蒼天の風 祈りの剣

月代零

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第六章 籠の鳥は、

#3

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 グレイス家の朝は早い。日が登るのと同じくらいに起き出して、朝食の準備を始める。王都の貴婦人たちが、夜会などで夜更かしをしがちなのとは対照的である。薬草園の世話は、朝早くから行わなくてはいけないからだ。
 デニスとジルは既に庭に出ているようだった。今食卓に着いているのは、エディリーンとアーネスト、グレイス夫人、そしてアンジェリカとヨルンが給仕をしていた。
 エディリーンは憮然とした顔で、朝食を口に運んでいた。彼女の斜向かいにはアーネストが座っているが、彼とは目を合わせようともしない。

「エディリーンさん、どうかなさいましたか? 顔色が悪いようですが……」

 給仕をしていたアンジェリカが心配そうに覗き込んでくる。

「……ちょっと、よく眠れなくて」
「まあ……もう少し寝てらしてもよろしいのですよ?」
「大丈夫」

 エディリーンは曖昧に言葉を濁す。

「そうですか? では、眠気覚ましに効くお茶を淹れますね。アーネスト様も、いかがですか?」

 アーネストも、屋敷の皆が動き出す気配を感じてか、起き出してきた。彼まで早起きに付き合う必要はないのだが、そのあたりは律儀なようである。

「ああ、頼む。ありがとう」

 アーネストは何か言いたそうにしている様子だが、エディリーンを刺激しないほうがいいと理解したのか、素知らぬふりを通すことにしたようだった。しかし、やはり時折浮かない表情を見せる。グレイス夫人は、そんな二人の様子を見て、怪訝そうに首を傾げていた。
 けれど、そんなことに関係なく、一日は始まるのだ。薬草師見習いとして滞在している以上、エディリーンにはやることがある。パンとソーセージやゆで卵の朝食を平らげると、薬草園に向かった。
 

 朝早い山中には、霧が出ていた。少し視界が悪いが、作業に支障が出るほどではない。細かな水の粒子が肌や服にまとわりついて肌寒さを感じるが、日が昇れば気温も上がってくるだろう。
 エディリーンは屋敷の裏手に回り、昨日案内された坂道を登っていく。向かった先には、薄青色をした朝露草の花が咲き乱れていた。
 朝露草は、春から夏にかけて、朝方にしか花を咲かせない品種だった。丸い花弁は融合して漏斗状になっており、スカートのようなひだを形作っている。花の内部には、名前の通り朝露を湛えていた。
 この花を絞って煮詰めた汁は、傷を消毒し、炎症を抑える薬として、一般に流通している。気温が上がってくるとしぼんでしまうため、朝早くに摘まねばならないのだった。今朝のエディリーンの仕事は、この花を収穫することだった。
 早速しゃがみこんで、作業を始める。ハサミを使って手のひらほどの大きさの花を切り、籠に入れていく。
 そこに、足音が近付いてきた。

「……帰らないのか?」
「手伝う。この花を摘めばいいのか?」

 アーネストはエディリーンの隣に屈みこむ。デニスにでも借りたのか、洗いざらしのややくたびれたズボンとシャツを身に着けていた。

「……王子の近衛騎士なんかのする仕事じゃないだろうに」

 周囲に他に誰の気配もないのを確認して、声を低めつつ言葉を発する。霧も音を吸い込んでしまうから、人に聞かれる心配はないはずだ。

「俺もグレイス夫人の手伝いに来たということになっているんだから、これくらい当然だ」

 そう言ってアーネストは、手が汚れることなど構わない様子で、エディリーンと同じように花を切っていく。エディリーンは横目で少しそれを見ていたが、自分の作業に戻ることにした。

「……全部は切るなよ。種を採るのに、少し残しておかないといけないんだから」
「わかった。この辺りは残しておけばいいか?」
「ああ」

 短く言葉を交わしたのち、二人は黙々と作業を続ける。

「……昨夜は、済まなかった」

 収穫作業が一段落して、籠の中にはたくさんの青い花びらがふわふわと揺れている。
 服が汚れるのも構わず、二人は地べたに腰を下ろした。

「俺は……君に力を貸してほしい」

 エディリーンは黙って景色を見つめていた。段々と霧が晴れ、空が青さを増していく。

「あなたが味方になってくれたら、心強いと思う。だから、どうか力を貸してもらえないだろうか」

 アーネストは言葉を改めて、頭を下げた。エディリーンは黙ってそのつむじを見つめる。
 エディリーンがぞんざいな態度を取っても、この男は無礼だなどと咎めたことは一度もなかった。寛大な心で慈悲をくれてやっているつもりなのかと思っていたが、どうやらそうではないようだ。前回の短い旅の間も、そして今も、同じ人間として当然のように、自然にそう接しているだけだということを、理解できていたはずだ。そんなことができる、とてつもない変人なのだ。
 だったら。
 エディリーンは立ち上がると、軽く腕を振った。その動きに合わせるように、一陣の風が、辺りに残っていた霧を一瞬でさらっていく。

「……わたしは自分が何者かは知らない。でも、帝国が欲しがっているとしたら、おそらくこの力だ」

 アーネストは何を言われているのかわからないといった様子で、首を傾げる。

「魔術を発動するには、二つ必要なものがある。まずは、術式の構築。魔法陣なんかがそれだ。それから、術を発動するための言霊。いわゆる呪文だな」

 魔術を発動するのに最も大切なことは、それを行おうというイメージだ。そして、そのためにどのようにマナの流れを操作し、制御するために陣を描いたり、術式を道具に込めたりする。
 その術を発動させるための鍵が呪文、すなわち言霊である。術に名を授け、イメージを具現化するための言葉だ。

「あんたも色々と手の内を明かしてるだろうから、これで相子だ。わたしは、何の準備もなしに魔術を使える。マナの許容量も多いみたいだから、強力な術も一瞬で発動できる。師匠には人前ではやるなって言われてるけどな」

 そういえば、前回は余裕がなくて気がつかなかったが、魔術を使った戦闘時に、彼女は呪文詠唱なしで術を発動していなかったか。
 呪文詠唱で隙ができる。それが、魔術師の戦いの弱点だった。
 その弱点がなくなり、それを成そうと思うだけで術を行使できる。本当なら、前代未聞のことだ。
 それがどれほどのものか、魔術に明るくないアーネストでも想像に難くない。
 例えば戦場で、敵地の真ん中に一人丸腰で降り立ち、一部隊を壊滅させる、などということも可能になる。
 彼女は魔術師であると同時に、剣士としても優秀だ。その身体能力と魔術が合わさったら、どれほどのことが可能になるか。そして、その力を利用しようとする者が、ごまんと現れることだろう。それを想像すると、腹の底が冷える思いがした。

「でも、戦場に一人で働かせようとか思うなよ? マナも無限にあるわけじゃないし、生身の人間なんだから、体力の限界だってある。それと、この方法が適用できない術もある。治癒の術なんかは、もっと複雑な術式と、人体の仕組みの理解なんかが必要だから、簡単にはできない」

 アーネストの心の内を見透かしたように、エディリーンは付け加える。そして、

「条件が三つある」

 向き直って、彼女は指を三本立てた。

「一つは、この力を当てにしないこと。当てにされても、期待されるようなことはできない。このことはあんたと……ユリウス王子くらいになら話してもいい。わたしの力を利用しようとしたら、どんなことをしてでも逃げてやる。二つ目は、わたしが何かへまをしても、師匠やジルには迷惑がかからないようにすること。もう一つは、必要がなくなったら、死んだことにでもして解放してくれること。……それを約束するなら、あんたたちの思惑に乗ってやってもいい」

 しばし、静かに互いの瞳を見つめ合う。その心の内を確かめるように。

「わかった。騎士の名にかけて、その約束を違えないことを誓おう」
「では、契約成立だな」

 騎士なら剣に誓うものだが、今は置いてきてしまっていた。よって、拳を作って、軽く突き合せた。
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