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「おやすみ~」

 その出迎えの声を聞くと同時に、頬が緩むのを覚えた。

 そこは駅前のロータリー近くのベンチだった。
 昨日は結局遊園地から街へ戻ってきて、この場所で眠りについた。

 起き上がりながら声のした方を見る。

「おやすみ」

 僕が挨拶を返すと、彼女は「おっ」と嬉しそうにはにかむ。

「比呂がおやすみって返してくれたの、初めてじゃない?」
「いい加減この挨拶にも慣れたんだ」

 ゆっくりとベンチから立ち上がる。
 先ほどまでの眠気は嘘みたいに吹っ飛んで、思考がクリアだ。
 この世界でもし試験勉強ができたなら、かなり捗るに違いない。

「今日は早いね? 昨日からこっちに結構長い時間いるけど、もしかしてそんなに私に会いたかったの?」

 にんまりとした表情で覗き込んでくる。
 この夢独自の挨拶と同様に、彼女のそうした態度にも慣れていた。
 人間慣れてくるとやり返したくなるものだ。

「――もう少しいて欲しい、だっけ?」
「うぐっ」
「一緒にいたいのは君の方なんじゃない?」

 不敵に笑ってみせると、彼女は面白いぐらい狼狽えた。
 そうして涙目で上目遣いに言う。

「いじわる」
「自業自得だよ」

 いじける七海さんに肩を竦めてみせる。
 彼女はしばらくぶつぶつと言いながらロータリーの地面をなぞっていじけていたが、すぐに顔を上げる。

「それで今日はどこに連れて行ってくれるの?」

 彼女は楽しげに尋ねてくる。
 その顔を見て少し申し訳なくなりながら僕は答えた。

「悪いけど、今日から学校だったから新しい場所へは行けてないんだ」
「……そっか」
「来週には中間考査があるからね。勉強もしないといけないし、しばらくは新しい場所へは行けないかも」
「気にしないで。夢よりもリアル優先だよ。君にも君の人生があるんだからさ」
「……ごめん」

 眠り続けている彼女にそれを言わせたことが申し訳なくて、僕は頭を下げる。
「いいって言ってるのに」と七海さんがフォローしてくれるが、空気が湿っぽくなるのは避けられなかった。

 そんな空気を払拭するためか、七海さんが明るい声で言ってくる。

「じゃあ今の君は試験勉強もせずに寝てるってこと? だめだよ~勉強しないと。大学行けないぞ」
「勉強するつもりだったさ。現にさっきまで勉強してた。だけど、いきなり眠たくなったんだ。仕方ないだろ?」
「眠り続けている私が言えた義理じゃないけどさ、流石に寝過ぎだとおもうんだよね。……私的には嬉しいんだけど」

 後半はもにょもにょと尻すぼみする声で彼女は言う。
 実際、彼女の言うとおりではあった。
 流石に寝過ぎている。でも、人間生きてればそういう日もあるだろう。

「季節の変わり目だからね、疲れてるんだと思う。だけどまあ、明日には元通りだよ。君には申し訳ないけど」

 僕が気楽にそう言うと、なぜだか七海さんの表情は暗く沈んだ。


 ◆ ◆ ◆


 僕の予想に反して、眠気は日に日に酷くなっていった。
 夜に十時間以上寝ているのにもかかわらず、日中の学校でもたまに意識が飛び、彼女の夢の世界で目を覚ます。
 家に帰ったら倒れ込むように眠りにつき、気付いたら朝になっているなんてことが続いた。

 そうして試験勉強はおろか授業すらまともに送れずに金曜日が終わる。

 だからといって夢を拡張できるわけでもなく、僕はこの七海さんの世界に来たばかりの時みたいに、近くの公園やベンチで横になって過ごしていた。
 試験勉強が進んでいないことへの焦りはあったけど、この夢の世界に来るとそういった諸々のことが些細なことに感じられる。

「流石におかしいよ」

 家に帰ってすぐ夢の世界に現れた僕に、七海さんが眉をひそめながら言う。

「おかしいって?」
「気付いてる? 君、起きているときよりも寝ている時の方がずっと長いって」

 深刻な顔で詰められて、僕は今日一日を振り返った。

「……まあ確かに、学校にいるときも合わせたら十四時間ぐらい眠ってるかも」

 普段の睡眠時間が大体八時間前後と考えると、ほぼ倍の時間寝ていることになる。

「なんだか本当に、このままだと現実と夢が逆転しそうだ」

 冗談めかして言うけど、彼女の表情はずっと晴れない。
 ここ数日、彼女はずっとこんな感じだ。

「……もしかして、……ううん、たぶん、きっとそうなのかな」

 俯きがちに何事かぶつぶつと呟く七海さん。
 やがて顔を上げた彼女は、そのまなざしに強い決意を宿して僕を見つめた。

 そうして、彼女の両手が僕の胸に伸び――、

「――ごめんね」

 彼女のその言葉を皮切りに、僕の意識がぶれる。
 気が付くと、僕は灰色の地平に立っていた。

「……え?」

 今起きたことが理解できなくて、僕は随分と間の抜けた声を零す。

 いいや、理解はできる。僕はこれと同じ状況を以前に経験したことがある。
 七海さんの機嫌を損ねて彼女に拒絶され、僕は彼女の夢からはじき出された。
 あの時とまったく同じだ。

「……っ」

 どうして、という疑問よりも先に体が動く。
 僕は頭上に広がる深更の空を見上げた。
 そこに浮かんでいるはずの彼女の星に手を伸ばすために。

 しかし、

「……七海さんの夢が、ない?」

 夜空にはたった一つの星も浮かんでいなかった。
 まるで、再び夢に入ることさえも拒絶されたみたいに。

 頭が真っ白になる。
 どうして? という疑問が何十回も呼び起こされる。

 そんな僕の混乱を知ってか知らずか、慣れ親しんだ眠気が襲ってくる。
 それは現実の僕が目覚めようとしている、抗えない眠気。

 気が付くと、見慣れた天井が視界に広がっていた。
 ぼんやりとする意識の中で部屋にある時計を見ると、まだ日が変わる前だった。

 ベッドに入ってそれほど時間は経っていない。

「っ、七海さん……?」

 寝起きの気怠さが一切ないクリアな頭の中、僕は右手で顔を押さえながら彼女の名を口にする。



 この日を境に、僕は彼女の夢へ入れなくなった。
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