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第一部
第二十五話「Desperado」
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◇
小さい頃、メタルのことが嫌いだった。
父さんの車に乗ると、いつもそういう曲がかかっていて、私はすぐにそれを消して別の曲をかける。そんな私を見て、父さんは少し残念そうに笑いながら、私のかける流行曲を良い曲だねと言ってくれた。そんな優しい父さんが、なんであんなうるさくてずっと叫んでるような怖い曲を好きなのかずっと分からなかった。
やがて、小学四年生になった頃。ある出来事をきっかけに同級生達のことが大嫌いになった私は、そいつらが好きなモノも全部大嫌いになった。面白いテレビ番組、流行りの曲、好きな芸能人、泣ける少女漫画。全部ぜんぶ、くだらない。あんな奴らと同じモノを好きになりたくなかった。
それからずっと、私は家に引きこもり続けた。平日、誰も居ない自分の家で暇を持て余した私は父さんの部屋で片っ端からおどろおどろしいジャケットのCDを選び取り、大音量でメタルを鳴らした。今にしてみればあれも自傷行為か何かだったんだろう。大嫌いな音楽で、大嫌いな自分をズタズタにしてみたかった。
だけど、不思議だった。
あの激しい音の中に埋もれているとなぜか逆に気持ちが安らいでいった。
刺々しい言葉は英語なのか何語なのか何を言っているのかもわからない、重苦しい低音も何でそんなことをするのか意味がわからない。だけどそれは今まで聞いたどんな綺麗な歌よりも、甘ったるい慰めの言葉よりも、何故かずっと優しく思えた。
まるで恐ろしい姿の怪物に守られているような、――そんな気がした。
それからどれだけ、時間が経ったのか。仕事から帰って来た父さんが、レコードやCDを散らかし放題にした部屋の中に入ってくる。膝を抱えてうずくまる私の頭を、父さんは何も言わず撫でてくれた。
『今日はずっと聞いてたのか? 楓』
こくりと私が頷くと、父さんは凄く嬉しそうな顔をした。
『そうか。どれか好きになった曲あったか?』
私がぶんぶん首を横に振ると、父さんは苦笑いを零す。
『お父さん。なんで、こんなの好きなの。なんでこれ、こんな音楽なの』
『んー。難しい質問だな。かっこいいから、って理由は……女の子の楓にはよくわかんないか』
『こんなのが、かっこいいの? 男子だってこんなの聞かないよ。お父さん変だよ』
「はは。そうか。変か。確かに父さんが変だから好きってのはあるかもしれないな』
『……? どういうこと?」
『メタルはね、父さんみたいなちょっと変わった奴。はぐれ者の音楽なんだよ』
『はぐれもの? ……お父さんは、誰からも、嫌われてないでしょ』
『ははは。まあ今はね。でも昔は結構嫌われてたんだよ父さんも。外人だとか髪が茶色だからとか色々言われて、それがきっかけでグレちゃってさ。長髪にしたり、タバコ吸ったり、派手な服装してバイク乗ったり。いわゆる不良ってやつ。そうなると、いろんな人を敵に回すわけだ。ほら、今の楓だってみんなと喧嘩してちょっとグレちゃってるだろ? ――そんな時に出会ったんだ、これと』
父さんは白いエレキギターを掴み取り、アンプに繋いで速弾きをしてみせる。
『どうだ、かっこいいだろ!』
『……? 全然』
『ははは。そっか。でも父さんはギターに出会った時、凄く格好いいと思った。当時は割と流行ってたんだけど、それでもこの辺じゃロックとかメタルとか聞いてる奴は全然いなくてね。そんなの聞いてると不良だーとかバカになるぞーとか言われまくったよ。でもその頃の父さんって嫌われ者で、そういう事を言ってくる奴の事も嫌いだったから、むしろ心地良かったんだな』
『……変なの』
『うん。だけどな、変なのは父さんだけじゃなかったんだ。その当時の流行りとか、世間の風潮とかがどうしても気に入らなくて、突っ張ってる奴らが他にも居たのさ。そういう奴らとは嫌われ者同士、気が合ってね。みんなで同じものを好きになった。普通とは違う、変なものを』
『それが、メタル?』
『そう。でもそいつらと出会った時にね。別にそれは変じゃなくて実は普通の事だって気づいたんだ。他人からはそう言われても、自分にとっては変じゃない。少し毛色が違う、ただそれだけの話だったんだ。はぐれ者にも実は仲間が一杯居る。メタルはそれを俺に教えてくれた』
その言葉を聞いて、少しだけ納得がいった。――はぐれ者の音楽。
だから、私はあの音を聞いて落ち着いたのか。仲間がいない、はぐれ者だから。
『楓は今、友達がいない、みんな大嫌いだって言ってるけど。それもね、別に普通の事なんだよ。父さんも昔、そういう時期があったから。そんなに落ち込まないでいいんだからな。そのうちきっと、また――』
『やだ』
眼に涙を溜めて私は言う。
『あいつらのことなんか二度と好きにならない。私は嫌われ者でいい。はぐれ者になりたい』
『……楓』
『どうせ嫌われるなら。お父さんと一緒がいい。お父さんみたいに、私もなりたい』
涙をこぼす私の頭を撫でて、父さんは私の肩にギターを提げさせた。
重くて、動きづらくて。ワイヤーみたいな弦が今にも切れそうで怖かった。
『楓。これはなんだと思う?』
『? ギター、……楽器』
『そうだね。でも父さんはこれを初めて手にした時……武器だと思った』
『……ぶき?』
『うん。嫌なことだらけの世界で、嫌な奴らと戦う為の武器。自分を守ってくれる相棒。これさえあれば、俺は、何も怖いものなんかなかった。どこにでも、誰とでも、何にでも。……立ち向かっていける気がした』
恐る恐る、弦に左手の指を這わせる。
キュッと擦れる音がアンプから響いて、ぞくりと背筋に鳥肌が立った。
『楓。嫌われ者になりたい、なんていうのは親としては凄く悲しい言葉だけど。楓がそう望むのなら、そうあるべきなんだと思う。だって父さんはいつだって楓の味方だ。楓のやりたいことを父さんは全力で応援するよ』
右手にピックを手渡される。衝動のままに、私は思い切り弦を掻き鳴らした。
自分でもびっくりするくらい大きな音が出て、びくりと肩を震わせる。
『ははは。ロックスター誕生だな。でもちょっと音量下げるか。お母さんに怒られちゃう』
『……お父さん』
『ん? なんだい?』
『これ、教えて。私、いっぱい、練習するから』
『……そうか。うん! お父さん喜んで教えるぞ』
『あと、メタルも、教えて」
『!? 本当に!? ……ああ。娘がメタルに興味を持つなんて。生きててよかった。ほんと楓はかわいいなあ。世界一かわいいなあ。じゃあまずどれにしようかな。よし、このマノウォーっていう』
『やっぱキモいからいい』
『急に反抗期!?』
――それから始めたギターはすぐに挫折しそうになった。ピアノと違って、簡単に音が鳴らないのが辛かった。頑張って抑えようとしすぎた左指は水膨れになって、小刻みに震えるし、Fコードなんか一生、鳴る気がしなかった。
『楓。練習は辛いかもしれないけど、これだけは断言する。それをずっと続ければ、いつか絶対、楓にも本当の友達ができる。ちゃんと話せて楓の言う事を分かってくれる、そんな友達が』
そんなの別にどうでもよかった。
あの頃の私は、ただ、父さんが喜んでくれるだけで嬉しかった。
それだけで、私は。
でも、父さんは。
◇
気づけば、眠りに落ちていた。懐かしい曲を聞きながら目が覚める。
イーグルスの「デスペラード」。父さんがよく弾いていた曲。
横を向くと、ソファーの上で響がアコースティックギターを奏でていた。
「姉貴」
弾き終えた後、ぽつりと響が呟く。
「ありがとう」
「……え?」
「父さんには、結局最期まで言えなかったから。今の内に言っておきたくて」
そんなこと、私だって言えなかった。
でも、なんでそんなこと急に私に言うんだ。
「オレは、父さんと姉貴が居なければ、楽器とかきっと続けてこれなかった。色んな音楽に出会う事もなかったと思う。でも今、毎日凄く楽しくて。本当に続けてこれてよかったと思ってる」
「……別に、それ。私と関係ないだろ」
「関係あるよ。……オレは今でも覚えてる。オレがまだすげぇガキの頃、手がちっちゃいからギターのコード全然うまく抑えられなくて、不貞腐れてた時。姉貴がオレの誕生日に、自分のお年玉全部はたいて、ネットでベース注文してさ。これなら簡単だし、一緒にできるだろって、オレに渡してくれた事」
……あったか、そんなこと。私はもう、覚えていない。
「だからありがとう。姉貴が居なければ、あの時きっと投げ出してた」
「……さっきから何言ってんだ、このシスコン」
「別にいいよそれで。どうせ姉貴だってファザコンだろ。……この際はっきり言うけど。オレは、姉貴の事好きだよ。そのろくでもないとことか、面倒臭いところ、全部含めて。爺ちゃんだって、婆ちゃんだって、……母さんだって。みんなそう思ってるはずだ。気難しいけど、本当は優しいんだって、みんな知ってる」
「……私のどこが優しいんだよ、アホ」
「じゃあ、あれは? あの時、ここで先輩たちの話した時とか。ちゃんとオレの言う事聞いて来てくれただろ。そんなバンドやめろとか言って。心配してくれてたんじゃないのか」
「誰が心配するかよ、お前みたいな奴」
「それじゃ、こないだのは? 雨の中、ずぶ濡れになってまで、高宮先輩のこと探してくれただろ」
「……。なんだそれ。なんのことだ」
「とぼけるなよ。五十嵐先輩から話は聞いてるし、第一あの現場に居ただろ、野次馬の群れに混じってさ。あの真っ黄色のジャージ着てるからすぐわかった」
「…………ストーカーかよ、お前」
「捻くれてる割に、いつも詰めが甘いんだよ姉貴は。そんなだから失敗するんだ。バンドも、人間関係も、――自殺も」
重い、沈黙が下りた。
「……姉貴」
「……なんだ」
「……オレは姉貴が全部悪いとは思わない。母さんのことも、舞子さんたちのことも――ただ、少し。間が悪かっただけなんだ。だから」
息を震わせ、絞り出すように響は言う。
「辛いなら逃げていい。怖いなら隠れてていい。でも、居なくはならないでほしい。一生オレは、姉貴を見捨てないから。たった一人の、きょうだいだから」
泣いてはいない。だけど声の震えを隠せていない。
泣き虫だった、小さい頃のコイツを見ているようだった。
「……だけど、姉貴が。本当に辛くて。どうしてもそれを、選びたいのなら」
響は苦しそうにそこで言葉を着ると、やがて穏やかに言葉を吐く。
「オレは――ちゃんと、受け入れるよ」
その、一言が。
今まで浴びてきたどんな慰めや、罵倒の言葉より。
一番優しくて、胸に苦しかった。
「……そんなこと、わざわざ言いに来たのか」
冷たくあしらう。そうしないと、私も耐えられそうになかった。
「腹を割って話す事も大事だって、先輩達が教えてくれたから。……大丈夫だよ。もう当分ここには来ないし、学校でも話しかけたりしない。……ただ、オレの言いたい事は、今日、全部ここに置いてく」
ギターを置くと、響は立ち上がった。
「……ああ、それと。テスト終わったらライブやるから。それは見に来てほしい」
また、あいつの顔がちらつく。
五十嵐の時と同じように、私は響に問いただした。
「……響。なんでお前、高宮に。あんな面倒な奴に付き合うんだ」
「……最初は、姉貴に発破を掛けさせるだけのつもりだった。けど、今はもう全然違う。あの人と居ると楽しいし、面白いから一緒にいる。それだけだよ」
「楽しいのか? あれが、そんなに」
「うん。あの人とやってると、なんか最初の頃を思い出すんだ。父さんや姉貴と三人でやってた頃。――だからかな。思い出せる気がするんだ。そもそもなんで、音楽をやろうと思ったのか。そういうこと」
最初の、頃。
「それにあの人。ちょっと姉貴に似てるしさ。何かほっとけないっていうか」
「私と、あいつが――似てる?」
「ああ。まあ流石に姉貴ほど捻くれてないし、弱くもないけど。鏡みたいなもんだなって、オレは思ってる。ただ一つ違うのは――」
響は何か言いかけたところで、口を噤む。
「これ言うと、逆効果かな。とりあえず下行ってきなよ。姉貴にお客さんが来てる」
「……客?」
響は答えず部屋を出る。仕方なく私も一階に降り、玄関横の茶の間に入る。そこにはお茶を淹れる祖母の姿と、座布団の上にちょこんと座る、一ノ瀬の姿があった。
「あ、……音無さん」
「あら、降りてきたのね楓ちゃん。じゃあおばあちゃん、お夕飯の支度してくるから。お友達も、ゆっくりしてってね」
「はい。ありがとうございます。……音無さん、これ、プリント。しばらく休んでた分、溜まってたから。体調、大丈夫?」
「……ああ、うん」
こないだ雨の中走り回ったせいで風邪を引き、私はもう丸一週間も学校を休んでいた。もっとも、風邪なんかとっくに治っていて、余計に休んでいた理由は別にある。
一度、突き放したはずのこの子に。それでも私に話しかけようとしてくるこの子に――もう、会いたくなかったからだった。
「……音無さん。帰る前にちょっとだけ、話、してもいい?」
「……ああ」
頷いて、私も座布団の上に座る。
予想外だったけど、これはいい機会かもしれない。
さっき響が言ってた事に、感化されたわけじゃないけれど。
下手な嘘なんてつくから、前は何も伝わらなかった。本物の傷にはならなかった。だったら――私がどういう人間なのか。何を考えているのか。包み隠さず腹の内をぶちまけてしまえばいい。そして今度こそ、――本当に、嫌われてしまえばいい。
「とりあえず、こないだの事だけど。……ごめんね。私、音無さんの気持ち何も考えないで、なんか、勝手な事言っちゃって。その事で多分、怒らせちゃったんだよね」
「別に、そんなの関係ない」
「そうなの? じゃあ、何か別の事で怒らせて――」
「違う。そもそも別に、怒ってない」
「……? えっと、じゃあ。なんで私の事、急に無視したりしたの?」
「それは、……」
まずい。おかしい。変だ。ちゃんと正直に答えてるはずなのに――このままじゃどうやっても私が望む展開にならない気がする。
本当に、このまま正直に答えていいんだろうか。
「……? 音無さん?」
突然固まった私を見て、一ノ瀬が首を傾げる。
どうせこの場じゃ何も思いつけない。
覚悟を決めて、私はそのまま全てを正直に話すことにした。
「私が急に無視を始めたのは、……一ノ瀬に、嫌われたかったからだ」
「私に、……嫌われたかった? え? な、なんで?」
「それは――説明が難しいけど。私は一ノ瀬を傷つけて、嫌われて。それで自分が傷つきたかったんだ。死にたくなるくらい、嫌な気分になりたかった、っていうか」
「……???」
「っ……そもそもの話。私は一ノ瀬が関わっていいような、まともな人間じゃないんだ。普通に頭おかしいし、性格悪いし。他人に迷惑ばっかかけるダメ人間で。だから、本当は最初から一ノ瀬を無視するべきだったのに。……私は」
要領を得ない私の言葉に、一ノ瀬は不思議そうに眼を瞬かせている。――これだから、話すのは嫌いだ。頭の中の言葉が、全然上手く吐き出せなくて、死にたくなる。
「……さっきから、何言ってるんだろうな。私」
溜息がちに私が呟くと、一ノ瀬は何故だか笑みを零した。
「ぷ、ふふ。……なんか、音無さんって意外と面白い人なんだね」
「……お、面白い?」
「だって、さっきから。傷つける為に仲良くしてたーとか、私はダメ人間なんだー、とか。このひと急に何言ってるんだろうって思って」
「……………………」
ぐうの音も出なかった。
「とりあえず音無さん。いくつか確認したいことがあるんだけど、聞いてもいい?」
「……ああ」
「私のこと、鬱陶しい? もう、話しかけないでほしい?」
「……。いや、別に」
「じゃあまた、お昼ご飯一緒に食べたりとか、話しかけてもいい?」
「……。一ノ瀬」
「なに?」
「……なんで私なんかに、関わろうとするんだ。さっきも言ったけど、……私はろくな奴じゃない。昔から口下手で、周りに馴染めなくて、……普通じゃ、ないんだ」
絞り出すようにそう言うと、一ノ瀬は首を傾げる。
「……そうかな。私は別に、普通だと思うけど」
「……どこが?」
「うーん……。じゃあ音無さんから見て私は、普通? まともに見える?」
「……。まあ、大きさ以外は」
「うわ。気にしてることさらっと言うなあ……」
「ごめん」
「あはは。言われ慣れてるから別にいいよ。……とにかく。音無さんは自分で思ってるほど悪い人なんかじゃないと思うよ。私の事、無視しないでくれるし。たまに、冗談も言ってくれるし」
「いや、……そんなの、別に。普通の……」
言いかけてはっとなる。
「ね。普通でしょ? 音無さんも。それに、どっちかっていうと私の方がまともじゃないよ。留年した理由とか、すっごいしょうもないしさ」
「……しょうもない理由?」
「うん。えっとね。私、すごいガリ勉で。第一志望だった高校に落ちて、やけくそでこの高校に入ったんだ。それで、……これ言うの凄い恥ずかしいんだけど……なんていうか、お高くとまってたの。この学校、制服着崩したりとかちょっと派手っていうか、子供っぽい人多いじゃん。それで、周りの事見下してたっていうか。話しかけられても、無視とかしたりして」
一ノ瀬がガリ勉なのは知ってた。休み時間も放課後も一生懸命勉強ばかりしていたから。でもそんな、お高く止まってる奴には見えなくて、意外だった。
「で、それから、自分で目標立てたの。こんなとこ来たからには三年間成績トップを維持しようって。でも、あっさり。一回目の期末テストで、一教科だけ他の子に点数抜かれちゃって。多分、軽い冗談だったんだろうけど、そのことを弄られてガチ切れしちゃって、思いっきり体調崩して……そのまま不登校に……」
当時の記憶を思い出したのか、ずーんと一ノ瀬は頭を下げて沈み込む。
「以上、こんな感じです。どう? しょうもないでしょ」
「うん。まあ、……思ってたより凄いしょうもなかった」
「真顔で言わないでよ……?」
「……まあ、別にそれなら私も似たような経験あるし。細かい理由は違うけど、意味もなく周りの事見下して、気取ったり。……今にしてみれば、バカな話だけど」
「音無さんも? ……あはは。やっぱりそっか。実はずっとそうじゃないかと思ってたんだ」
「……。どういう意味だよ、それ」
一ノ瀬がいたずらっぽく笑う。つられて、私も少し笑ってしまいそうになる。
「何か、いいね。こうやって本当の事、誰かに打ち明けたりするの。なんか今ので音無さんの印象、ずいぶん変わっちゃったなぁ」
「……思ってたのと違って、幻滅しただろ?」
「ううん、全然。むしろすっごい、近づけたっていうか。私も、誰にも言えてなかったこと言えてすっきりしたし。聞いてくれて、ありがとね」
一ノ瀬がそう言った直後、響が茶の間に入ってきて、夕飯ができた事を知らせてくる。一緒に食べていけという祖母の誘いを丁寧に断り、一ノ瀬は玄関へ。私も外に見送りに出る。
「ごめんね。プリント届けるだけだったのに長居しちゃって」
「いや、別に」
「あ、またそれ。口癖だよね音無さん。その別に……。っていうの」
「……。別に意識はしてないんだけど、口が勝手にこの形になるんだよな」
「あはは。あ、そういえば聞きそびれちゃったな。音無さんの留年した理由。なんか微妙にぼかしてたし。私はちゃんと話したのになんだか不公平だな~?」
「……っ!? いや、それは、だから」
上目遣いで覗き込んでくる一ノ瀬にたじろいで、私は口ごもってしまう。
だけど、もう。――意地を張るのも馬鹿らしくなったから。素直に言う。
「また今度話す。……どうせ、また会うだろ」
「そっか。……へへ。じゃあ、楽しみにしてるね」
嬉しそうにそう笑うと、一ノ瀬は歩き去っていく。夜空を見上げながらゆっくり息を吐くと、靄がかっていた視界が少し晴れていくような気がした。
――解っていた。目を逸らしていただけだったと、今は素直に認められる。
ずっと、私の一人相撲だった。一ノ瀬の事も、舞子達の事も、父さんの事も。
気づいたところで、何かが解決したわけじゃないけれど。長い、長い時間をかけて。ようやく、マイナスに振れていた感情が、ゼロへ戻った気がした。
夕食を終え、自室に戻る。一ノ瀬が持ってきた宿題の山を机の上に置くと、見覚えのないCDケースが目に留まった。いわゆるCD-Rというやつだ。白無地の円盤にはマジックで「デモテープ1」と汚い字が綴ってある。
私のじゃない。誰の物か、なんとなく気づいた。
どうせ響の仕業だろう。
だから無視して、宿題に手をつける。つけようとする。だけどちらちらと視界に映るそれが、何故か気になって集中できない。妙な、苛つきが収まらない。
そして仕方なく、私はヘッドホンと携帯CDプレイヤーを引っ張り出し、作業ついでにそのCDを聞くことにした。
(……?)
だけどすぐに、シャーペンを持つ手が止まった。
ずらしたヘッドホンを着け直し、音量を上げて曲を最初から聞き直す。聞き取れるだけの歌詞を、手元のメモ帳に写していく。
「……なんだ? これ」
こんな詞を、曲を。本当にあいつが書いたのか。
全く、イメージが重ならない。
『あの人、なんか姉貴にちょっと似てるんだ。ただ一つ、違うのは――」
あいつの歌を聴きながら、響が言っていた言葉を思い出す。
「……」
どうしようもなく、確かめたい事ができていた。
あいつは何者で、私は何者なのか。
本当は、何を求めているのか。
大嫌いなあいつに、私は会いたくなっていた。
小さい頃、メタルのことが嫌いだった。
父さんの車に乗ると、いつもそういう曲がかかっていて、私はすぐにそれを消して別の曲をかける。そんな私を見て、父さんは少し残念そうに笑いながら、私のかける流行曲を良い曲だねと言ってくれた。そんな優しい父さんが、なんであんなうるさくてずっと叫んでるような怖い曲を好きなのかずっと分からなかった。
やがて、小学四年生になった頃。ある出来事をきっかけに同級生達のことが大嫌いになった私は、そいつらが好きなモノも全部大嫌いになった。面白いテレビ番組、流行りの曲、好きな芸能人、泣ける少女漫画。全部ぜんぶ、くだらない。あんな奴らと同じモノを好きになりたくなかった。
それからずっと、私は家に引きこもり続けた。平日、誰も居ない自分の家で暇を持て余した私は父さんの部屋で片っ端からおどろおどろしいジャケットのCDを選び取り、大音量でメタルを鳴らした。今にしてみればあれも自傷行為か何かだったんだろう。大嫌いな音楽で、大嫌いな自分をズタズタにしてみたかった。
だけど、不思議だった。
あの激しい音の中に埋もれているとなぜか逆に気持ちが安らいでいった。
刺々しい言葉は英語なのか何語なのか何を言っているのかもわからない、重苦しい低音も何でそんなことをするのか意味がわからない。だけどそれは今まで聞いたどんな綺麗な歌よりも、甘ったるい慰めの言葉よりも、何故かずっと優しく思えた。
まるで恐ろしい姿の怪物に守られているような、――そんな気がした。
それからどれだけ、時間が経ったのか。仕事から帰って来た父さんが、レコードやCDを散らかし放題にした部屋の中に入ってくる。膝を抱えてうずくまる私の頭を、父さんは何も言わず撫でてくれた。
『今日はずっと聞いてたのか? 楓』
こくりと私が頷くと、父さんは凄く嬉しそうな顔をした。
『そうか。どれか好きになった曲あったか?』
私がぶんぶん首を横に振ると、父さんは苦笑いを零す。
『お父さん。なんで、こんなの好きなの。なんでこれ、こんな音楽なの』
『んー。難しい質問だな。かっこいいから、って理由は……女の子の楓にはよくわかんないか』
『こんなのが、かっこいいの? 男子だってこんなの聞かないよ。お父さん変だよ』
「はは。そうか。変か。確かに父さんが変だから好きってのはあるかもしれないな』
『……? どういうこと?」
『メタルはね、父さんみたいなちょっと変わった奴。はぐれ者の音楽なんだよ』
『はぐれもの? ……お父さんは、誰からも、嫌われてないでしょ』
『ははは。まあ今はね。でも昔は結構嫌われてたんだよ父さんも。外人だとか髪が茶色だからとか色々言われて、それがきっかけでグレちゃってさ。長髪にしたり、タバコ吸ったり、派手な服装してバイク乗ったり。いわゆる不良ってやつ。そうなると、いろんな人を敵に回すわけだ。ほら、今の楓だってみんなと喧嘩してちょっとグレちゃってるだろ? ――そんな時に出会ったんだ、これと』
父さんは白いエレキギターを掴み取り、アンプに繋いで速弾きをしてみせる。
『どうだ、かっこいいだろ!』
『……? 全然』
『ははは。そっか。でも父さんはギターに出会った時、凄く格好いいと思った。当時は割と流行ってたんだけど、それでもこの辺じゃロックとかメタルとか聞いてる奴は全然いなくてね。そんなの聞いてると不良だーとかバカになるぞーとか言われまくったよ。でもその頃の父さんって嫌われ者で、そういう事を言ってくる奴の事も嫌いだったから、むしろ心地良かったんだな』
『……変なの』
『うん。だけどな、変なのは父さんだけじゃなかったんだ。その当時の流行りとか、世間の風潮とかがどうしても気に入らなくて、突っ張ってる奴らが他にも居たのさ。そういう奴らとは嫌われ者同士、気が合ってね。みんなで同じものを好きになった。普通とは違う、変なものを』
『それが、メタル?』
『そう。でもそいつらと出会った時にね。別にそれは変じゃなくて実は普通の事だって気づいたんだ。他人からはそう言われても、自分にとっては変じゃない。少し毛色が違う、ただそれだけの話だったんだ。はぐれ者にも実は仲間が一杯居る。メタルはそれを俺に教えてくれた』
その言葉を聞いて、少しだけ納得がいった。――はぐれ者の音楽。
だから、私はあの音を聞いて落ち着いたのか。仲間がいない、はぐれ者だから。
『楓は今、友達がいない、みんな大嫌いだって言ってるけど。それもね、別に普通の事なんだよ。父さんも昔、そういう時期があったから。そんなに落ち込まないでいいんだからな。そのうちきっと、また――』
『やだ』
眼に涙を溜めて私は言う。
『あいつらのことなんか二度と好きにならない。私は嫌われ者でいい。はぐれ者になりたい』
『……楓』
『どうせ嫌われるなら。お父さんと一緒がいい。お父さんみたいに、私もなりたい』
涙をこぼす私の頭を撫でて、父さんは私の肩にギターを提げさせた。
重くて、動きづらくて。ワイヤーみたいな弦が今にも切れそうで怖かった。
『楓。これはなんだと思う?』
『? ギター、……楽器』
『そうだね。でも父さんはこれを初めて手にした時……武器だと思った』
『……ぶき?』
『うん。嫌なことだらけの世界で、嫌な奴らと戦う為の武器。自分を守ってくれる相棒。これさえあれば、俺は、何も怖いものなんかなかった。どこにでも、誰とでも、何にでも。……立ち向かっていける気がした』
恐る恐る、弦に左手の指を這わせる。
キュッと擦れる音がアンプから響いて、ぞくりと背筋に鳥肌が立った。
『楓。嫌われ者になりたい、なんていうのは親としては凄く悲しい言葉だけど。楓がそう望むのなら、そうあるべきなんだと思う。だって父さんはいつだって楓の味方だ。楓のやりたいことを父さんは全力で応援するよ』
右手にピックを手渡される。衝動のままに、私は思い切り弦を掻き鳴らした。
自分でもびっくりするくらい大きな音が出て、びくりと肩を震わせる。
『ははは。ロックスター誕生だな。でもちょっと音量下げるか。お母さんに怒られちゃう』
『……お父さん』
『ん? なんだい?』
『これ、教えて。私、いっぱい、練習するから』
『……そうか。うん! お父さん喜んで教えるぞ』
『あと、メタルも、教えて」
『!? 本当に!? ……ああ。娘がメタルに興味を持つなんて。生きててよかった。ほんと楓はかわいいなあ。世界一かわいいなあ。じゃあまずどれにしようかな。よし、このマノウォーっていう』
『やっぱキモいからいい』
『急に反抗期!?』
――それから始めたギターはすぐに挫折しそうになった。ピアノと違って、簡単に音が鳴らないのが辛かった。頑張って抑えようとしすぎた左指は水膨れになって、小刻みに震えるし、Fコードなんか一生、鳴る気がしなかった。
『楓。練習は辛いかもしれないけど、これだけは断言する。それをずっと続ければ、いつか絶対、楓にも本当の友達ができる。ちゃんと話せて楓の言う事を分かってくれる、そんな友達が』
そんなの別にどうでもよかった。
あの頃の私は、ただ、父さんが喜んでくれるだけで嬉しかった。
それだけで、私は。
でも、父さんは。
◇
気づけば、眠りに落ちていた。懐かしい曲を聞きながら目が覚める。
イーグルスの「デスペラード」。父さんがよく弾いていた曲。
横を向くと、ソファーの上で響がアコースティックギターを奏でていた。
「姉貴」
弾き終えた後、ぽつりと響が呟く。
「ありがとう」
「……え?」
「父さんには、結局最期まで言えなかったから。今の内に言っておきたくて」
そんなこと、私だって言えなかった。
でも、なんでそんなこと急に私に言うんだ。
「オレは、父さんと姉貴が居なければ、楽器とかきっと続けてこれなかった。色んな音楽に出会う事もなかったと思う。でも今、毎日凄く楽しくて。本当に続けてこれてよかったと思ってる」
「……別に、それ。私と関係ないだろ」
「関係あるよ。……オレは今でも覚えてる。オレがまだすげぇガキの頃、手がちっちゃいからギターのコード全然うまく抑えられなくて、不貞腐れてた時。姉貴がオレの誕生日に、自分のお年玉全部はたいて、ネットでベース注文してさ。これなら簡単だし、一緒にできるだろって、オレに渡してくれた事」
……あったか、そんなこと。私はもう、覚えていない。
「だからありがとう。姉貴が居なければ、あの時きっと投げ出してた」
「……さっきから何言ってんだ、このシスコン」
「別にいいよそれで。どうせ姉貴だってファザコンだろ。……この際はっきり言うけど。オレは、姉貴の事好きだよ。そのろくでもないとことか、面倒臭いところ、全部含めて。爺ちゃんだって、婆ちゃんだって、……母さんだって。みんなそう思ってるはずだ。気難しいけど、本当は優しいんだって、みんな知ってる」
「……私のどこが優しいんだよ、アホ」
「じゃあ、あれは? あの時、ここで先輩たちの話した時とか。ちゃんとオレの言う事聞いて来てくれただろ。そんなバンドやめろとか言って。心配してくれてたんじゃないのか」
「誰が心配するかよ、お前みたいな奴」
「それじゃ、こないだのは? 雨の中、ずぶ濡れになってまで、高宮先輩のこと探してくれただろ」
「……。なんだそれ。なんのことだ」
「とぼけるなよ。五十嵐先輩から話は聞いてるし、第一あの現場に居ただろ、野次馬の群れに混じってさ。あの真っ黄色のジャージ着てるからすぐわかった」
「…………ストーカーかよ、お前」
「捻くれてる割に、いつも詰めが甘いんだよ姉貴は。そんなだから失敗するんだ。バンドも、人間関係も、――自殺も」
重い、沈黙が下りた。
「……姉貴」
「……なんだ」
「……オレは姉貴が全部悪いとは思わない。母さんのことも、舞子さんたちのことも――ただ、少し。間が悪かっただけなんだ。だから」
息を震わせ、絞り出すように響は言う。
「辛いなら逃げていい。怖いなら隠れてていい。でも、居なくはならないでほしい。一生オレは、姉貴を見捨てないから。たった一人の、きょうだいだから」
泣いてはいない。だけど声の震えを隠せていない。
泣き虫だった、小さい頃のコイツを見ているようだった。
「……だけど、姉貴が。本当に辛くて。どうしてもそれを、選びたいのなら」
響は苦しそうにそこで言葉を着ると、やがて穏やかに言葉を吐く。
「オレは――ちゃんと、受け入れるよ」
その、一言が。
今まで浴びてきたどんな慰めや、罵倒の言葉より。
一番優しくて、胸に苦しかった。
「……そんなこと、わざわざ言いに来たのか」
冷たくあしらう。そうしないと、私も耐えられそうになかった。
「腹を割って話す事も大事だって、先輩達が教えてくれたから。……大丈夫だよ。もう当分ここには来ないし、学校でも話しかけたりしない。……ただ、オレの言いたい事は、今日、全部ここに置いてく」
ギターを置くと、響は立ち上がった。
「……ああ、それと。テスト終わったらライブやるから。それは見に来てほしい」
また、あいつの顔がちらつく。
五十嵐の時と同じように、私は響に問いただした。
「……響。なんでお前、高宮に。あんな面倒な奴に付き合うんだ」
「……最初は、姉貴に発破を掛けさせるだけのつもりだった。けど、今はもう全然違う。あの人と居ると楽しいし、面白いから一緒にいる。それだけだよ」
「楽しいのか? あれが、そんなに」
「うん。あの人とやってると、なんか最初の頃を思い出すんだ。父さんや姉貴と三人でやってた頃。――だからかな。思い出せる気がするんだ。そもそもなんで、音楽をやろうと思ったのか。そういうこと」
最初の、頃。
「それにあの人。ちょっと姉貴に似てるしさ。何かほっとけないっていうか」
「私と、あいつが――似てる?」
「ああ。まあ流石に姉貴ほど捻くれてないし、弱くもないけど。鏡みたいなもんだなって、オレは思ってる。ただ一つ違うのは――」
響は何か言いかけたところで、口を噤む。
「これ言うと、逆効果かな。とりあえず下行ってきなよ。姉貴にお客さんが来てる」
「……客?」
響は答えず部屋を出る。仕方なく私も一階に降り、玄関横の茶の間に入る。そこにはお茶を淹れる祖母の姿と、座布団の上にちょこんと座る、一ノ瀬の姿があった。
「あ、……音無さん」
「あら、降りてきたのね楓ちゃん。じゃあおばあちゃん、お夕飯の支度してくるから。お友達も、ゆっくりしてってね」
「はい。ありがとうございます。……音無さん、これ、プリント。しばらく休んでた分、溜まってたから。体調、大丈夫?」
「……ああ、うん」
こないだ雨の中走り回ったせいで風邪を引き、私はもう丸一週間も学校を休んでいた。もっとも、風邪なんかとっくに治っていて、余計に休んでいた理由は別にある。
一度、突き放したはずのこの子に。それでも私に話しかけようとしてくるこの子に――もう、会いたくなかったからだった。
「……音無さん。帰る前にちょっとだけ、話、してもいい?」
「……ああ」
頷いて、私も座布団の上に座る。
予想外だったけど、これはいい機会かもしれない。
さっき響が言ってた事に、感化されたわけじゃないけれど。
下手な嘘なんてつくから、前は何も伝わらなかった。本物の傷にはならなかった。だったら――私がどういう人間なのか。何を考えているのか。包み隠さず腹の内をぶちまけてしまえばいい。そして今度こそ、――本当に、嫌われてしまえばいい。
「とりあえず、こないだの事だけど。……ごめんね。私、音無さんの気持ち何も考えないで、なんか、勝手な事言っちゃって。その事で多分、怒らせちゃったんだよね」
「別に、そんなの関係ない」
「そうなの? じゃあ、何か別の事で怒らせて――」
「違う。そもそも別に、怒ってない」
「……? えっと、じゃあ。なんで私の事、急に無視したりしたの?」
「それは、……」
まずい。おかしい。変だ。ちゃんと正直に答えてるはずなのに――このままじゃどうやっても私が望む展開にならない気がする。
本当に、このまま正直に答えていいんだろうか。
「……? 音無さん?」
突然固まった私を見て、一ノ瀬が首を傾げる。
どうせこの場じゃ何も思いつけない。
覚悟を決めて、私はそのまま全てを正直に話すことにした。
「私が急に無視を始めたのは、……一ノ瀬に、嫌われたかったからだ」
「私に、……嫌われたかった? え? な、なんで?」
「それは――説明が難しいけど。私は一ノ瀬を傷つけて、嫌われて。それで自分が傷つきたかったんだ。死にたくなるくらい、嫌な気分になりたかった、っていうか」
「……???」
「っ……そもそもの話。私は一ノ瀬が関わっていいような、まともな人間じゃないんだ。普通に頭おかしいし、性格悪いし。他人に迷惑ばっかかけるダメ人間で。だから、本当は最初から一ノ瀬を無視するべきだったのに。……私は」
要領を得ない私の言葉に、一ノ瀬は不思議そうに眼を瞬かせている。――これだから、話すのは嫌いだ。頭の中の言葉が、全然上手く吐き出せなくて、死にたくなる。
「……さっきから、何言ってるんだろうな。私」
溜息がちに私が呟くと、一ノ瀬は何故だか笑みを零した。
「ぷ、ふふ。……なんか、音無さんって意外と面白い人なんだね」
「……お、面白い?」
「だって、さっきから。傷つける為に仲良くしてたーとか、私はダメ人間なんだー、とか。このひと急に何言ってるんだろうって思って」
「……………………」
ぐうの音も出なかった。
「とりあえず音無さん。いくつか確認したいことがあるんだけど、聞いてもいい?」
「……ああ」
「私のこと、鬱陶しい? もう、話しかけないでほしい?」
「……。いや、別に」
「じゃあまた、お昼ご飯一緒に食べたりとか、話しかけてもいい?」
「……。一ノ瀬」
「なに?」
「……なんで私なんかに、関わろうとするんだ。さっきも言ったけど、……私はろくな奴じゃない。昔から口下手で、周りに馴染めなくて、……普通じゃ、ないんだ」
絞り出すようにそう言うと、一ノ瀬は首を傾げる。
「……そうかな。私は別に、普通だと思うけど」
「……どこが?」
「うーん……。じゃあ音無さんから見て私は、普通? まともに見える?」
「……。まあ、大きさ以外は」
「うわ。気にしてることさらっと言うなあ……」
「ごめん」
「あはは。言われ慣れてるから別にいいよ。……とにかく。音無さんは自分で思ってるほど悪い人なんかじゃないと思うよ。私の事、無視しないでくれるし。たまに、冗談も言ってくれるし」
「いや、……そんなの、別に。普通の……」
言いかけてはっとなる。
「ね。普通でしょ? 音無さんも。それに、どっちかっていうと私の方がまともじゃないよ。留年した理由とか、すっごいしょうもないしさ」
「……しょうもない理由?」
「うん。えっとね。私、すごいガリ勉で。第一志望だった高校に落ちて、やけくそでこの高校に入ったんだ。それで、……これ言うの凄い恥ずかしいんだけど……なんていうか、お高くとまってたの。この学校、制服着崩したりとかちょっと派手っていうか、子供っぽい人多いじゃん。それで、周りの事見下してたっていうか。話しかけられても、無視とかしたりして」
一ノ瀬がガリ勉なのは知ってた。休み時間も放課後も一生懸命勉強ばかりしていたから。でもそんな、お高く止まってる奴には見えなくて、意外だった。
「で、それから、自分で目標立てたの。こんなとこ来たからには三年間成績トップを維持しようって。でも、あっさり。一回目の期末テストで、一教科だけ他の子に点数抜かれちゃって。多分、軽い冗談だったんだろうけど、そのことを弄られてガチ切れしちゃって、思いっきり体調崩して……そのまま不登校に……」
当時の記憶を思い出したのか、ずーんと一ノ瀬は頭を下げて沈み込む。
「以上、こんな感じです。どう? しょうもないでしょ」
「うん。まあ、……思ってたより凄いしょうもなかった」
「真顔で言わないでよ……?」
「……まあ、別にそれなら私も似たような経験あるし。細かい理由は違うけど、意味もなく周りの事見下して、気取ったり。……今にしてみれば、バカな話だけど」
「音無さんも? ……あはは。やっぱりそっか。実はずっとそうじゃないかと思ってたんだ」
「……。どういう意味だよ、それ」
一ノ瀬がいたずらっぽく笑う。つられて、私も少し笑ってしまいそうになる。
「何か、いいね。こうやって本当の事、誰かに打ち明けたりするの。なんか今ので音無さんの印象、ずいぶん変わっちゃったなぁ」
「……思ってたのと違って、幻滅しただろ?」
「ううん、全然。むしろすっごい、近づけたっていうか。私も、誰にも言えてなかったこと言えてすっきりしたし。聞いてくれて、ありがとね」
一ノ瀬がそう言った直後、響が茶の間に入ってきて、夕飯ができた事を知らせてくる。一緒に食べていけという祖母の誘いを丁寧に断り、一ノ瀬は玄関へ。私も外に見送りに出る。
「ごめんね。プリント届けるだけだったのに長居しちゃって」
「いや、別に」
「あ、またそれ。口癖だよね音無さん。その別に……。っていうの」
「……。別に意識はしてないんだけど、口が勝手にこの形になるんだよな」
「あはは。あ、そういえば聞きそびれちゃったな。音無さんの留年した理由。なんか微妙にぼかしてたし。私はちゃんと話したのになんだか不公平だな~?」
「……っ!? いや、それは、だから」
上目遣いで覗き込んでくる一ノ瀬にたじろいで、私は口ごもってしまう。
だけど、もう。――意地を張るのも馬鹿らしくなったから。素直に言う。
「また今度話す。……どうせ、また会うだろ」
「そっか。……へへ。じゃあ、楽しみにしてるね」
嬉しそうにそう笑うと、一ノ瀬は歩き去っていく。夜空を見上げながらゆっくり息を吐くと、靄がかっていた視界が少し晴れていくような気がした。
――解っていた。目を逸らしていただけだったと、今は素直に認められる。
ずっと、私の一人相撲だった。一ノ瀬の事も、舞子達の事も、父さんの事も。
気づいたところで、何かが解決したわけじゃないけれど。長い、長い時間をかけて。ようやく、マイナスに振れていた感情が、ゼロへ戻った気がした。
夕食を終え、自室に戻る。一ノ瀬が持ってきた宿題の山を机の上に置くと、見覚えのないCDケースが目に留まった。いわゆるCD-Rというやつだ。白無地の円盤にはマジックで「デモテープ1」と汚い字が綴ってある。
私のじゃない。誰の物か、なんとなく気づいた。
どうせ響の仕業だろう。
だから無視して、宿題に手をつける。つけようとする。だけどちらちらと視界に映るそれが、何故か気になって集中できない。妙な、苛つきが収まらない。
そして仕方なく、私はヘッドホンと携帯CDプレイヤーを引っ張り出し、作業ついでにそのCDを聞くことにした。
(……?)
だけどすぐに、シャーペンを持つ手が止まった。
ずらしたヘッドホンを着け直し、音量を上げて曲を最初から聞き直す。聞き取れるだけの歌詞を、手元のメモ帳に写していく。
「……なんだ? これ」
こんな詞を、曲を。本当にあいつが書いたのか。
全く、イメージが重ならない。
『あの人、なんか姉貴にちょっと似てるんだ。ただ一つ、違うのは――」
あいつの歌を聴きながら、響が言っていた言葉を思い出す。
「……」
どうしようもなく、確かめたい事ができていた。
あいつは何者で、私は何者なのか。
本当は、何を求めているのか。
大嫌いなあいつに、私は会いたくなっていた。
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