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「……この辺りって」

 病院の近くまで来て、僕は既視感を覚えた。
 僕はこの辺りに来たことがある。遠い夏の日、母さんに連れられて。

 それだけじゃない。
 七海さんの夢の中でも、僕はここに来たことがある。

 繁華街を抜けた先にある住宅街。
 目的地である病院はその中にあった。

 白を基調として角張った無機質な建物。
 長方形の窓が張り巡らされ、付近の道路は救急車が出入りするからか広々としている。
 敷地内の至る所に木々が生えていて、病院の入り口近くには何台ものタクシーが乗り付けていた。

「……そうだ、あの夢の漆黒の場所」

 七海さんと出会ったばかりの頃。
 彼女に連れられて夢の中を歩き回った時、空間にぽっかりと空いた穴があった。
 その漆黒の空間を見て、そのときの僕は何が建っていたのかを思い出せないでいた。

「……僕も君も、避けていたってことなのかな」

 僕は、父さんが亡くなったこの病院を。
 七海さんは、自分が眠り続けるこの病院を。
 あの夢の中に生み出さないために、自分を守るために、無意識のうちに忘れたんだ。

 自嘲の笑みを刻みながら病院内の駐輪スペースにクロスバイクを止める。
 入り口に近づくにつれて胸の鼓動がドクドクと早まる。
 喉がからからに乾いて、汗が噴き出す。

 ……否が応でも思い出す。

 三年前のあの日の、母さんの不安げな顔を。
 病院の安置所で父さんの遺体を確認したときの苦しげな表情を。

 自動ドアが開く。
 病院内に入ると、独特の臭いが鼻に襲い掛かってきた。
 受付の前の椅子には何人もの人が座っていて、どこがどんよりとした空気を纏っている。

 ふと、なんだか自分が視線を集めているような気がした。
 不思議に思いながら受付へ進んでいるうちに、気付く。
 学校の制服を着ている人が、僕以外に一人もいないことを。

 至る所から向けられる視線に居心地の悪さを感じながら、僕はなんとか受付へたどり着いた。

「あの……面会したいんですけど」

 僕がそう言うと、受付の看護師さんが柔らかく微笑み返してきた。

「はい。面会希望の方の病室とお名前をお願いします」

 慌ててメモを取り出して、病室と名前を口にする。

「少々お待ちください」の一言とともに看護師さんが手元のパソコンにカタカタと打ち込み始めた。

 少しの間を置いて、困った声が受け付け越しに飛んでくる。

「七海希美さんのご家族の方ですか?」
「いえ、……友だち、です」
「でしたら申し訳ございませんが、ご家族の方がご同伴いただけないと面会はお取り次ぎできません」

 言われてはたと気付く。

 意識のある相手ならまだしも、昏睡状態にある彼女に赤の他人が面会するなんて危ない。
 断られて当然だけど、僕は彼女の家族の連絡先を知らない。

「あの、七海さんのご家族の方と連絡できたりしませんか?」
「申し訳ございませんが個人情報をお伝えすることはできません」
「……そうですよね。すみません、ありがとうございました」

 項垂れながら受付を離れ、前に並べられている席に座る。
 完全に勢いで行動したために詰んでしまった。

 八方塞がりの状況に途方に暮れていると、「あの……」と声をかけられて顔を上げる。
 そこには、母さんと同じぐらいの年に見える女性がこちらを覗き込むようにして立っていた。

(あれこの人、どこかで会ったことがあるような……?)

 そんな奇妙な感覚を抱いていると、彼女はどこかホッとした様子で話しかけてくる。

「間違っていたらごめんなさい。あなた、もしかして日比谷さん?」
「――え?」


 ◆ ◆ ◆


 僕の名前を知っている女性に「場所を移しましょう」と提案されて、建物の外に出る。
 この時間、中庭にはあまり人がいないらしい。

 ベンチに座って待っていると、片手にジュース缶を携えて彼女が戻ってきた。

「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」

 緊張しながら受け取り、プルタブに指をかけながら気になっていたことを訊ねる。

「あの、どうして僕のことを知っているんですか?」

 彼女は薄く笑うと、僕の隣に座りながら口を開いた。

「お父様のお葬式であなたを見かけたのよ。そのときは声をかけることができなかったけど、よく覚えているわ」
「父さんの葬式に来ていたんですか?」
「ええ。……お父様のこと、本当になんとお詫びすればいいか」
「……え?」

 苦しげに、絞り出すように吐露し始めた彼女の言葉について行けなくて、僕は困惑する。

「謝ってもどうしようもないことはわかっているわ。だけど、どうか恨むなら私だけを恨んで欲しいの」
「あの、すみません。一体さっきから何を言っているんですか?」

 耐えかねて彼女の言葉を遮る。
 すると、彼女は顔を上げて驚いたように僕を見てきた。
 それから、まるで自嘲するような表情を浮かべる。

「そうね、忘れていても無理はないわね。……私は希美の母親よ。あなたのお父様が命を呈して守ってくれた希美の」
「――――ぇ」

 彼女が口にした言葉が耳から耳へとすり抜けていく。

(この人が、七海さんのお母さん……? いや、それよりも――)

「父さんが、命を呈して……」

 震える声で呟く。
 その呟きを引き継ぐように、彼女もどこか強ばった声で話す。

「ええ。三年前の夏の日。居眠り運転をしていた車が希美へ突っ込もうとして――あなたのお父様が娘を突き飛ばしたの。その結果、あなたのお父様が車に轢かれた」
「そんな……」

 そんなこと、母さんは一度だって話してくれなかった。
 どこで死んだのか、誰に轢かれたのか。
 話しても、何も答えてくれなくて。

 ……それで僕は、父さんは自殺したのだと、そう思っていたのに。

「っ、っぅ……」

 頭が混乱する。

「ごめんなさい。私の娘のせいで、あなたのお父様が……」

 心の底から申し訳なさそうに、七海さんのお母さんは頭を下げてくる。
 その姿を見て何か言わないとと焦った僕は慌てて口を開く。

「謝る必要なんて、ないですよ。七海さんは……あなたの娘さんは今も眠り続けている。結局助けられてないんですから、父さんのしたことは無意味ですよ……」

 違う。こんなことを言いたかったんじゃない。
 違うのに、違うはずなのに、口をついて出た言葉は父さんへの悪態だった。

「――ごめんなさいね。困らせてしまって」

 七海さんのお母さんから出た声はびっくりするほど優しかった。

「だけどね、素敵なお父様のことをあまり責めないで欲しいの。……確かに娘はまだ眠っているわ。だけど、あなたのお父様がいなかったら眠っている娘を見ることもできなかった。無意味だなんて、そんなわけがないわ」
「……はい」

 今の自分がとても恥ずかしくて、僕は思わず缶を持つ両手に力を込める。
 その拍子に僅かに中身が飛び散った。

 信じられない。父さんが、七海さんを助けて亡くなったなんて。
 僕の知っている父さんはいつも仕事漬けで、そのくせ、口癖みたいに「仕事をやめたい」って言っていて、休日はだらしなくて、母さんによく怒られていて……だけど、優しかった。

「――っ」

 隣で七海さんのお母さんが息を呑む気配。
 それに合わせて、僕の膝の上にポタポタと水滴が垂れてきた。

 雨かと思って顔を上げようとして、ふと気付く。
 僕の頬をしたたり落ちる液体に。

 それをきっかけに。僕は臆面もなく泣き出していた。
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