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第二話
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緑色のカーテンを開ける。朝日が眩しくて少し目が眩んだ。
雑多屋の二階にある空き部屋。今ではわたしの部屋である。
空き部屋と言っても、ベッドやサイドテーブル、机等一通りの家具は揃っていた。何でも、前に住んでいた人が使っていたままらしい。まるでいつでも使えるようにと言わんばかりに掃除が行き届いていた。
「本当にこの部屋を使ってもいいんですか?」
「どうぞ。使ってもらった方が家具たちも嬉しいだろうし」
そう言われて、ありがたくこの部屋を使わせてもらっている。
だが、わたしは未だに一階に降りられてはいなくて。
「記憶喪失なんだから、少し様子を見よう。まだ下に行ったらダメだよ」
だなんて言って、御空くんが許してくれなかったのだ。有無を言わせぬ笑顔の御空くんに、わたしはただただ首肯することしかできなくて。わたしの動ける範囲は二階の居住スペースのみだった。
その間、御空くんは甲斐甲斐しくお世話をしてこようとした。
例えば――
「はい、これ。その本の下巻」
「あ、ありがとうございます」
と、本を読み終わった瞬間に渡してきたり、
「花夜、あーん」
「じ、自分で食べられます!」
と、手ずから食事を食べさせてこようとしたり、
「花夜ー。のぼせてないー?」
「だ、大丈夫です!」
と、風呂に入っている間に外から声をかけてきたり。
――か、過保護だ……。そもそも、御空くんには羞恥心というものはないのだろうか……。
ないんだろうなぁ、とわたしが密かに溜息をついたのは両手では数え切れない程で。
あまりにも何もやらせてもらえないので、
「わたしだって、いい加減働きたいんです!何かお役に立ちたいんです!」
と、わたしはキレた。
最初はお金の心配をして働かないとと思ったけれど、誰かの役に立ちたいという気持ちは記憶喪失である今でも存在していて。
強く懇願すれば、御空くんが対に折れた。
――勝った!
わたしはぐっと拳を握った。
こうして漸く御空くんからの許可がおり、現在わたしは一階の店内スペースへと続く扉の前にいる。
「はいどーぞ」
「あ、ありがとうございます」
御空くんが扉を開けて店の売り場へと促す。
売り場に来たのはこれで二回目だ。わたしが物珍しげにきょろきょろと店内を見回していると、ぽんぽんと肩を叩かれた。
反射的に振り返ったその先にいたのは、白い兎さん面だった。
目と鼻の先にあるそれに驚いて思わず「うわっ!?」と悲鳴を上げる。
「可愛げのない悲鳴だなぁ」
くつくつと喉の奥で笑う男に、わたしは少し不機嫌そうに膨れ面を浮かべた。
「御空くん驚かさないでくださいよ!あと、可愛げがなくて悪かったですね!」
「ごめんごめん。大丈夫、花夜は可愛いよ」
「そ、そんな言葉は求めていません!というか何ですかそのお面は!」
「いやー、慣れさせようと思ってさ」
いろんな意味で顔を赤くさせたわたしを見て御空くんがくつくつと笑う。兎さん面を外したその顔は悪戯が成功した子どものようだった。
――全くもう!……って、慣れさせるってどういうこと?
わたしはそう思ったが、多分こういう商品もあるからいちいち驚かないように慣れさせようとしているのだろうなと自己解釈をした。
他に思いついた疑問をわたしは口にする。
「御空くん、どうしてこのお店は『雑貨屋』じゃなくて『雑多屋』っていうんですか?」
一見するとただの雑貨屋としか思えない。
わたしの質問に特に悩むことなく御空くんが答える。
「読んで字の如く、ここはいろんなモノが入りまじっている店だから」
「……よくわかりません」
「簡単に言えば、雑貨屋は日常生活に必要なこまごました商品を売っている店のことをいうんだけど、ここは日用品以外のモノも売っているから」
「なるほど……?」
「首を傾げながらなるほどと言われてもねぇ……」
眉尻を下げて御空くんが苦笑した。
「あとは、ここには新しいモノから古いモノまでいろいろ置いてあるからね。普通の雑貨屋でもないし、普通の骨董品店でもないし、もう面倒だから諸々引っくるめて雑多屋でいいかなぁって。あ、一応商品を取り扱う資格はちゃんと持っているからそこのところはご心配なく」
――雑なのか、しっかりしているのかよくわからないなこの人。
目の前の男に胡乱げな眼差しを向ける。
その視線に気がついているはずなのに、御空くんは極々普通に話し続ける。
「業務内容は主にレジ対応と接客、品出し、商品の整理整頓に掃除といったところかな。祭りとかで出店することもあるけど」
「他に従業員の方はいないんですか?」
「基本僕だけで回しているよ」
「……マジですか」
「マジ。まあ、この店は不定期営業だし、都合が悪かったら開けないってこともままあるから」
「……よくそれで何とかなっていますね」
「普通ならこうはいかないんだろうけど、何とかなっているんだよなぁこれが。それに、気分が良ければ手伝ってもらえることもあるしね」
そう付け加えた御空くんに、臨時のお手伝いさんでもいるのかなとわたしは考えた。
「さて、さらっと説明も終わったことだし……そろそろ出てきていいよー」
――出てきていいって何がですか?
わたしがそう訊ねる前に、ちりんちりん、と鈴の音が店内に鳴り響いた。
お客さんが来たのかな、と思い、店の出入り口を見遣る。だが、格子戸が開いた形跡はない。
そもそも、ここへ来る前に「今日は店はお休み」だと御空くんから説明されていた。
現に、店の立て看板は今店内の片隅に置かれている。つまり、格子戸が開くはずがないのだ。
それならば風で鈴が揺れたのかもしれないと思ったが、窓ガラスは締め切ったままだった。
御空くんはずっとわたしの近くにいて、彼が格子戸まで瞬時に動くことも不可能だ。
うーんと思考を巡らしていたその時、ぽんっと空中から軽い音がした。
それはわたしの真上からして、顔を上げると――
「へぶっ!?」
「あ!」
「おっと」
わたしの顔面に何かが落ちてきた。
衝撃のあまりぐらりと後方に倒れかけた体を御空くんが難なく支え、わたしに合わせてゆっくりとその場にしゃがみ込む。
痛みのあまり両手で顔をおさえるわたしの耳に響くのは、慌てたような高い声と呆れたような御空の声で。
「だ、大丈夫!?」
「お前……記憶喪失の人間になんてことを……」
「う、五月蝿いわね!新しく働く子に漸く会えるからちょっとテンションが上がって着地に失敗しちゃったのよ!」
傍で何やら言い合っているのを聞きつつ、わたしはじんじんと痛む顔面から徐に手を離す。
――よかった。鼻血は出ていないみたい。
「花夜ちゃん、大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫、で、す……」
鈴を転がすような声で心配げに訊かれ、咄嗟に答えたわたしは閉口した。
目の前にいるのは、一羽の兎だった。
純白の体毛に汚れは一切見当たらない。耳先が黒く、首には鈴のついた緋色の組紐をつけている。純黒の瞳は心配そうにわたしを見ていた。
ぱちぱちと目を瞬かせたわたしはそろりと後ろを振り返る。すると、青い瞳と目が合った。
自分を支えるために御空くんが後方にいるのはわかっていた。今もその手はわたしの肩に触れているのだから。
けれども、わたしは訊ねずにはいられなかった。
「……今喋ったのって、御空くんじゃないですよね?」
「うん。僕じゃないよ」
ですよねー、とわたしは心の中で呟いた。
あんな高い声を御空くんが出したのだとは考えられないし、考えたくもない。第一、御空くんはわたしのことを呼び捨てで呼んでいる。
「えーっと、それじゃあ……」
考えられるのはただ一つ。
恐る恐る再び兎さんを見遣る。
「さっき喋ったのはあたしよ」
「で、ですよね!?」
思わず大きな声が口から飛び出した。
一応そう予想をしたからこそ兎さんの方を見たのだが、いざ兎さんが喋っているのを目の当たりにしたら驚かずにはいられなかった。
――もしかして、実はあのまま倒れて頭を打って気絶してしまって、今見ているのは夢なのかも……?
未だにじんじんと痛むのは顔面で、頭は痛くないのだけども、もしかしたらということもあるかもしれない。
わたしはそろそろと自身の頬を抓ってみた。
結果、頬が痛くなっただけで夢から覚めることもなければ目の前の現実は変わらなかった。
「うう、痛い……」
「何やってんの花夜」
「いや、もしかしたらあのまま気絶して夢を見ているんじゃないかと思いまして……」
「残念。これは夢じゃなくて現実だよ」
「……そう、みたいですね」
ほんの少しの期待を御空くんにばっさりと一刀両断されてしまった。
ちょっぴり悲しくなりながらも、これが現実だというのなら、自分のことについてわかったことが一つある。
「わたし、動物とお話できたんですね……」
「多分それは違うよ」
「え?でも……」
またもや一刀両断されてしまった。
困惑した眼差しが御空くんと兎さんを行き交った。
成り行きを黙って見ていた兎さんが深い溜息をついた。
「どうやら、記憶喪失だというのは本当みたいね」
「僕がそんな嘘つくと思う?」
「時と場合によるわね」
「酷いなぁ。花夜ー慰めてー」
「ええっと……」
頭に顔を押し付けてきた御空くんにわたしは戸惑うばかりだ。まあ、戸惑っているだけで別に嫌がる程でもないけど。
御空くんはそれをわかっていてこのような行動をとっているようだ。口元がニヤついている。
「甘やかしちゃダメよ花夜ちゃん。ほんと、質が悪いのよねこの男は」
御空くんの言動に対して、兎さんが眉間に皺を寄せる。
チッと舌打ちをした兎さんに、びくりとわたしは肩を震わせた。
「おいおい舌打ちすんなって。花夜が怖がっているだろ」
「あんたへの舌打ちに決まっているじゃない。というか、あんた花夜ちゃんに何も説明してないでしょ」
「だって、実物を視た方が信じてもらえるだろ? それに、花夜の驚く顔が見たかったし」
「明らかに後者が目的でしょ!」
「勿論」
「開き直るな!」
あーだこーだと言い合う二人の間から「あ、あの!」と声が張り上げる。
「で、できれば説明を要求します!」
わたしはぎゅっと目を瞑ってビシッと挙手した。
間に挟まれているのに蚊帳の外に置かれたこの状況に不安になって、一杯一杯になってしまった。
御空くんと兎さんは閉口し、何やらお互いに目で遣り取りをする。兎さんからの鋭い視線に御空くんは肩を竦めた。
御空くんが慰めるようにわたしの頭を撫でる。
「ごめんごめん。口で説明するより、百聞は一見に如かずだと思ってさ。僕たちの目の前にいるこの兎はね、妖怪なんだ」
「……よう、かい?」
「そう、妖怪。あやかし、物の怪、魔物、怪異とか呼び方はいろいろあるけど」
「あの、やっぱりわたし夢を見ているんじゃ……」
「夢じゃないからね。はい、頬を抓ろうとしない」
わたしは再び自身の頬に手を持っていこうとしたが、御空くんに阻まれてしまった。
手を掴んだまま、御空くんが続ける。
「花夜はこうして妖怪を視ることはできるみたいだね」
「そうなんですか……」
「そうなんですよー」
御空くんに肯定されてもやっぱりわたしに自覚はなくて。
でも、不思議と違和感はない。妖怪が視えるという事実をわたしは極々自然に受け入れていた。
目の前の白い存在を確と認める。けれども、やはりその存在はただの兎さんにしか見えない。
それでも、この兎さんは妖怪で、こうして意思疎通もちゃんとできている訳で……。
わたしはその場で正座をして居住まいを正した。自然と手を解かれた御空くんが「あー」と残念そうな声を漏らしたが構っていられない。
御空くんと兎さんの会話や兎さんの口振りから察するに、わたしのことはある程度話が通っているようだ。
兎さんを真っ直ぐ見つめ、少し緊張した面持ちでゆっくりと口を開く。
「わたし、花夜と申します。もし宜しければ、お名前を教えていただけないでしょうか?」
「硬い!硬いわよ花夜ちゃん!」
「ぷはっ、花夜らしいなぁ」
突っ込む兎さんに対して、御空くんは至極楽しそうだ。
――失礼のないように訊いたつもりだったけど、やっぱり忘れてしまったこと自体が失礼だよね……。
しょぼんと落ち込むわたしの肩に、やれやれといった様子で御空くんが両手を置く。
「ほらほら、花夜がこんなにも丁寧に訊いているんだから、そっちも早く自己紹介したら?」
「黙りなさいこのセクハラ店主!今言おうと思っていたところよ!」
兎さんは御空くんに怒鳴った後、こほん、と咳払いしてわたしに向き直った。
「ご丁寧にありがとう花夜ちゃん。あたしの名前は鈴ゑ。鈴の付喪神よ」
「鈴の、付喪神……?」
鈴と言われて思い出したのは先程耳にした鈴の音だ。
わたしは店の出入り口の方へと視線を移す。
格子戸に掛かった鈴を眺めていれば、「そう。あの鈴の付喪神なの」と兎さん――鈴ゑさんがぴょんと跳ねた。
「花夜ちゃん。記憶がなくて不安だと思うけど、わからないことがあったら何でも訊いてちょうだいね」
「はい、ありがとうございます!」
「という訳で、同じ雑多屋で働くモノとしてよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
鈴ゑさんが右手もとい右前脚を差し出す。
小さなそれを優しく包み込んで、わたしは柔らかく微笑んだ。
女子二人のほのぼのとした空気に水を差したのは、この場で唯一の男である御空くんだった。
「あ、しまった!一番大事なことを花夜に訊いていなかった!」
大声を張り上げた御空に、わたしはきょとんとし、鈴ゑさんは眉間に皺を寄せた。
「何よ、わざとらしいわね。男の嫉妬は醜いわよ」
「あー、別に鈴ゑに訊くことはないからもう戻っていいよ。話があるのは、花夜にだから、ね」
御空くんにしっしっと手を払われて、鈴ゑさんは苛立ちを覚えたようだ。不服そうにばしばしと後ろ脚で地面を叩いた。
けれど、動作とは対照的に御空くんの目は真剣そのもので。
「……はいはい、わかったわよ」
渋々といった様子で鈴ゑさんが姿を消す。
ちりん、と鈴の音が虚しく響いた。
「話ってなんですか?」
店内が静寂に包まれた中、振り返って御空くんに問う。
青い瞳は一瞬宙を彷徨った後、真っ直ぐにわたしを見つめた。
「いろいろ話しといて今更だけどさ、花夜はこの店で働いても良いって思っている?ここにいても良いって思っている?」
突然の御空くんの言葉に、わたしはきょとんとして首を傾げた。御空くんが何でそんなことを言うのかわからなかったからだ。
「ここじゃない場所へ行ってもいいんだよ?」
その言葉はわたしに向けられたもので。でも、それだけではない。まるで御空くん自身にも言い聞かせているようだった。
ちょっと緊張した面持ちで、美しい青い瞳は不安で陰っている。
ここ数日間でこんな御空くんは見たことがない。
わたしは瞠目した。そして、彼には申し訳ないが、くすりと笑ってしまった。
「ほんと、今更ですね」
「うっ……だって、これはちゃんと確認しておかないといけないことだから……」
御空くんが気まずそうに顔を逸らす。
わたしは少し困ったように眉尻を下げた。
「わたし、御空くんに言われるまでここを出て行くなんて全然考えもしませんでした」
当たり前のようにここで働いて、当たり前のようにここで暮らしていくのだとばかり思っていた。
「他に行くあてもありませんし、ここにいられなくなったらどうしたらいいのかわかりません」
「……他に行くあてがあったらここを出て行くつもり?」
「わからないです。わからないからこそ、ここにいたいです」
自分がいるべき場所がここなのかはわからない。けれど、今自分がいたいと思うのはこの場所だけで。
自分を受け入れてくれる人がいる。安直と言われようが、それだけで心強い。
何よりも、御空くんの近くにいると何だか安心するのだ。
――この人と一緒にいたい。
それが、記憶のない花夜がただただ強く願っていることで。
それは最初に出会ったのが御空くんだったからで、刷り込みのようなものかもしれない。御空くんのことも自分のこともわからない今はこの感情に名前をつけることもできやしない。
でも、この思いに嘘はなくて。
「自分勝手ですみません。記憶がなくて役に立つかどうかもわからないですが、どうかここで御空くんのお手伝いをさせてください。どうかここにいさせてください」
願うように御空くんの手を両手で包み込み、ちらりと彼の様子を窺う。
御空くんはぱちぱちと目を瞬かせた後、安堵の息を吐いて破顔した。
「よかった。ここにいてくれる選択をしてくれて」
御空くんは空いているもう片方の手でわたしの頭を優しく撫でた。
「それじゃあ、これからよろしく頼むよ」
「はい!」
笑顔でわたしが頷いたその時だった。
ちりんちりんと鈴が激しく鳴り、がたがたと周りの物が揺れた。
でもそれは一瞬のことで。
――じ、地震!?
そう思ったのだが、目の前の御空くんは特に慌てた様子はなかった。だから、わたしもそこまで慌てることはなかった。
ふと、御空くんの手に包まれていて、先程までとは立場が逆転していた。
御空くんの指がわたしの指の間にするりと割って入ってきて、ぎゅっと力を込められる。
「まあ、もし花夜が出て行くっていっても、僕としては花夜と離れる気はこれっぽっちもなかったけどね」
びっくりして目を丸くしたわたしに、御空くんがにっこりと笑顔で言葉を放つ。だが、その青い瞳は絶対に逃がさないと告げているようで。さっきまでの緊張した面持ちや不安げな瞳は幻だったのかもしれないとさえ思えてきた。
解けることなく絡められている指を眺めつつ、
――もしかしたら、選択を間違えたかもしれない。
と、ほんの少しだけ頬を引き攣らせてしまった。
雑多屋の二階にある空き部屋。今ではわたしの部屋である。
空き部屋と言っても、ベッドやサイドテーブル、机等一通りの家具は揃っていた。何でも、前に住んでいた人が使っていたままらしい。まるでいつでも使えるようにと言わんばかりに掃除が行き届いていた。
「本当にこの部屋を使ってもいいんですか?」
「どうぞ。使ってもらった方が家具たちも嬉しいだろうし」
そう言われて、ありがたくこの部屋を使わせてもらっている。
だが、わたしは未だに一階に降りられてはいなくて。
「記憶喪失なんだから、少し様子を見よう。まだ下に行ったらダメだよ」
だなんて言って、御空くんが許してくれなかったのだ。有無を言わせぬ笑顔の御空くんに、わたしはただただ首肯することしかできなくて。わたしの動ける範囲は二階の居住スペースのみだった。
その間、御空くんは甲斐甲斐しくお世話をしてこようとした。
例えば――
「はい、これ。その本の下巻」
「あ、ありがとうございます」
と、本を読み終わった瞬間に渡してきたり、
「花夜、あーん」
「じ、自分で食べられます!」
と、手ずから食事を食べさせてこようとしたり、
「花夜ー。のぼせてないー?」
「だ、大丈夫です!」
と、風呂に入っている間に外から声をかけてきたり。
――か、過保護だ……。そもそも、御空くんには羞恥心というものはないのだろうか……。
ないんだろうなぁ、とわたしが密かに溜息をついたのは両手では数え切れない程で。
あまりにも何もやらせてもらえないので、
「わたしだって、いい加減働きたいんです!何かお役に立ちたいんです!」
と、わたしはキレた。
最初はお金の心配をして働かないとと思ったけれど、誰かの役に立ちたいという気持ちは記憶喪失である今でも存在していて。
強く懇願すれば、御空くんが対に折れた。
――勝った!
わたしはぐっと拳を握った。
こうして漸く御空くんからの許可がおり、現在わたしは一階の店内スペースへと続く扉の前にいる。
「はいどーぞ」
「あ、ありがとうございます」
御空くんが扉を開けて店の売り場へと促す。
売り場に来たのはこれで二回目だ。わたしが物珍しげにきょろきょろと店内を見回していると、ぽんぽんと肩を叩かれた。
反射的に振り返ったその先にいたのは、白い兎さん面だった。
目と鼻の先にあるそれに驚いて思わず「うわっ!?」と悲鳴を上げる。
「可愛げのない悲鳴だなぁ」
くつくつと喉の奥で笑う男に、わたしは少し不機嫌そうに膨れ面を浮かべた。
「御空くん驚かさないでくださいよ!あと、可愛げがなくて悪かったですね!」
「ごめんごめん。大丈夫、花夜は可愛いよ」
「そ、そんな言葉は求めていません!というか何ですかそのお面は!」
「いやー、慣れさせようと思ってさ」
いろんな意味で顔を赤くさせたわたしを見て御空くんがくつくつと笑う。兎さん面を外したその顔は悪戯が成功した子どものようだった。
――全くもう!……って、慣れさせるってどういうこと?
わたしはそう思ったが、多分こういう商品もあるからいちいち驚かないように慣れさせようとしているのだろうなと自己解釈をした。
他に思いついた疑問をわたしは口にする。
「御空くん、どうしてこのお店は『雑貨屋』じゃなくて『雑多屋』っていうんですか?」
一見するとただの雑貨屋としか思えない。
わたしの質問に特に悩むことなく御空くんが答える。
「読んで字の如く、ここはいろんなモノが入りまじっている店だから」
「……よくわかりません」
「簡単に言えば、雑貨屋は日常生活に必要なこまごました商品を売っている店のことをいうんだけど、ここは日用品以外のモノも売っているから」
「なるほど……?」
「首を傾げながらなるほどと言われてもねぇ……」
眉尻を下げて御空くんが苦笑した。
「あとは、ここには新しいモノから古いモノまでいろいろ置いてあるからね。普通の雑貨屋でもないし、普通の骨董品店でもないし、もう面倒だから諸々引っくるめて雑多屋でいいかなぁって。あ、一応商品を取り扱う資格はちゃんと持っているからそこのところはご心配なく」
――雑なのか、しっかりしているのかよくわからないなこの人。
目の前の男に胡乱げな眼差しを向ける。
その視線に気がついているはずなのに、御空くんは極々普通に話し続ける。
「業務内容は主にレジ対応と接客、品出し、商品の整理整頓に掃除といったところかな。祭りとかで出店することもあるけど」
「他に従業員の方はいないんですか?」
「基本僕だけで回しているよ」
「……マジですか」
「マジ。まあ、この店は不定期営業だし、都合が悪かったら開けないってこともままあるから」
「……よくそれで何とかなっていますね」
「普通ならこうはいかないんだろうけど、何とかなっているんだよなぁこれが。それに、気分が良ければ手伝ってもらえることもあるしね」
そう付け加えた御空くんに、臨時のお手伝いさんでもいるのかなとわたしは考えた。
「さて、さらっと説明も終わったことだし……そろそろ出てきていいよー」
――出てきていいって何がですか?
わたしがそう訊ねる前に、ちりんちりん、と鈴の音が店内に鳴り響いた。
お客さんが来たのかな、と思い、店の出入り口を見遣る。だが、格子戸が開いた形跡はない。
そもそも、ここへ来る前に「今日は店はお休み」だと御空くんから説明されていた。
現に、店の立て看板は今店内の片隅に置かれている。つまり、格子戸が開くはずがないのだ。
それならば風で鈴が揺れたのかもしれないと思ったが、窓ガラスは締め切ったままだった。
御空くんはずっとわたしの近くにいて、彼が格子戸まで瞬時に動くことも不可能だ。
うーんと思考を巡らしていたその時、ぽんっと空中から軽い音がした。
それはわたしの真上からして、顔を上げると――
「へぶっ!?」
「あ!」
「おっと」
わたしの顔面に何かが落ちてきた。
衝撃のあまりぐらりと後方に倒れかけた体を御空くんが難なく支え、わたしに合わせてゆっくりとその場にしゃがみ込む。
痛みのあまり両手で顔をおさえるわたしの耳に響くのは、慌てたような高い声と呆れたような御空の声で。
「だ、大丈夫!?」
「お前……記憶喪失の人間になんてことを……」
「う、五月蝿いわね!新しく働く子に漸く会えるからちょっとテンションが上がって着地に失敗しちゃったのよ!」
傍で何やら言い合っているのを聞きつつ、わたしはじんじんと痛む顔面から徐に手を離す。
――よかった。鼻血は出ていないみたい。
「花夜ちゃん、大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫、で、す……」
鈴を転がすような声で心配げに訊かれ、咄嗟に答えたわたしは閉口した。
目の前にいるのは、一羽の兎だった。
純白の体毛に汚れは一切見当たらない。耳先が黒く、首には鈴のついた緋色の組紐をつけている。純黒の瞳は心配そうにわたしを見ていた。
ぱちぱちと目を瞬かせたわたしはそろりと後ろを振り返る。すると、青い瞳と目が合った。
自分を支えるために御空くんが後方にいるのはわかっていた。今もその手はわたしの肩に触れているのだから。
けれども、わたしは訊ねずにはいられなかった。
「……今喋ったのって、御空くんじゃないですよね?」
「うん。僕じゃないよ」
ですよねー、とわたしは心の中で呟いた。
あんな高い声を御空くんが出したのだとは考えられないし、考えたくもない。第一、御空くんはわたしのことを呼び捨てで呼んでいる。
「えーっと、それじゃあ……」
考えられるのはただ一つ。
恐る恐る再び兎さんを見遣る。
「さっき喋ったのはあたしよ」
「で、ですよね!?」
思わず大きな声が口から飛び出した。
一応そう予想をしたからこそ兎さんの方を見たのだが、いざ兎さんが喋っているのを目の当たりにしたら驚かずにはいられなかった。
――もしかして、実はあのまま倒れて頭を打って気絶してしまって、今見ているのは夢なのかも……?
未だにじんじんと痛むのは顔面で、頭は痛くないのだけども、もしかしたらということもあるかもしれない。
わたしはそろそろと自身の頬を抓ってみた。
結果、頬が痛くなっただけで夢から覚めることもなければ目の前の現実は変わらなかった。
「うう、痛い……」
「何やってんの花夜」
「いや、もしかしたらあのまま気絶して夢を見ているんじゃないかと思いまして……」
「残念。これは夢じゃなくて現実だよ」
「……そう、みたいですね」
ほんの少しの期待を御空くんにばっさりと一刀両断されてしまった。
ちょっぴり悲しくなりながらも、これが現実だというのなら、自分のことについてわかったことが一つある。
「わたし、動物とお話できたんですね……」
「多分それは違うよ」
「え?でも……」
またもや一刀両断されてしまった。
困惑した眼差しが御空くんと兎さんを行き交った。
成り行きを黙って見ていた兎さんが深い溜息をついた。
「どうやら、記憶喪失だというのは本当みたいね」
「僕がそんな嘘つくと思う?」
「時と場合によるわね」
「酷いなぁ。花夜ー慰めてー」
「ええっと……」
頭に顔を押し付けてきた御空くんにわたしは戸惑うばかりだ。まあ、戸惑っているだけで別に嫌がる程でもないけど。
御空くんはそれをわかっていてこのような行動をとっているようだ。口元がニヤついている。
「甘やかしちゃダメよ花夜ちゃん。ほんと、質が悪いのよねこの男は」
御空くんの言動に対して、兎さんが眉間に皺を寄せる。
チッと舌打ちをした兎さんに、びくりとわたしは肩を震わせた。
「おいおい舌打ちすんなって。花夜が怖がっているだろ」
「あんたへの舌打ちに決まっているじゃない。というか、あんた花夜ちゃんに何も説明してないでしょ」
「だって、実物を視た方が信じてもらえるだろ? それに、花夜の驚く顔が見たかったし」
「明らかに後者が目的でしょ!」
「勿論」
「開き直るな!」
あーだこーだと言い合う二人の間から「あ、あの!」と声が張り上げる。
「で、できれば説明を要求します!」
わたしはぎゅっと目を瞑ってビシッと挙手した。
間に挟まれているのに蚊帳の外に置かれたこの状況に不安になって、一杯一杯になってしまった。
御空くんと兎さんは閉口し、何やらお互いに目で遣り取りをする。兎さんからの鋭い視線に御空くんは肩を竦めた。
御空くんが慰めるようにわたしの頭を撫でる。
「ごめんごめん。口で説明するより、百聞は一見に如かずだと思ってさ。僕たちの目の前にいるこの兎はね、妖怪なんだ」
「……よう、かい?」
「そう、妖怪。あやかし、物の怪、魔物、怪異とか呼び方はいろいろあるけど」
「あの、やっぱりわたし夢を見ているんじゃ……」
「夢じゃないからね。はい、頬を抓ろうとしない」
わたしは再び自身の頬に手を持っていこうとしたが、御空くんに阻まれてしまった。
手を掴んだまま、御空くんが続ける。
「花夜はこうして妖怪を視ることはできるみたいだね」
「そうなんですか……」
「そうなんですよー」
御空くんに肯定されてもやっぱりわたしに自覚はなくて。
でも、不思議と違和感はない。妖怪が視えるという事実をわたしは極々自然に受け入れていた。
目の前の白い存在を確と認める。けれども、やはりその存在はただの兎さんにしか見えない。
それでも、この兎さんは妖怪で、こうして意思疎通もちゃんとできている訳で……。
わたしはその場で正座をして居住まいを正した。自然と手を解かれた御空くんが「あー」と残念そうな声を漏らしたが構っていられない。
御空くんと兎さんの会話や兎さんの口振りから察するに、わたしのことはある程度話が通っているようだ。
兎さんを真っ直ぐ見つめ、少し緊張した面持ちでゆっくりと口を開く。
「わたし、花夜と申します。もし宜しければ、お名前を教えていただけないでしょうか?」
「硬い!硬いわよ花夜ちゃん!」
「ぷはっ、花夜らしいなぁ」
突っ込む兎さんに対して、御空くんは至極楽しそうだ。
――失礼のないように訊いたつもりだったけど、やっぱり忘れてしまったこと自体が失礼だよね……。
しょぼんと落ち込むわたしの肩に、やれやれといった様子で御空くんが両手を置く。
「ほらほら、花夜がこんなにも丁寧に訊いているんだから、そっちも早く自己紹介したら?」
「黙りなさいこのセクハラ店主!今言おうと思っていたところよ!」
兎さんは御空くんに怒鳴った後、こほん、と咳払いしてわたしに向き直った。
「ご丁寧にありがとう花夜ちゃん。あたしの名前は鈴ゑ。鈴の付喪神よ」
「鈴の、付喪神……?」
鈴と言われて思い出したのは先程耳にした鈴の音だ。
わたしは店の出入り口の方へと視線を移す。
格子戸に掛かった鈴を眺めていれば、「そう。あの鈴の付喪神なの」と兎さん――鈴ゑさんがぴょんと跳ねた。
「花夜ちゃん。記憶がなくて不安だと思うけど、わからないことがあったら何でも訊いてちょうだいね」
「はい、ありがとうございます!」
「という訳で、同じ雑多屋で働くモノとしてよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
鈴ゑさんが右手もとい右前脚を差し出す。
小さなそれを優しく包み込んで、わたしは柔らかく微笑んだ。
女子二人のほのぼのとした空気に水を差したのは、この場で唯一の男である御空くんだった。
「あ、しまった!一番大事なことを花夜に訊いていなかった!」
大声を張り上げた御空に、わたしはきょとんとし、鈴ゑさんは眉間に皺を寄せた。
「何よ、わざとらしいわね。男の嫉妬は醜いわよ」
「あー、別に鈴ゑに訊くことはないからもう戻っていいよ。話があるのは、花夜にだから、ね」
御空くんにしっしっと手を払われて、鈴ゑさんは苛立ちを覚えたようだ。不服そうにばしばしと後ろ脚で地面を叩いた。
けれど、動作とは対照的に御空くんの目は真剣そのもので。
「……はいはい、わかったわよ」
渋々といった様子で鈴ゑさんが姿を消す。
ちりん、と鈴の音が虚しく響いた。
「話ってなんですか?」
店内が静寂に包まれた中、振り返って御空くんに問う。
青い瞳は一瞬宙を彷徨った後、真っ直ぐにわたしを見つめた。
「いろいろ話しといて今更だけどさ、花夜はこの店で働いても良いって思っている?ここにいても良いって思っている?」
突然の御空くんの言葉に、わたしはきょとんとして首を傾げた。御空くんが何でそんなことを言うのかわからなかったからだ。
「ここじゃない場所へ行ってもいいんだよ?」
その言葉はわたしに向けられたもので。でも、それだけではない。まるで御空くん自身にも言い聞かせているようだった。
ちょっと緊張した面持ちで、美しい青い瞳は不安で陰っている。
ここ数日間でこんな御空くんは見たことがない。
わたしは瞠目した。そして、彼には申し訳ないが、くすりと笑ってしまった。
「ほんと、今更ですね」
「うっ……だって、これはちゃんと確認しておかないといけないことだから……」
御空くんが気まずそうに顔を逸らす。
わたしは少し困ったように眉尻を下げた。
「わたし、御空くんに言われるまでここを出て行くなんて全然考えもしませんでした」
当たり前のようにここで働いて、当たり前のようにここで暮らしていくのだとばかり思っていた。
「他に行くあてもありませんし、ここにいられなくなったらどうしたらいいのかわかりません」
「……他に行くあてがあったらここを出て行くつもり?」
「わからないです。わからないからこそ、ここにいたいです」
自分がいるべき場所がここなのかはわからない。けれど、今自分がいたいと思うのはこの場所だけで。
自分を受け入れてくれる人がいる。安直と言われようが、それだけで心強い。
何よりも、御空くんの近くにいると何だか安心するのだ。
――この人と一緒にいたい。
それが、記憶のない花夜がただただ強く願っていることで。
それは最初に出会ったのが御空くんだったからで、刷り込みのようなものかもしれない。御空くんのことも自分のこともわからない今はこの感情に名前をつけることもできやしない。
でも、この思いに嘘はなくて。
「自分勝手ですみません。記憶がなくて役に立つかどうかもわからないですが、どうかここで御空くんのお手伝いをさせてください。どうかここにいさせてください」
願うように御空くんの手を両手で包み込み、ちらりと彼の様子を窺う。
御空くんはぱちぱちと目を瞬かせた後、安堵の息を吐いて破顔した。
「よかった。ここにいてくれる選択をしてくれて」
御空くんは空いているもう片方の手でわたしの頭を優しく撫でた。
「それじゃあ、これからよろしく頼むよ」
「はい!」
笑顔でわたしが頷いたその時だった。
ちりんちりんと鈴が激しく鳴り、がたがたと周りの物が揺れた。
でもそれは一瞬のことで。
――じ、地震!?
そう思ったのだが、目の前の御空くんは特に慌てた様子はなかった。だから、わたしもそこまで慌てることはなかった。
ふと、御空くんの手に包まれていて、先程までとは立場が逆転していた。
御空くんの指がわたしの指の間にするりと割って入ってきて、ぎゅっと力を込められる。
「まあ、もし花夜が出て行くっていっても、僕としては花夜と離れる気はこれっぽっちもなかったけどね」
びっくりして目を丸くしたわたしに、御空くんがにっこりと笑顔で言葉を放つ。だが、その青い瞳は絶対に逃がさないと告げているようで。さっきまでの緊張した面持ちや不安げな瞳は幻だったのかもしれないとさえ思えてきた。
解けることなく絡められている指を眺めつつ、
――もしかしたら、選択を間違えたかもしれない。
と、ほんの少しだけ頬を引き攣らせてしまった。
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