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それを見つめる時、それもまたあなたを――
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今からお話しするのは、通勤途中に出会った、奇妙な出来事です――。
実は、年明けから転職しまして。……はい、ありがとうございます。
ええ、お陰様で、ブラックな職場を脱出して、いい職場に恵まれたと思います。小さな会社だけど、皆優しいし、ほとんど定時で帰れるし。
それで、その新しい職場は、各駅停車しか停まらない駅からちょっと歩いたところにあるんですけど。小さな商店街の中にある雑居ビルの一角にオフィスを構えてまして。
ある日、ちょっと寝坊して、遅刻しそうになってしまったんですね。それで、電車を降りて最寄り駅から走ってたら、ふと、横道に目が行ったんです。商店街から外れる細い路地があって、その奥は住宅街なんですけど、そこを突っ切ったら早いんじゃないかって。地図上では、直線距離ならそっちのほうが早そうだったんです。
それで、その道を行ってみることにしたわけです。表と違って、人通りのあまりない、静かな道でした。こっちの方に行けば会社の近くに出るはずだよなって思いながら、急ぎ足で歩いていたら――閑静な住宅街の雰囲気から浮いている、古ぼけた建物が見えたんです。
白っぽい新しい戸建てやアパートが並ぶ中で、その小さなマンションには、どんよりとした空気が漂っているみたいでした。
外観は、レンガっぽい茶色いタイル張りで、ぱっと見レトロな感じで。でも、レトロというよりはボロ――いやもうボロを通り越して廃墟かと思いました。
一階部分はテナントが入るようになっていて、二階から上が住居の、小さめのマンションなんですけど。テナント部分には居酒屋とカラオケの看板が出ていたんですが、看板は色あせて、敷地内はゴミだらけで、営業していないみたいでしたし。上の住居部分には、窓にカーテンの代わりに障子戸が嵌まっているのが見えるんですけど、そのほとんどがビリビリに破けていて、階段の手すりやベランダの柵も錆だらけ。ベランダには、どこからか飛んできた種が芽吹いたのか、何かの草がぼうぼうに生えているところがあって。窓ガラスも割れている箇所がありました。
とても人が住んでいるようには見えないでしょう? だから、こんなところに廃墟なんてあるんだなあって思いながら、通り過ぎたんです。
ああ、ちなみに、やっぱり近道だったみたいで、会社にはギリギリ遅刻せずにすみました。それで、時々その道を通ることにしたんです。そっちの道の方は、狭くて見通しが悪いところもあるから、普段は商店街の方を通るんですけど、遅刻しそうな時とか、気分転換したい時とかに。
だけど、そのマンションの前を通る時は……ちょっと、気のせいかもしれないですけど、なーんか嫌な空気を感じるんですよね。誰かに見られてるような感じもして。でも、マンションを見上げても誰もいないし、人が住んでる気配もなくて。やっぱり廃墟だよな……って思いながら、毎回通り過ぎてたんです。
嫌ならそのマンションの前を通らなければいいんですけど、そっちの道を通る時はそこを通らないと、逆に遠回りになっちゃうんですよ。だから、仕方なく。その前に寝坊すんなよって話ですけど。ははは。
……それで、ある日そのマンションの前を通った時、ベランダに洗濯物が干してあったんですよ。だから、あれ、廃墟じゃなかったのかって思って。
でも、その日は雨が降ってたんですよ。四月の頭だっていうのに、冬に逆戻りしたみたいに寒くてみぞれも降り出した、変な天気の日があったでしょう? あの日です。
でもまあ、天気予報を確認せずに、外に洗濯物を干して出かけちゃったのかな、なんて思いました。それでつい見てたら、なんだかそこに干してあるシャツやタオルが……血に染まってるみたいに、赤くなってきたんです。最初は白かったはずなのに。
おかしいなと思ったんですけど、目が離せなくてそのまま見てたら、突然窓が開いたんです。そこから、パンツ一丁のおっさんが出てきて――目が合いました。そのおっさん、こう、にたあっと笑って……手には、血の付いた包丁を持ってたんです。
あ、やべえと思いました。怖くなって、全力で走って逃げました。それ以来しばらく、その道は通ってませんでした。
そのままその出来事を忘れかけてたんですけど、ある日、半日だけ休日出勤した日の帰りに、先輩と一緒になったんですね。せっかくだから、飯でも食っていかないかって。
もちろんOKして、先輩のおすすめの店に向かったんです。どこかなって思いながらついて行ったら、しばらく通ってなかった、あのマンションのある道に入っていくんですよ。あの日の光景が蘇りました。でも、何か事件があったって話は聞かないし、俺の気のせいだったのかもとか思って。
先輩はあのマンションのこと知ってるのかなって思って、聞いてみたんです。この先に、廃墟っぽいマンションがありますよねって。
そしたら先輩は、どこのことだって、首を傾げるんです。でも、どんどん歩いて、あのマンションがある場所に近付いていくんですよ。どうしようって思いながら、ほら、その角の先に……って言ってるうちに、着いちゃって。
でも、そこにあったのはあの廃墟っぽいマンションじゃなく、まだ新しい小綺麗なマンションでした。
一階がテナントで、上の階が居住用っていう造りは同じなんですけど、シミ一つない白っぽい壁の、今風の建物があったんです。
先輩のおすすめっていう店は、そこの一階に入ってるカフェでした。穴場だけど、美味いんだって。個人店みたいで、内装も落ち着いてて、雰囲気はよかったです。テナントはカフェの他に、美容院が入ってました。
俺は狐につままれたような……っていうんですか、そんな気持ちで席に着いて、ランチセットを注文しました。ハンバーグプレートと、コーヒーを。
まあ、美味かったですね、料理もコーヒーも。それで、一息ついてから、先輩にこの店っていつからあるんですかって、聞いてみたんです。俺がこの道を通らない間に、あのマンションは取り壊されて、新しい建物ができたのかなって。
そしたら、自分がこの会社に入った時にはあったから、少なくとも三年くらい前にはあったよって言うんです。いい店だから、時々来るんだって。
いやじゃあ、俺が見たあのマンションやおっさんは、何だったんだって話です。場所を間違えたんじゃないかって? いやいや、そんなはずないです。絶対、あの場所でした。
それから時間がある時にちょっとだけ探してみたけど、あの廃墟っぽいマンションは、どこにもありませんでした。
俺が見たものは何だったのか、今でもわからないままです。
了
実は、年明けから転職しまして。……はい、ありがとうございます。
ええ、お陰様で、ブラックな職場を脱出して、いい職場に恵まれたと思います。小さな会社だけど、皆優しいし、ほとんど定時で帰れるし。
それで、その新しい職場は、各駅停車しか停まらない駅からちょっと歩いたところにあるんですけど。小さな商店街の中にある雑居ビルの一角にオフィスを構えてまして。
ある日、ちょっと寝坊して、遅刻しそうになってしまったんですね。それで、電車を降りて最寄り駅から走ってたら、ふと、横道に目が行ったんです。商店街から外れる細い路地があって、その奥は住宅街なんですけど、そこを突っ切ったら早いんじゃないかって。地図上では、直線距離ならそっちのほうが早そうだったんです。
それで、その道を行ってみることにしたわけです。表と違って、人通りのあまりない、静かな道でした。こっちの方に行けば会社の近くに出るはずだよなって思いながら、急ぎ足で歩いていたら――閑静な住宅街の雰囲気から浮いている、古ぼけた建物が見えたんです。
白っぽい新しい戸建てやアパートが並ぶ中で、その小さなマンションには、どんよりとした空気が漂っているみたいでした。
外観は、レンガっぽい茶色いタイル張りで、ぱっと見レトロな感じで。でも、レトロというよりはボロ――いやもうボロを通り越して廃墟かと思いました。
一階部分はテナントが入るようになっていて、二階から上が住居の、小さめのマンションなんですけど。テナント部分には居酒屋とカラオケの看板が出ていたんですが、看板は色あせて、敷地内はゴミだらけで、営業していないみたいでしたし。上の住居部分には、窓にカーテンの代わりに障子戸が嵌まっているのが見えるんですけど、そのほとんどがビリビリに破けていて、階段の手すりやベランダの柵も錆だらけ。ベランダには、どこからか飛んできた種が芽吹いたのか、何かの草がぼうぼうに生えているところがあって。窓ガラスも割れている箇所がありました。
とても人が住んでいるようには見えないでしょう? だから、こんなところに廃墟なんてあるんだなあって思いながら、通り過ぎたんです。
ああ、ちなみに、やっぱり近道だったみたいで、会社にはギリギリ遅刻せずにすみました。それで、時々その道を通ることにしたんです。そっちの道の方は、狭くて見通しが悪いところもあるから、普段は商店街の方を通るんですけど、遅刻しそうな時とか、気分転換したい時とかに。
だけど、そのマンションの前を通る時は……ちょっと、気のせいかもしれないですけど、なーんか嫌な空気を感じるんですよね。誰かに見られてるような感じもして。でも、マンションを見上げても誰もいないし、人が住んでる気配もなくて。やっぱり廃墟だよな……って思いながら、毎回通り過ぎてたんです。
嫌ならそのマンションの前を通らなければいいんですけど、そっちの道を通る時はそこを通らないと、逆に遠回りになっちゃうんですよ。だから、仕方なく。その前に寝坊すんなよって話ですけど。ははは。
……それで、ある日そのマンションの前を通った時、ベランダに洗濯物が干してあったんですよ。だから、あれ、廃墟じゃなかったのかって思って。
でも、その日は雨が降ってたんですよ。四月の頭だっていうのに、冬に逆戻りしたみたいに寒くてみぞれも降り出した、変な天気の日があったでしょう? あの日です。
でもまあ、天気予報を確認せずに、外に洗濯物を干して出かけちゃったのかな、なんて思いました。それでつい見てたら、なんだかそこに干してあるシャツやタオルが……血に染まってるみたいに、赤くなってきたんです。最初は白かったはずなのに。
おかしいなと思ったんですけど、目が離せなくてそのまま見てたら、突然窓が開いたんです。そこから、パンツ一丁のおっさんが出てきて――目が合いました。そのおっさん、こう、にたあっと笑って……手には、血の付いた包丁を持ってたんです。
あ、やべえと思いました。怖くなって、全力で走って逃げました。それ以来しばらく、その道は通ってませんでした。
そのままその出来事を忘れかけてたんですけど、ある日、半日だけ休日出勤した日の帰りに、先輩と一緒になったんですね。せっかくだから、飯でも食っていかないかって。
もちろんOKして、先輩のおすすめの店に向かったんです。どこかなって思いながらついて行ったら、しばらく通ってなかった、あのマンションのある道に入っていくんですよ。あの日の光景が蘇りました。でも、何か事件があったって話は聞かないし、俺の気のせいだったのかもとか思って。
先輩はあのマンションのこと知ってるのかなって思って、聞いてみたんです。この先に、廃墟っぽいマンションがありますよねって。
そしたら先輩は、どこのことだって、首を傾げるんです。でも、どんどん歩いて、あのマンションがある場所に近付いていくんですよ。どうしようって思いながら、ほら、その角の先に……って言ってるうちに、着いちゃって。
でも、そこにあったのはあの廃墟っぽいマンションじゃなく、まだ新しい小綺麗なマンションでした。
一階がテナントで、上の階が居住用っていう造りは同じなんですけど、シミ一つない白っぽい壁の、今風の建物があったんです。
先輩のおすすめっていう店は、そこの一階に入ってるカフェでした。穴場だけど、美味いんだって。個人店みたいで、内装も落ち着いてて、雰囲気はよかったです。テナントはカフェの他に、美容院が入ってました。
俺は狐につままれたような……っていうんですか、そんな気持ちで席に着いて、ランチセットを注文しました。ハンバーグプレートと、コーヒーを。
まあ、美味かったですね、料理もコーヒーも。それで、一息ついてから、先輩にこの店っていつからあるんですかって、聞いてみたんです。俺がこの道を通らない間に、あのマンションは取り壊されて、新しい建物ができたのかなって。
そしたら、自分がこの会社に入った時にはあったから、少なくとも三年くらい前にはあったよって言うんです。いい店だから、時々来るんだって。
いやじゃあ、俺が見たあのマンションやおっさんは、何だったんだって話です。場所を間違えたんじゃないかって? いやいや、そんなはずないです。絶対、あの場所でした。
それから時間がある時にちょっとだけ探してみたけど、あの廃墟っぽいマンションは、どこにもありませんでした。
俺が見たものは何だったのか、今でもわからないままです。
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