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第1話 ストレイ・ガール
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春は、出会いと別れの季節だ。卒業式に入学式、あるいは進級、あるいは就職。寒い冬が終わり、暖かくなるのは嬉しいが、環境や人間関係が変わるのはストレスにもなる。
けれど、何となく街の空気が浮足立つ中、古書カフェ「桜華堂」は、変わらずのんびりと営業していた。
桜華堂は駅から徒歩約15分とやや不便な立地にあるが、古い洋館を改装して造られた落ち着いた雰囲気と、店主が仕入れてくる古本に、美味しいコーヒーや料理が評判となって、幸いなことに経営は安定していた。
3月も後半に入り、裏庭に一本だけ植えられている桜の木は、蕾が膨らみ始めている。普段はこの木が桜であることなんて、正直忘れかけているのに、桜というのはこの時期になると急に存在感を主張してくる。
今年はいつ花見に行けるかな、などと考えながら、森山昴は裏口から店に入った。
4月から大学2年生になる昴の身辺には、大して変化はない。叔父が経営するこの桜華堂で下宿とアルバイトをさせてもらいながら大学に通って、1年が経つ。
ここは居心地がいい。いつまでもここにいることはないだろうけれど、大学生でいる間は、変わらずここで過ごせればいいと思う。
「ただいま」
昴は買い物袋を厨房のカウンターに置いて、中で働く面々に声をかけた。春休み中の今、昴も昼間からシフトに入っていた。
「おかえり、昴君。買い出し、ありがとうね」
穏やかな笑みを浮かべてコーヒーを淹れているのは、この店のオーナーで、昴の叔父でもある七海陽介だ。50手前の彼は、いつでも温厚そうに笑っていて、怒ったところなど見たことがない。
「昴君、おそーい! 回らないから、早く入って!」
そう言って急かすのは、ホールスタッフの藤森那由多。いつも元気に動き回っている、20代半ばくらいの、はっきりした顔立ちの美人だ。
客席から「すみませーん」と呼ぶ声がして、那由多は「はーい」と明るく返事をしてそちらに向かう。食材がなくなりそうになり、ランチのピークを過ぎた隙に買い出しに出た昴だったが、見ると20数席程度の店内は満席に近くなっている。
「仁さん、イチゴと生クリーム、ここに置いておきますね」
「ああ、サンキュ」
料理担当の春日井仁は、仏頂面で黙々とオーダーを消化している。30代の彼は、顔は怖いが、怒っているわけではないことを、昴はもうわかっていた。二人とも昴の仕事仲間であると同時に、ここの2階に住む下宿仲間でもあった。
昴は買ってきたものを仕分けし、冷蔵庫に入れるべきものは入れる。手を洗ってエプロンを付けると、ホールに向かった。
交代で休憩を取りながらディナータイムの営業と閉店作業を終えて、21時。桜華堂は、他のチェーンの店より閉店時間が速い。
皆でリビングに集まってお茶とお菓子をつまみながら、テレビを見たり本を読んだり、それぞれ好きなことをしていた。
オーナーの陽介も含め、昴、那由多、仁もこの洋館の2階に住んでいる。別に住み込みで働くことが条件ではないが、家賃が格安ということもあり、ここで共同生活を送っていた。
「そうそう、今度、新しい子が来るんだ。部屋、那由多ちゃんの隣でいい? 今度の休み、掃除するから手伝ってくれる?」
陽介が、突然そんなことを言い出した。変化がないと思われた環境にも、変化が訪れるようだ。
「へえ、どんな子?」
「女の子だよ。4月から中学3年生だったかな?」
遠縁の子なんだ、と陽介は付け加える。ということは、昴とも親戚ということだろうか。
「……その子、親はいないんですか?」
仁がもっともな疑問を言う。
「いるにはいるんだけど、仕事で海外を飛び回ってて、あまり一緒にいられないみたいでねえ。親戚にあちこち預けられたりで、落ち着かない生活してるらしいんだ。けど、うちなら部屋もいっぱい空いてるから、来てもらっても問題ないし。仲良くしてあげてほしいな」
家主がそう言うのなら、店子である昴達がどうこう言うことはない。自分たちはここでの共同生活を上手く送るために努力する。今までもそうしてきたし、新しい住人がやってきてもそうするだけだ。
了解、と那由多が言い、
「で、いつ来るの、その子?」
「来週かな」
「随分急なのねえ」
「行き場がなくて困ってたみたいだから。知ってたら、もっと早く来てもらったんだけどねえ」
言っても仕方のないことだけど、と陽介は言う。中学3年という、ただでさえ難しい年頃に、そんな事情が加われば、一体どんな子なのだろうと、少々不安にはなるが、会う前から勝手な想像をするのも失礼だろう。
「その子、名前は何て言うんです?」
昴が尋ねる。
「和泉晶ちゃん。よろしくね」
スマートフォンの地図アプリで道を確認しながらスーツケースをガラガラと引っ張って、少女は桜華堂の前に辿り着いた。その古めかしい店構えを、ぼんやりと見上げる。チェーン店と違って、こういう個人店は中学生には入り辛い。
(……ここにはどれくらいいられるかな……)
とりあえず、粗相はしないようにしないと。目立たないように、息を潜めて暮らす。いつものことだ。高校生になったら、一人で暮らせばいい。それまでの辛抱だ。
胸中で呟き、少女は店のドアを開いた。ドアに付いたベルが、チリン、と澄んだ音を立てる。
けれど、何となく街の空気が浮足立つ中、古書カフェ「桜華堂」は、変わらずのんびりと営業していた。
桜華堂は駅から徒歩約15分とやや不便な立地にあるが、古い洋館を改装して造られた落ち着いた雰囲気と、店主が仕入れてくる古本に、美味しいコーヒーや料理が評判となって、幸いなことに経営は安定していた。
3月も後半に入り、裏庭に一本だけ植えられている桜の木は、蕾が膨らみ始めている。普段はこの木が桜であることなんて、正直忘れかけているのに、桜というのはこの時期になると急に存在感を主張してくる。
今年はいつ花見に行けるかな、などと考えながら、森山昴は裏口から店に入った。
4月から大学2年生になる昴の身辺には、大して変化はない。叔父が経営するこの桜華堂で下宿とアルバイトをさせてもらいながら大学に通って、1年が経つ。
ここは居心地がいい。いつまでもここにいることはないだろうけれど、大学生でいる間は、変わらずここで過ごせればいいと思う。
「ただいま」
昴は買い物袋を厨房のカウンターに置いて、中で働く面々に声をかけた。春休み中の今、昴も昼間からシフトに入っていた。
「おかえり、昴君。買い出し、ありがとうね」
穏やかな笑みを浮かべてコーヒーを淹れているのは、この店のオーナーで、昴の叔父でもある七海陽介だ。50手前の彼は、いつでも温厚そうに笑っていて、怒ったところなど見たことがない。
「昴君、おそーい! 回らないから、早く入って!」
そう言って急かすのは、ホールスタッフの藤森那由多。いつも元気に動き回っている、20代半ばくらいの、はっきりした顔立ちの美人だ。
客席から「すみませーん」と呼ぶ声がして、那由多は「はーい」と明るく返事をしてそちらに向かう。食材がなくなりそうになり、ランチのピークを過ぎた隙に買い出しに出た昴だったが、見ると20数席程度の店内は満席に近くなっている。
「仁さん、イチゴと生クリーム、ここに置いておきますね」
「ああ、サンキュ」
料理担当の春日井仁は、仏頂面で黙々とオーダーを消化している。30代の彼は、顔は怖いが、怒っているわけではないことを、昴はもうわかっていた。二人とも昴の仕事仲間であると同時に、ここの2階に住む下宿仲間でもあった。
昴は買ってきたものを仕分けし、冷蔵庫に入れるべきものは入れる。手を洗ってエプロンを付けると、ホールに向かった。
交代で休憩を取りながらディナータイムの営業と閉店作業を終えて、21時。桜華堂は、他のチェーンの店より閉店時間が速い。
皆でリビングに集まってお茶とお菓子をつまみながら、テレビを見たり本を読んだり、それぞれ好きなことをしていた。
オーナーの陽介も含め、昴、那由多、仁もこの洋館の2階に住んでいる。別に住み込みで働くことが条件ではないが、家賃が格安ということもあり、ここで共同生活を送っていた。
「そうそう、今度、新しい子が来るんだ。部屋、那由多ちゃんの隣でいい? 今度の休み、掃除するから手伝ってくれる?」
陽介が、突然そんなことを言い出した。変化がないと思われた環境にも、変化が訪れるようだ。
「へえ、どんな子?」
「女の子だよ。4月から中学3年生だったかな?」
遠縁の子なんだ、と陽介は付け加える。ということは、昴とも親戚ということだろうか。
「……その子、親はいないんですか?」
仁がもっともな疑問を言う。
「いるにはいるんだけど、仕事で海外を飛び回ってて、あまり一緒にいられないみたいでねえ。親戚にあちこち預けられたりで、落ち着かない生活してるらしいんだ。けど、うちなら部屋もいっぱい空いてるから、来てもらっても問題ないし。仲良くしてあげてほしいな」
家主がそう言うのなら、店子である昴達がどうこう言うことはない。自分たちはここでの共同生活を上手く送るために努力する。今までもそうしてきたし、新しい住人がやってきてもそうするだけだ。
了解、と那由多が言い、
「で、いつ来るの、その子?」
「来週かな」
「随分急なのねえ」
「行き場がなくて困ってたみたいだから。知ってたら、もっと早く来てもらったんだけどねえ」
言っても仕方のないことだけど、と陽介は言う。中学3年という、ただでさえ難しい年頃に、そんな事情が加われば、一体どんな子なのだろうと、少々不安にはなるが、会う前から勝手な想像をするのも失礼だろう。
「その子、名前は何て言うんです?」
昴が尋ねる。
「和泉晶ちゃん。よろしくね」
スマートフォンの地図アプリで道を確認しながらスーツケースをガラガラと引っ張って、少女は桜華堂の前に辿り着いた。その古めかしい店構えを、ぼんやりと見上げる。チェーン店と違って、こういう個人店は中学生には入り辛い。
(……ここにはどれくらいいられるかな……)
とりあえず、粗相はしないようにしないと。目立たないように、息を潜めて暮らす。いつものことだ。高校生になったら、一人で暮らせばいい。それまでの辛抱だ。
胸中で呟き、少女は店のドアを開いた。ドアに付いたベルが、チリン、と澄んだ音を立てる。
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