猫飼い初心者の奮闘

月代零

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1.動物病院への道

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 その日、私は途方に暮れていた。

 一体どうすればいいんだ。

 頭の中には、その一文がリフレインしていた。
 私の手には、100円ショップで買った、洗濯の際に洗濯物を保護するためのネット――洗濯ネットがある。目の前には、怯えた様子で縮こまる、我が家の飼い猫がいた。



 人生で初めて猫を飼い始めて数日。私は猫を動物病院に連れて行こうとしていた。環境が変わったストレスか、猫氏が下痢をしてしまったのだ。汚い話で申し訳ないが、動物たちは自分の症状を、正確に人間に伝える術など持たない。だから、こちらが気付いてやらねばならないし、気になる症状があれば病院に連れて行くのは、間違った選択ではないと思う。それに、きちんとした飼い主であることを示さねばならないという、見栄のようなものもあった。

 ついでに、駆虫薬の投与と、爪切りもしてもらおうと思った。毎年のワクチン接種と、毎月のノミ・ダニ・フィラリア予防の薬を投与すること。譲渡時の誓約書にそう書いてあったし、その必要性も理解しているつもりだ。

 だから、まずは猫氏を洗濯ネットに入れようとした。
 だが、近付こうとすると逃げられてしまう。こちらも猫を捕まえるなど初めてで、噛まれたりしないかと及び腰なのもあるが、相手は素早い。足が短めで、どちらかというとぽっちゃり体形なのに、こちらの隙を衝いて逃げていく。さすが猫。まさに脱兎のごとく。猫だけど。

 我が家の猫は元野良の保護猫。施設で過ごして1年ほどのところを引き取った。
 元野良の子は、なかなか人に馴れず、触れないし、人が近付くとシャーシャーと威嚇の声を上げる子も多い。譲渡元の施設にいた子もそういう子が多く、その中でうちの子になった猫は、比較的人馴れが進んでいた子のはずだった。面会に行った時はちょっと撫でることができた……っけ? あまり覚えていない。ごめん。

 しかし、うちに来てからはなかなか撫でさせてくれなかったし、抱っこなんてもちろんできなかった。おもちゃで誘ってもあまり遊ばないし、距離は遠かった。

 そんな猫が、おとなしくキャリーに入ってくれるわけがない。猫がごろごろと甘えて膝に乗ってきたり、一緒に寝たりしてくれる生活は元から想定していなかったが、こんなところに困難があるとは。想像力が足りなかった。
 猫を外に連れて行くには、キャリーに入れなければならない。訓練された犬のように、こちらの言うことを聞いてはくれないのだ。下手に外に出せば、いなくなってしまう危険がある。

 だからまず、洗濯ネットに入れる。だが、それが難しかった。ニンゲンも猫を飼うのが初めてで、その手のノウハウがない。

 どうすればいいのか、とりあえずインターネッツで「猫 洗濯ネット」などと検索してみた。すると、説明文や動画がいくつもヒットする。

 とりあえず、上の方に出てきた記事を一つ読んでみる。なになに、「まずは猫ちゃんの頭に洗濯ネットを被せます」。

 ……だから、どうやって? 近付くと逃げちゃうんだってば。

 動画を見てみると、おとなしそうな猫ちゃんが、「何? 何なの?」という感じで頭に洗濯ネットを被せられ、戸惑いながらもおとなしく収容される様子が流れた。

 いや、それができたら困ってないんだって。

 ケージの中でやるといいと、譲渡元の施設からアドバイスをもらったが、失敗。あえなく、細く開けた扉から逃げられてしまった。

 どうしたらいいかわからなくて、おっかなびっくりだったこちらが悪い。

 何度か追い回して(猫氏には申し訳なかった)、走り出したところを、偶然魚を掬うように上手くネットに収めることに成功した。心臓がバクバクした。

 だが、自分より大きな生き物に追いかけ回された猫氏の方が怖かっただろう。ごめん。

 そうやって何とか動物病院に連れて行き、薬をもらった。
 しかし、ここでまた問題が発生した。それは粉薬だったのだ。どうやって飲ませればいいの?

 フードやおやつに混ぜてみて、と病院では言われた。そこで、猫が夢中になるという「ちゅーる」というペースト状のおやつに混ぜてみたが、食べない。
 ちゅーるは細い袋状のパッケージになっていて、封を切ればそのまま猫に食べさせることができる。そこで、一度ちゅーるを袋から出し、少量に薬を混ぜて袋の底に戻し、その上に何も混ぜていないちゅーるを戻すという、多少手の込んだこともやってみた。何も入ってないよーという体で与えてみる作戦だ。

 しかし、最初はぺろぺろと美味しそうに食べていたのが、薬を仕込んだ辺りに辿り着くと、「何やこれ?」という感じで不審な目をこちらに向け、食べなくなった。やはり、においでわかってしまうらしい。
 他に調べた方法では、水で溶かしてシリンジやスポイトに入れ、猫を押さえて口に入れるというものがあった。

 ……それは無理だ。

 そうして、初めての投薬は断念してしまった。しかし、今だから言えるが、錠剤の方がはるかに呑ませるのが楽だ。

 幸い、下痢は一過性のものだったのか、次の日には状態の良いウンチに戻っていた。自然に治ってよかったが、今後のためにも、投薬や通院が楽にできるようにならなければならないと思うのだった。
 その後もしばらく、「捕獲怖い……でも病院に連れて行かなきゃ……」と、事あるごとに猫氏を追い回してしまう事態が続いた。

 全く上手くいかず、通院を諦めてしまったこともあった。あまり追い回すと、恐怖からかおしっこを漏らしてしまうこともある。そんなことがあった日は、とても申し訳ない気持ちになった。
 こんな不甲斐ない飼い主で申し訳ない、うちが引き取らない方がこの子は幸せになれたんじゃないかと悩むときもあった。

 余談だが、猫のおしっこは強烈なにおいがする。彼らは体内の水分を節約するために、濃縮されたおしっこを出すため、においも濃くなるのだ。
 そして、そんなことをした後は、猫の方も怯えと警戒心を全開しに、何時間もご飯も食べずに部屋の隅や物陰にじっと隠れ、出て来ても何日間かシャーシャー言われる日が続く。

 早く仲直りする方法はないかと検索し、「猫は一度信頼を失うと、関係の修復は不可能」などと書かれた記事が出てきて絶望したりもした。

 そんなこともあったが、今ではこちらもコツを掴み、手早く捕まえられるようになった。猫氏の方も、あまり逃げなくなった。シャーと言われても「はいはい、ごめんねー」と言いながらむぎゅむぎゅと洗濯ネットに入れ、さっと病院に連れて行く余裕ができた。
 そうして帰ってきた後は、「酷い目に遭ったぜ……」と言わんばかりにのそのそとネットから這い出し、避難がましい目でこちらを見るが、ご褒美のおやつを出すとぺろりと平らげる。そして、いつもの寝床で昼寝を始めるし、撫でさせてくれる。

 少しずつでも、こちらに信頼のようなものを寄せてくれているのだろうか。そうだといいな。

 そんな猫氏との暮らしももう三年目になる。だが、もっとずっと前から一緒に暮らしていた気がするし、もう猫のいない暮らしなんて想像できない。

 甘えてくる猫はもちろん可愛いだろうが、こんなふうに少しずつ関係の変化を感じる日々も、悪くないと思うのだった。
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