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始業式当日の朝、まだ日も出ていない時分に僕はベッドから飛び上がるようにして目を覚まし、荒い息を整える。
物の少ない自室を見回しながら、一人呟いた。
「…………夢?」
淡いの世界に入るようになってから、僕自身は夢を見ることがなくなった。
だけど、さっきのは僕が見た夢と思った方が納得できる。
まさか、夢の中で僕のことを認識できる相手なんているはずがないんだから。
なんとか気を持ち直して階下へ降りると、ダイニングテーブルの上にいつものように書き置きが残されていた。
『比呂へ
今日のお昼代を置いておきます。
朝ご飯は冷蔵庫にサラダが入っているから、
きちんと食べておくこと。
始業式、遅れないでね。
母より』
出版社で働いている母さんは、いつも朝が早くて夜が遅い。
時間がないだろうにこうして丁寧な書き置きを残してくれるのは嬉しいけど、同時に申し訳なく思ったりもする。
母さんは、三年前に父さんが亡くなってからしきりに僕の気を遣うようになった。
……気を遣わせてしまった、という方が正確かも知れない。
それぐらい、あの頃の僕は周りのことが見えていなかった。そのせいで失ったものもたくさんある。
そしてその喪失を埋めるように、あの淡いの世界への扉が開かれた。
(……そうだ、あれは何か悪い夢だ)
淡いの世界での安寧。傍観者としての立ち位置。
誰とも関わらず、ただ目の前の夢を眺める時間。
それが奪われることだけはあってはいけない。
もう一度自分に言い聞かせてから、僕は寝汗を流すために風呂場へと向かった。
僕が通う県立夢実高校は、ここから自転車で三十分ほどしたところに位置する小高い丘の上に建っている。
中学の入学祝いに買って貰ったクロスバイクに跨がって、慣れ親しんだ通学路を走り始めた。
背中に背負うリュックは筆箱ぐらいしか入っていなくて、どこか居心地が悪そうに揺れている。
ふと、満開に咲いている桜が視界に飛び込んできた。
(そういえば、現実で今年の桜を見るのは今日が初めてかも)
綺麗だな、とは思う。
だけど、同じような感慨はあの淡いの世界でも抱くことができる。
肩で切る春の陽気も心地いいけど、どうしても心の中で虚しさが湧き上がってしまう。
現実の景色が、虚無の積み重ねに見えるんだ。
だから、このクロスバイクにも通学以外で乗らなくなってしまった。
現実よりも夢の中の方が、ずっと心穏やかに過ごせるから。
「……ぁ」
十分ほどクロスバイクを走らせて住宅街を抜けると、一気に緑が増えてくる。
今朝方、淡いの世界で少女と出会った緑地が広がっているのだ。
いつもの通学路は、この緑地の脇を通り抜けるようにして北上する。
だけど、僕はなんとなくの緑地へ入る道へハンドルを傾けた。
緑地内で一番広い通りを軽快に走る。
平日の朝ということもあって、人通りは少ない。
やがて、あの円形花壇が見えてくる。
そこにはひまわりの姿はなく、菫やたんぽぽ、菜の花やチューリップ、その他たくさんの花々が色とりどりの花を咲かせていた。
けれども、それ以外――円形花壇の形、辺りに敷かれた芝生、電柱の位置、すべてが夢と合致していた。
「確か、この辺りだったかな」
あの夢で少女と出会った場所に立ち、辺りを見回す。
遠くに朝の散歩にいそしむおばあちゃんや、ランニングに精を出す男性はいても、あの少女の姿はない。
それでも、ここから見える景色はやっぱりあの夢と同じで――。
「……何をしているんだ、僕は。まるで彼女を探しているみたいじゃないか」
ぐるりと体が一周したところで、つい自嘲の笑みを零してしまう。
あれは夢。僕が見た夢。ただの、夢なんだ。
そうに違いないと言い聞かせながらも、心のどこかではわかっていた。
あそこが、淡いの世界で僕が飛び込んだ他者の夢の中であることを。
◆ ◆ ◆
夢実高校が近付くにつれて、僕と同じ紺色を下地にしたブレザーを身に纏う高校生の数が増えていく。
緩やかな傾斜のある道を上れば、我らが夢実高校の正門が見えてきた。
校内の桜並木から桃色の花びらが散る中、周囲から二週間ぶりの再会を祝う声が聞こえてくる。
その中を走り抜けて駐輪場にクロスバイクを止めると、昇降口で上履きに履き替えて、昨年度使っていた教室へと向かった。
開け放たれた教室後方の扉から中に入ると、一瞬、教室内の視線が向けられる。
けれど、そこに現れたのが僕だとわかるや否やその視線は元の場所へと戻っていく。
彼ら彼女らのお目当ての人物は、僕ではないらしい。
僕は廊下側の一番後ろの席に座ると、そのまま机に突っ伏す。
狸寝入りとは違う。ホームルームが始まるまで、まだ二十分は時間がある。
それまでの間、本当に眠るんだ。
そうして、あの世界に没頭する――。
物の少ない自室を見回しながら、一人呟いた。
「…………夢?」
淡いの世界に入るようになってから、僕自身は夢を見ることがなくなった。
だけど、さっきのは僕が見た夢と思った方が納得できる。
まさか、夢の中で僕のことを認識できる相手なんているはずがないんだから。
なんとか気を持ち直して階下へ降りると、ダイニングテーブルの上にいつものように書き置きが残されていた。
『比呂へ
今日のお昼代を置いておきます。
朝ご飯は冷蔵庫にサラダが入っているから、
きちんと食べておくこと。
始業式、遅れないでね。
母より』
出版社で働いている母さんは、いつも朝が早くて夜が遅い。
時間がないだろうにこうして丁寧な書き置きを残してくれるのは嬉しいけど、同時に申し訳なく思ったりもする。
母さんは、三年前に父さんが亡くなってからしきりに僕の気を遣うようになった。
……気を遣わせてしまった、という方が正確かも知れない。
それぐらい、あの頃の僕は周りのことが見えていなかった。そのせいで失ったものもたくさんある。
そしてその喪失を埋めるように、あの淡いの世界への扉が開かれた。
(……そうだ、あれは何か悪い夢だ)
淡いの世界での安寧。傍観者としての立ち位置。
誰とも関わらず、ただ目の前の夢を眺める時間。
それが奪われることだけはあってはいけない。
もう一度自分に言い聞かせてから、僕は寝汗を流すために風呂場へと向かった。
僕が通う県立夢実高校は、ここから自転車で三十分ほどしたところに位置する小高い丘の上に建っている。
中学の入学祝いに買って貰ったクロスバイクに跨がって、慣れ親しんだ通学路を走り始めた。
背中に背負うリュックは筆箱ぐらいしか入っていなくて、どこか居心地が悪そうに揺れている。
ふと、満開に咲いている桜が視界に飛び込んできた。
(そういえば、現実で今年の桜を見るのは今日が初めてかも)
綺麗だな、とは思う。
だけど、同じような感慨はあの淡いの世界でも抱くことができる。
肩で切る春の陽気も心地いいけど、どうしても心の中で虚しさが湧き上がってしまう。
現実の景色が、虚無の積み重ねに見えるんだ。
だから、このクロスバイクにも通学以外で乗らなくなってしまった。
現実よりも夢の中の方が、ずっと心穏やかに過ごせるから。
「……ぁ」
十分ほどクロスバイクを走らせて住宅街を抜けると、一気に緑が増えてくる。
今朝方、淡いの世界で少女と出会った緑地が広がっているのだ。
いつもの通学路は、この緑地の脇を通り抜けるようにして北上する。
だけど、僕はなんとなくの緑地へ入る道へハンドルを傾けた。
緑地内で一番広い通りを軽快に走る。
平日の朝ということもあって、人通りは少ない。
やがて、あの円形花壇が見えてくる。
そこにはひまわりの姿はなく、菫やたんぽぽ、菜の花やチューリップ、その他たくさんの花々が色とりどりの花を咲かせていた。
けれども、それ以外――円形花壇の形、辺りに敷かれた芝生、電柱の位置、すべてが夢と合致していた。
「確か、この辺りだったかな」
あの夢で少女と出会った場所に立ち、辺りを見回す。
遠くに朝の散歩にいそしむおばあちゃんや、ランニングに精を出す男性はいても、あの少女の姿はない。
それでも、ここから見える景色はやっぱりあの夢と同じで――。
「……何をしているんだ、僕は。まるで彼女を探しているみたいじゃないか」
ぐるりと体が一周したところで、つい自嘲の笑みを零してしまう。
あれは夢。僕が見た夢。ただの、夢なんだ。
そうに違いないと言い聞かせながらも、心のどこかではわかっていた。
あそこが、淡いの世界で僕が飛び込んだ他者の夢の中であることを。
◆ ◆ ◆
夢実高校が近付くにつれて、僕と同じ紺色を下地にしたブレザーを身に纏う高校生の数が増えていく。
緩やかな傾斜のある道を上れば、我らが夢実高校の正門が見えてきた。
校内の桜並木から桃色の花びらが散る中、周囲から二週間ぶりの再会を祝う声が聞こえてくる。
その中を走り抜けて駐輪場にクロスバイクを止めると、昇降口で上履きに履き替えて、昨年度使っていた教室へと向かった。
開け放たれた教室後方の扉から中に入ると、一瞬、教室内の視線が向けられる。
けれど、そこに現れたのが僕だとわかるや否やその視線は元の場所へと戻っていく。
彼ら彼女らのお目当ての人物は、僕ではないらしい。
僕は廊下側の一番後ろの席に座ると、そのまま机に突っ伏す。
狸寝入りとは違う。ホームルームが始まるまで、まだ二十分は時間がある。
それまでの間、本当に眠るんだ。
そうして、あの世界に没頭する――。
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