もっと場所を選び、できれば事故死に見せかけたかった。
 でも、もうやってしまったことは仕方ない。
 実は、あまり気にしていなかった。
「雑魚みたいな男一人殺したところで、なんだっていうんでしょうかねえ。これからバラ色の人生が待っている私と、すでに行き詰まっていた男。命の重さを比べたら、そうですよ、その重さには格段の差がありますからねえ。奴  は私に金を残し、この世とおさらばすればいいのです」
 しかも、目撃者はひとりもいなかった
「それに、あの男との接点を知る人間も、ひとりもいないわけだし」
 このまま知らぬ振りを通せば、大丈夫だという自信があった。
 そんな考えが頭に浮かぶようになったのは、随分と遠くまで逃げ、電車に乗った頃だった。
 冷房が効いていて瞬く間に汗は引いていく。
 同時に動悸もおさまってきた。
 不安は段々と消え、自信が湧いてきた。
(捕まってたまるものか)
 エリートコースに乗っている自分が、たかが愛人問題ごときで失脚するなど、とても許されことではない。
 自宅には、妻と子供がいるし、失うつもりはない。愛人の女なんか、すぐに別れてもいい。
 なにしろ彼女の夫を殺したのだ。
 一日も一緒にいたくない。
 女の代わりなんて、幾らでも見つかる。
 自宅に帰り着いて、妻子の顔を見てホッとした。
 何事も無かったかのように、彼はグッスリと眠った。

 翌朝、スッキリと目が覚めた。
「何事もなかった、何も発覚しなかった」
 笑いがこみ上げた。
 自信満々だった。
 久々の休日である。
「ゴルフの練習に行ってくるよ」
 そう妻に告げ、彼は家を出た。
 出がけに携帯電話のメールをチェックすると、愛人から届いている。
「夫が帰ってこなかった。連絡もないし」
 ドキッとしたが、
「何かあったの?」
 と、とぼけるようなメールを返した。
 すると、
「今から会えない?」
 西本はうんざりしてため息をついた。
 愛人は、セックスするだけの、欲望の捌け口なのだ。
 相談事は承りたくない。
 しかも、その夫を殺したのは自分なのだ。
 再会するのは、女が保険金を受け取ってからにしたいというのが本音だった。
 しかし、車で十分たらずの距離だし、行かなかったら怪しまれるだろう。
 それどころか、相手の女はこちらの自宅も知っている。
 死体はもう発見されているはずだ。
 何しろ、公園の中で殺したのだから。
 しかし、身分証明書の類は見つかっていないはずだ。

 女は、家で待っているという。
 外出や出張の多い夫の留守に、男を連れ込む女だった。
 チャイムを鳴らしたが、返事がない。
 ドアは施錠されていなかった。
 男は、勝手に入った。
 いつものことだ。
 すると、
「ガンッ!」
 後頭部が鳴って火花が飛び散り、目の前が真っ暗になった。


 気がついたら縛られていて、身動きが取れない。
 ガムテープで猿轡をされて声も出せない。
 横に、やはり縛られた人がいる。
 愛人だった。
 目を閉じている。
 体にはシーツが被せられていた。
(まさか、死んでいるのか?)
 ザアッと音を立てて血の気がひいていく。
「目が覚めた?」
 不意に声がした。
 見上げると、ほっそりとした男が立っている。
 悲しそうな目で、男を見下ろし、
「君が兄を殺したんだね」
 と、訊いた。
 西本はギクリとした。
 もう、既にバレていたというのか?
「亭主に隠れて浮気するバカ女、その女の夫を殴り殺すバカ男か…」
 細身の男は、細い金属を取り出した。
 そして、女のシーツを捲った。
「グググッ!」
 西本は大きく目を見開き、声にならない声を立てた。
「心配しなくていいよ。死んではいない、ただ、解体しただけ」
 女の体は、見事な刃物の業で、体を綺麗に切り開かれていた。
 血の一滴も流れ出していない。
「今は、睡眠薬で眠っているだけさ。もうすぐ目を覚ます。それまであんたも、一眠りして待つがいい」
 男は注射され、再び意識を失った。


 次に目が覚めたのは、騒音のような、女のくぐもった悲鳴を聞いたからだった。
 男は、自分の体に起こった事態に気がつき、
「!嘘だろ、嘘だろ、嘘だろおっ!」
 体が切り開かれ、内臓が露出している。
「やあ、やっと目が覚めたね」
 男は冷たい眼差しで西本を見下ろした。
「自画自賛するのもなんだが、僕の身体を捌いて解体する技術は群を抜いていてね、ほとんど出血させずに体を綺麗に開くことができるんだ。だから、元の所定の位置に戻して縫い合わせれば、何事もなかったかのように元に戻してやることもできるのさ」
 男は無表情でそう言い放った。
「た、助けてくれ、頼む、金ならいくらでも払う、だから、殺さないでくれ、悪いのはその女だ、その女が私に色目を使ったんだ。本当だ。私には妻子がある。不倫は、それは悪かったと思うが、単なる遊びだったんだ。それに、この女の亭主は、勝手に怒って私に掴みかかってきたんだ。仕方なかった、正当防衛なんだよ、な、わかるだろう?不慮の事故みたいなものなんだよ」
 躰を切り開かれているのも忘れ、西本は早口でまくし立てた。
 言い逃れでもなんでもする。
 助けてもらえるなら、どんな嘘でもいう。
「そうなのかい、じゃあ、彼女の意見も聞こうか。片方の証言だけを信じて判断したら、アンフェアだからな」
 男は無表情のまま、女を振り向いて猿轡を外した。
 すると女は、
「冗談じゃないわよ!あんたがやらせろやらせろってしつこく迫ってきたんじゃない!うちのが死んだら保険金が二億入るんだって言ったら、殺っちまうかって言い出したの、あんたじゃないのさ!一流企業で働いているくせに、うちの旦那の保険金まで欲しがっといてよく言うわよ!あんたが給料以上に女遊びやギャンブルに狂うからそうなったんでしょ?!なんでもかんでも人のせいにするんじゃないわよ!」
「な、なんだと?お前にも遊ぶ金を出してやったじゃないか!お前こそ、平気でどんな男とも寝る癖に、利いた風な口叩いてんじゃねえよ、このビッチ!」
ふたりは、曝け出された内臓が次第に乾燥していくのにも気づかず、互いを延々と罵り詰り続けた。
 男は眉を顰めて、
「ああ、もういいよ」
 ガックリと肩を落とした。
「やれやれ。期待こそしていなかったけど、聞く価値もない、つまらないくだらない話だったよ。こんなレベルの低い人間たちに、兄さんは殺されてしまったのか。義姉さん、兄貴が福祉の仕事をして、大勢の人たちの役に立ってたこと、知ってたはずだよね。それなのに、あんたはただ遊び暮らして、こんな奴に兄貴を殺させたんだ。本当に、どうしてこんなクズ女となんか結婚したんだろう」
 と、うんざりしたようにいった。
「話は終わりだ。兄に代わって告げよう。君たちふたりには、この世に生まれてきたことを後悔するような死に方をしてもらうよ」
 細身の男が取り出したのは、大量の蠅やスズメバチなどの肉食系昆虫が入ったビン、そして、何匹もの大型の蛇や蜥蜴、百足などが入った強化プラスチックの飼育箱。
「しばらく食事させてなかったから、腐ったバカ共の内臓でも、きっと大喜びで食い漁ると思うよ。声がうるさいと困るので、口はガムテープで塞ぐよ」
 目を見開いて救いを懇願する二人を尻目に、細身の男は、密閉した部屋の中に虫と爬虫類を放し、部屋を出てドアを外からロックした。
「一週間くらいしたら、掃除に来るとしようかな」
 男はぼそりと呟いた。

 いつの間にか日は暮れ、中天に細く青白い二日月がかかっていた。
 男はポケットの中に、薄刃の刃物があるのを指先で確認した。
「これから、ふたりきりの通夜だね、兄さん……」
 男は、月を見上げ、悲しそうに呟いた。
 そして、振り返りもせず立ち去った。
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