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 僕の安息の地は奪われた。

 あの始業式前夜から三日が経った今になっても、目覚めるのは淡いの世界ではなく、現実とほとんど違いのない七海希美の夢の中。
 まるで本当の現実みたいに、前回の夢の中で眠った場所で目を覚ます。

 昨日の夜は円形花壇を出て緑地内にある遊具広場で眠りについた。
 そして今日、当たり前のようにそこで目覚める。

 現実が夢で、この世界こそが現実なのではないか。
 そんな錯覚さえ覚えてしまうのは、現実であまり人と接することがないせいかもしれない。

 遊具広場の中にある、タコを模した特徴的な遊具の中。
 鬱屈とした気分と共にその場でぼんやりと寝転がったままでいると、どこからともなく彼女の声が耳朶を震わす。

「おやすみ~」

 ひょっこりと、遊具の穴から七海さんが顔を覗かせた。
「おやすみって……挨拶としておかしくない?」

 緩慢な動きで状態を起こすと、「んしょ」と声を上げながら七海さんが遊具の中へ入ってくる。
 子供用の遊具の中はそれなりの広さはあるけど、それでも大人が二人で入ると狭苦しさを覚える。

「ん~、私、考えたんだよね。ここって夢の中で、寝ないと来られない世界。でも現実は、寝たら居続けられない世界。だったら、おやすみがおはようだし、おはようがおやすみなんだよ。だから、おやすみ~」

 けらけらと、愉快そうに彼女は説明する。
 その説明に僅かながらも納得してしまって、なんだか悔しくなった。

 僕はもう一度寝っ転がると、七海さんは目を丸くする。

「何してるの?」
「おやすみって言われたから、寝るんだよ」
「も~、怒んないでよ。子どもっぽいよ?」
「君に言われたくない」

 大学生を自称する彼女は、やはり年下かよくて同い年ぐらいにしか見えない。
 彼女のことを敬称をつけて呼びながらも敬語を使わないのは、たぶんそういう雰囲気を纏っているから。

「比呂、私の前に現れてからずっとそんなんじゃん。ちょっと緑地内を歩き回ったかと思ったらすぐに横になってさ~」
「……君と君の夢は、僕にとっては現実と変わらないんだよ。せめて夢の中でぐらい退屈を忘れたいのに」
「それって私の夢が退屈ってこと?」
「…………」

 面と向かって言うのが憚られて口を噤むと、七海さんはむっとした顔で僕の腕を掴んできた。

「ちょっと、何するんだよ」
「私の夢は面白いんだぞーってことを見せてやるの! ほら、行くよ!」
「ぁ、ちょ、危ない――」

 強引に僕の腕を引っ張って立ち上がらせようとしてくる。
 だけど、ここは子ども用の遊具の中。その中で暴れると――、

「あいたぁっ! っぅ~~~~!!」

 ガンッという鈍い音とともに、悲鳴が木霊する。
 遊具の天井に頭をぶつけた七海さんは僕の腕を放すと、両手で頭を押さえてその場に蹲った。

「だ、大丈夫……?」
「…………ついてきて」

 涙混じりに睨み付けられる。
 こちらに非がないとはいえ、僕に断るという選択肢は残されていなかった。


 ◆ ◆ ◆


 本来、夢というのはある一場面を切り取ったもの。
 たとえばそれは教室であったり、どこかの公園であったり、あるいはオフィスの一角、居酒屋、遊園地――。

 大抵の夢は一つの場所で始まり、そして終わる。
 もし場所が移ろうような夢であっても、最初にいた場所はかき消え、新たな舞台が用意される。
 これまで僕が見てきた夢は一つの例外もなくそうだった。

 だけど、七海希美の夢は違う。彼女の夢は、一つの場所というには広すぎた。
 緑地を出ると、そこは現実とよく似た町が広がっている。
 僕たち以外に人っ子一人いないことを除けば、広い大通りも、狭い路地も、立ち並ぶ民家も、商業施設も、どれもこの夢の中には存在する。

 それは、今までとは比較にならないほどに大規模な世界だった。現実と区別がつかないほどに。

(本当に、彼女は例外だらけだ……)

 鼻歌を歌いながら楽しそうに並び歩く七海さんを見やる。

 現実と違うことといえば、人がいないことと、車がないことぐらい。
 もしここに現実と同じ雑踏があったなら、僕は果たして夢との区別がつくだろうか。
 あるいはそれは、彼女にも言えることだ。

 この数日、彼女は他の夢を見ることなく、ずっとこの現実によく似た世界を見続けている。
 同じ夢を連日見続けることができるのか、という疑問は、もはや彼女には意味をなさない。
 彼女は例外に愛されているようだ。

 もしかしたら僕が現れるずっと前から、この夢を見続けているのかもしれない。夜な夜な眠りについては、この世界で。
 夢が潜在的な願望や恐怖などを元に形作られるのなら、彼女のそうした願いや恐れは一体なんなのだろう。

 ふと、彼女に興味が湧いてきた。

「ねえ、君はいつもこの夢の中で何をしていたの? 僕が現れる前から同じ夢を見続けているみたいだけど」
「なになに、ようやく私に興味が出てきた~?」
「……やっぱりなんでもない」

 何が楽しいのか、ニタニタと覗き込んでくる七海さんから顔を背ける。

 隣から「ご~め~ん~!」と謝罪の声が飛んでくる。
 そうして、彼女は頭の上で両手を組みながら思い出すように言葉を零した。

「同じ夢……うん、そうだね。比呂のいうとおり、私はずっと同じ夢を見てるよ」
「ずっとって、どれぐらい?」
「三年ぐらいかなぁ」
「そんなに……」

 軽く告げられた衝撃の言葉に、僕は思わず足を止めてしまう。

(三年も同じ夢を見るなんて、あり得るのか……?)

 長くてもせいぜい数週間程度だと思っていたのに。
 もしかしたら、僕が彼女の夢から脱することができないのも、それが関わっているのだろう。

 僕の力は他者の夢を傍観すること。夢が終われば、僕は淡いの世界に戻される。
 逆に言えば夢が終わらない限り、僕はその人の夢から出ることができない。

 僕にとっての安息の地――淡いの世界に戻るには、彼女の夢を終わらせればいいのかもしれない。

「どうして同じ夢を見続けるか、心当たりはあるの?」

 つい前のめりになりながら訊ねると、数歩先で立ち止まった七海さんはゆっくりと振り返る。
 そして、その白い横顔に儚げな笑みを刻みながら、ついと空を見上げた。

「心当たりはあるかもしれないけど、どうしようもないことだよ。別に、同じ夢を見続けることがいやってわけでもないもん。……私がこの夢の中で何をしているか、だっけ? 今しているみたいに、町を歩いて回ったり、お店とかで美味しいものを食べたり、本屋さんで漫画や本を立ち読みしたり……そんな、普通の生活をしてるんだよ」

 切なげな声音で、彼女は淡々と話す。
 しかしすぐに僕の方を見ると、七海さんはちろっと桜色の舌先を覗かせた。

「店員さんとかいないから、全部お金払ってないんだけどねっ。あ、でもほら、ここって夢の中だし、ご飯とかも私が欲しいなーって思ったものが出てくるのであって、犯罪とかじゃないから!」
「気にするところがそこなんだ。七海さんってやっぱり変わってるね」
「何せ現実だと真面目な大学生ですからね!」

 むんと誇らしげに胸を張る七海さん。
 彼女が言うと、少し嘘っぽく聞こえてしまうのは気のせいだろうか。

 なんとも言えない微妙な表情を浮かべていると、七海さんは「だからね」と会話を続ける。

「たぶん、今私が見ているのは明晰夢ってやつなんだと思う。だから私はこうして動けるし、比呂とだって会話できている。きっと私も単なる傍観者なんだろうね」
「傍観者は食い逃げしたりしないけど」
「だからそんなんじゃないってば。……さては比呂、出会った日に不法侵入者って呼んだことを根に持ってるなぁ?」

 肩に腕を回してこめかみをぐりぐりと押してくる。
 普段通り、快活な彼女。
 だけどなぜだか今は、それが空元気に感じられた。
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