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第一部
第二十九話「素晴らしい世界」
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◇
『はい。それじゃ皆さんお待たせしました。次がいよいよ最後のバンドとなります。このバンドは僕個人的にもすごく楽しみにしてたバンドで、え? もういい? 下がれデブって? では盛大な拍手でお迎えください。ザ・ロック・スタディ!』
照明は落とされたまま、深紅の幕があがった。
まばらな拍手を掻き消すように、まずは五十嵐のドラムが高らかに鳴り響く。そして歪んだギターとベースの音が、檻から解き放たれた猛獣のように両側から吼え上がった。スポットライトが響の真上に落ちて、五十嵐の刻むハイハットの音に合わせてソロフレーズを奏でる。そして、ユニゾンするギターとベースの音に合わせカラフルな照明が探照灯のように暗い体育館を疾走した。
夢現のような光景。その中心に今、俺は立っている。
やがて、一筋の光が俺の元に落ちた。
『――、』
マイクを力いっぱい両手で握りしめ、歌いだす。
ロードオブメジャー『心絵」。
一成が勧めてくれたこの曲が、俺達の一発目の曲だった。白球を追いかけて転がりまわってたあの頃、俺達がみんな大好きだった野球アニメの主題歌。曲の頭の歌詞から、感慨深い気持ちになる。あの頃の俺は、きっと今の俺が見ている景色の事なんか想像もつかないだろう。描いていた夢も、変わってしまった。だけど、一つだけ変わらない大切なものがある。何度もくじけても走り続ける、――雑走魂《ざっそうだましい》。
静かに始まる冒頭を歌い切ると同時に音無さんのギターが一気に曲のアクセルを踏んだ。さあ、行くぜ。行くぜ! 行くぜ行くぜ行くぜ!! みんなで行くぜ!!!
Aメロ。Bメロ。一つ一つ、気持ちを込めて噛み締めるように言葉を吐く。ギターを弾いてない分、いつもより声のコントロールに集中できる。いや弾いてないからというよりは横にあの人が居るという安心感からだろう。五十嵐に言われた言葉の通り、下手に動かずマイクだけを握りしめ、俺は歌を歌うことだけに意識を集中する。
そして、サビの時間がやってきた。
『なァァァみィィィだァァァッ!!』
腹の底から喉を響かせる。この曲の最高音は高く、今の俺にとってギリギリの音域だった。だけど、絶対にしくじらない。練習通りのミックスボイス、口角を吊り上げて、喉の奥を開くイメージで、全身全霊の声を響かせる。
聞こえてるか、智也。
俺はまだ、あの頃みたいに走ってるぞ。
もう場所は違うけど。――お前と一緒に居た、あの頃みたいに。
『――、』
最後のフレーズを歌い切り、高らかに片腕を掲げ拳を握りしめる。
後奏の残響と共に、はっきりと拍手が聞こえるのを感じた。
顔はまだ上げない。音無さんと五十嵐の方にアイコンタクトを送る。
GO。口元で合図を送ると次の曲のイントロが始まった。俺は後ろに置いたエレキギターを肩から提げると、マイクスタンドの前で拍手を打ちながら観客を煽り、十分に手拍子の流れが出来た所で思い切り叫ぶ。
「こんばんは、Rock Studyです! ハルシオンの皆に負けないくらいの演奏します! ぜひ最後まで聞いてってください! 俺たちと、あなた達と! 大好きなロックバンドの明日に捧げます! ア・フラッド・オブ・サークルで、シーガル!!」
俺がシャウトした週間、舞台照明が一気にステージ上を照らし、音無さんの奏でるギターフレーズが、天井を突き破るが如くに飛び立った。
a Flood of circle「シーガル」。――決して知名度の高い曲ではないのかもしれない。だけどこのバンドほど泥臭く、熱い音楽をやっている人たちは居ないと、俺は信じている。この曲は特にそうだ。あの雨が続いた一週間、どれだけ俺はこの曲に励まされたか。冷たい雨に打たれながら、泥の中を転げまわりながら。それでも明日はあるのだとそう信じさせてくれた。
そして、ずっと待ち焦がれていた『明日』が今この瞬間。あの時絶対に歌いたいと思っていたこの曲を、俺は喉を千切らんばかりの勢いで叫び、歌う。
『――、――!?』
しかし。二回目のサビの途中、急に声が出なくなった。
いや、違う。マイクだ。マイクが故障して音が出なくなっているのだ。
つい辺りを見回しそうになり、なんとかぎりぎり抑え込む。今はライブ中だ。トラブルがあったとしても平静を装わなくてはならない。ロックバンドが慌てたら興ざめにも程がある。幸い間もなくギターソロだった。この間に、何とかするしかない。
(――音無先輩!)
左腕を回して煽り立てる。意を察した音無さんはステージ中央に躍り出ると、ギターソロを弾き始めた。俺はその隙に、ベースを弾く響の元へ急いで駆け寄る。
「響! コーラスマイク借りるぞ!」
響はすぐに察した様子で頷くと、前に出て観客の視線を引く。その間に俺はマイクスタンドからコーラス用マイクを引き抜き、ミキサーの所まで走っていく。調整が済んだ頃にはギターソロはもう終盤。曲が走り気味だったのが災いした。これじゃぎりぎり間に合わない、そう思った瞬間。
「――」
音無楓が、左手でギターを高らかに掲げていた。
一筋の光がそこに落ち、ひととき世界が静止する。
耳を裂くようなフィードバックの音だけが、体育館に鳴り響いていた。
1秒、2秒、3秒、――4秒、5秒。
ああ。やっぱり本当に。あんたって人は。
そこに突っ立ってるだけで、……最高にギターヒーローだ。
マイクスタンドの前で、静かに息を吸う。音無さんのおかげで、十分に時間が稼げていた。アルペジオを弾きながら、俺はCメロを歌い始める。
さあ、咲かせよう。
雨降りの後に咲く、根もなく名も無い一輪の花を。
『オオオオオオオオオオオオオオ!!!!』
地声で渾身のシャウトを放つ。マイクをもう一回ぶっ壊しかねない勢いで、ラストのサビを一気に歌い上げる。観客席を見ると、ちらほら何人か出口の方へと散っていくのが見えた。だけど、別にいい。まだ俺達をこんなに見ている人たちがいる。いや、もう誰も見ていなくたって俺達は永遠にこれを続けるだろう。
だってそうしたいから、これだけを、したいから!
『―――キィィィィィィン』
トラブルはあったけど、無事二曲目を終える。甲高いギターのフィードバック音が轟く中、間髪入れず五十嵐のドラムが激しくビートを刻み始めた。
さあ、まだ走るぞ。響。次はお前の出番だ。
あのリフを弾き鳴らす。ストレイテナー『Killer Tune』。
響と学校で初めて会った日に一緒に合わせた曲。ただし今回は再録でアレンジされたバージョン『Natural Born Killer Tune Mix』。ドラムのパターンが大きく変わりドライブ感が断然強化されている。ストレイテナーというバンドの「進化」を象徴する、ライブでは最も盛り上がる曲の一つだ。
そう、進化だ。キラー・チューンは進化する。
今日のギターは二本。俺だけじゃない!
弾いていたメインのリフを音無さんに譲り、俺はオクターブ奏法のカッティングフレーズを弾き始める。ツインギターのアンサンブルの下で、水を得た魚のようにベースラインが狂喜乱舞する。走り気味のテンポが足踏みするたび心地いい。もはや歌う必要がないんじゃないかってくらいのグルーヴがそこに生まれていた。
『――! ――!』
ギターから手を離しマイクを片手で握って歌い始める。この曲の主役はなんといってもリズム隊だ。五十嵐のドラムと響のベースが、伴奏とは思えないほどの存在感を見せつける。Bメロ、俺も再びギターを弾き始める。
(……っ!?)
サビに入る瞬間、音無さんのギターが唸りを上げ、右に居る俺達全員を蹴り飛ばすようなディストーション・サウンドを炸裂させる。
『――YEAH-YEAH!!!!!』
渾身の叫びで、左から食って掛かる化物を俺はなんとか跳ね除けた。
――全く、恐ろしい。ちょっとでも油断すればこれだ。まるでこの曲はメンバー同士の戦いだった。全員で主役を奪い合うかのような。少しでも気を抜けばバンドのアンサンブルが一気に崩れてしまう、危険な領域。主張しすぎず大人しくなりすぎず、今にも引きちぎれそうなワイヤーの上で、ギリギリのラインを保って走り続ける。
(よし、――!)
前列の観客たちが、腕を上げて跳ねているのが目に映った。いける。
やっぱりこの曲が、今の俺達の必殺の曲だ。
そして怒涛のような間奏が始まった。もはやステージ上は音と音の乱闘状態と化している。バケモノみたいな両サイドに埋もれながら、俺は淡々とメインのギターリフを弾いて合奏を必死で繋ぎとめる。
(行け、響!)
間奏の中盤、スポットライトが響の元に落ちる。にやりと響は笑うとピックを口にくわえステージ中央に躍り出た。エフェクトのかかったスラップのベースソロ。この曲の一番の見せ場だ。俺はソロを弾く響の傍らに立ち、マイクを握りながら観客を煽り立てる。
(……ん!?)
俺が歌い始めたその瞬間。左から音無さんが近づいてきて響の横に立つ。そしてピックを口に咥えると響の弾くソロと全く同じフレーズをギターで弾き始めた。
エ、エレキギターでスラップ!? 何やってんのアンタ!? 響も負けじとそれに張り合う。おい、ちょっ、と。何やってんのこの姉弟! それ練習じゃやんなかったでしょ! こんなところで喧嘩すんなや! なんで急にそういうことするの!?
しかし演奏の方は全く正確そのものでギターとベースが1オクターブでユニゾンする。――あ、そう。何の問題もない? ならまあ、いいけど!!
『YEAH-YEAH!!!!!』
近くに居る二人をシャウトで跳ね飛ばし、再びステージ中央を俺だけのものにする。曲も終盤、あとは駆け抜けるだけだった。
『――――ィィィィィン』
断末魔のようなフィードバックが響き渡る。滅茶苦茶強いラスボスをやっと倒したような気分だった。歓声と拍手が飛び交う中、猛烈な疲労感が襲ってきて、全身に汗が浮き出ているのを感じた。でも、まだ終わりじゃない。ここからが本当の戦い。暗黒に包まれるステージの中、俺はギターをスタンドに置きサングラスを外した。
「……」
スポットライトが俺の元に落ちる。闇の中に浮かぶ観客の視線を一身に引き受ける。呼吸を整えた後、マイクを握りしめて真っ向から言葉を吐いた。
「みんなで作った曲です。聞いてください。――素晴らしい世界」
クリーントーンのオープンコードが鳴り響く。
今度こそ、この場に居る誰も知らない曲だった。
◆
それはあいつと廃墟で話した翌日、五十嵐の家のガレージでバンドを結成した日。メンバー全員でライブでやる曲を決めていたところだった。テーブルの上に置かれた小さな音楽プレイヤーからは、粗いアコギの音と高宮の歌声が吐き出されている。
「……暗」「……暗いな」「……暗いですね」
「いや、知っとるわそんくらい!」
音楽プレイヤーの再生を止めながら高宮が叫ぶ。
「あの、音無さん。やっぱ別の曲にしません?」
「自信ないのか?」
「いやそういうわけじゃないけど……せっかくアッパーな流れできといて、これじゃいきなり暗いじゃないですか。しかも急にオリジナルって。なんか色々台無しにしちゃわないですか」
「……お前は、ずっとコピーだけでバンドをやっていくつもりなのか?」
「……いや、それは。もちろん違います。いつか自分の曲を……」
言いよどむ高宮に私はきっぱりと言う。
「私はこの曲をやるべきだと思う。本気で勝負する気なら自分の曲もやるべきだ」
「……アタシも、同感。ロックがどうとかほざくなら、お前も自分の曲で繋いでみろって話だ」
「ぐ、……でもこれロックっていうかスローテンポの弾き語りだしバンド向きじゃ」
「いいんじゃないですか? 速い曲ばかりだけでもアレだし、緩急取る意味でも」
視線を落とし高宮は沈黙する。やがて、言った。
「……ダメだ」
「……高宮」
「あ、いや。違うんです。ただ、……この曲の歌詞は、ほんとただ暗いだけで、何の意味もないから。みんなと一緒にはやれない。――このままじゃ」
顔を上げて、高宮は言った。
「書き直させてください。皆とやるなら、ちゃんと、意味のあるものにしたい」
その言葉に、全員が頷いた。
◆
私のソロパートが来た。足元のブースターを踏んで、前に進み出る。
昔からこういう、スローテンポのギターソロを考えるのが一番苦手だった。小手先の技術では絶対に誤魔化せない、メロディセンスの世界だから。
馬鹿みたいにペンタトニックスケールをなぞるベタなソロを弾く。情けない話、自分のものとは思いたくないくらい拙い出来だった。けど、それはきっとあいつにとっても同じだろう。女子中学生のポエムみたいな青臭い歌詞にしても、間の抜けたメロディにしても。本当はきっともっとうまく作りたかったに違いない。
だけど、生まれてきたのはこれだった。
理想的じゃない、ありのままの、等身大の自分の姿。
それを、憎たらしいと思う。
なんでもっと、と。呪いたくもなる。
こんなものなら、生まれてこなければよかったのにと。
だけど、それでも。これはここに生まれてきた。
産声を上げて、確かにここに生きている。
――本当に小さな、私の生命。
それをどうして、殺せるっていうんだ? 生きてほしいと、ただ願うだけ。
最後のチョーキング。足元のブースターを切った。
これで私の出番は終わり。あとは、お前の番だ。
◇
音無先輩のソロが終わる。曲はブレイク。照明が立ち消えて体育館に深い静寂が訪れる。俺の元に、一筋のスポットライトが降り注いだ。
マイクを両手で握って、口を開く。
「……ハッピーエンドに、ならない気がしてます」
もう、歌じゃない。ただの言葉だった。たった今、思いついただけの生の台詞。
「明るい未来があるとか自分を信じろとか大人は言いますけど。暗い現実がいつも僕の目の前にはあって。理想と現実の差に、日々、打ちのめされて生きてきました。――だけど、何もしないよりは何かをして生きる方がいい。そう信じてここに立ってます。花は一生咲かないかもしれない。空は一生飛べないかもしれない。ハッピーエンドには、ならないかもしれない」
五十嵐がリズムを刻み始め、響のベースが静かに寄り添う。本来なら二番のサビを終えた時点でこの曲はおしまい。だけどあれから、続きができた。
『でも、それでも僕は頑張ろうって思ってます。諦めたくないって、まだそう思ってます! だって、世界は――』
ギターのボリュームを上げる。隣からも、フィードバック音が聞こえた。
照明が一気にステージ上を照らす。
『世界はまだ、素晴らしいはずだって信じてるから!』
最後のサビを歌い上げる。長い後奏が始まった。ラララと歌いながら、何小節も同じフレーズを繰り返す。歩くような速さで、ずっと、ずっと、ずっと。
それが終わる頃には、観客の数は目に見えて減っていた。
だけど、終わった時には静かな拍手が巻き起こった。
『……ありがとう、ございました!』
マイクの前で頭を下げる。拍手が止むまでずっとそうしていた。
『……最後の曲は、俺達の大好きな曲です。知ってたら、どうぞ一緒に歌ってください! エルレガーデン、ジターバグ!』
息を吸う合図と同時に音無さんがブリッジミュートのパワーコードを刻み始める。
片腕を高らかに掲げて、俺は歌い始めた。
最後の曲は五十嵐のリクエスト。ELLEGARDEN『ジターバグ』。
それは当時きっと数えきれないくらいの十代を虜にした、BUMPの『天体観測』やアジカンの『リライト』のように、日本の2000年代最強のロックナンバーだ。
歌いながら、言葉の一つ一つが胸に染み渡っていく。ずっと英語で歌ってきた、ボーカルの細美さんが真剣に日本語に向き合った曲。解釈の仕方はそれぞれだろうけど今の俺にとってこの曲は、ラブソングだった。支えてくれた仲間への、ずっと俺を励まし続けてくれた、数えきれないロックバンド達に対しての。
そうだ。どんなに落ち込んでも音楽だけがそこにあった。
オーバードライブのギターサウンドが、思い切り叫ぶ誰かの声が。
この暗い闇を引き裂いてくれた。
いつか自分も、そんなことをできたらと思う。俺を救ってくれた誰かのように。大好きなロックミュージックを誰かの心に響かせたい。
今はまだできない。この曲に頼ってしまう。でもいつか。いつか絶対――。
『――そうなりますように!』
最後の歌詞を叫んで、飛び跳ねた。頭を揺さぶりギターを掻き鳴らす。弦が千切れるくらいに強く。この時間が永遠に続くように激しく。ピックがはじけ飛んで、血だらけの指で掻きむしった。もう痛みも何もわからない。それでもギターを鳴らす。鳴らし続ける。鈍色の弦が真っ赤になるまで。五十嵐のドラムのキメに合わせて、今度は全員で飛び跳ねた。
『――――』
最後のコードの残響が体育館に響き渡る。照明が眩くステージを照らし、耳も眼も、世界の何もかもがくぐもって感じた。
ああ。終わった。終わってしまった。こんなに楽しかった時間が終わってしまった。スローモーションの世界の中で、中学時代の光景がフラッシュバックする。静まり返った体育館。白け切った冷たい視線。左手に食い込むギターの弦。
でも、今は。
顔を上げる。見える。聞こえる。何もかもが、鮮明に。
「ああ――」
どっと、涙があふれ出て、
どっと、歓声が巻き起こった。
『はい。それじゃ皆さんお待たせしました。次がいよいよ最後のバンドとなります。このバンドは僕個人的にもすごく楽しみにしてたバンドで、え? もういい? 下がれデブって? では盛大な拍手でお迎えください。ザ・ロック・スタディ!』
照明は落とされたまま、深紅の幕があがった。
まばらな拍手を掻き消すように、まずは五十嵐のドラムが高らかに鳴り響く。そして歪んだギターとベースの音が、檻から解き放たれた猛獣のように両側から吼え上がった。スポットライトが響の真上に落ちて、五十嵐の刻むハイハットの音に合わせてソロフレーズを奏でる。そして、ユニゾンするギターとベースの音に合わせカラフルな照明が探照灯のように暗い体育館を疾走した。
夢現のような光景。その中心に今、俺は立っている。
やがて、一筋の光が俺の元に落ちた。
『――、』
マイクを力いっぱい両手で握りしめ、歌いだす。
ロードオブメジャー『心絵」。
一成が勧めてくれたこの曲が、俺達の一発目の曲だった。白球を追いかけて転がりまわってたあの頃、俺達がみんな大好きだった野球アニメの主題歌。曲の頭の歌詞から、感慨深い気持ちになる。あの頃の俺は、きっと今の俺が見ている景色の事なんか想像もつかないだろう。描いていた夢も、変わってしまった。だけど、一つだけ変わらない大切なものがある。何度もくじけても走り続ける、――雑走魂《ざっそうだましい》。
静かに始まる冒頭を歌い切ると同時に音無さんのギターが一気に曲のアクセルを踏んだ。さあ、行くぜ。行くぜ! 行くぜ行くぜ行くぜ!! みんなで行くぜ!!!
Aメロ。Bメロ。一つ一つ、気持ちを込めて噛み締めるように言葉を吐く。ギターを弾いてない分、いつもより声のコントロールに集中できる。いや弾いてないからというよりは横にあの人が居るという安心感からだろう。五十嵐に言われた言葉の通り、下手に動かずマイクだけを握りしめ、俺は歌を歌うことだけに意識を集中する。
そして、サビの時間がやってきた。
『なァァァみィィィだァァァッ!!』
腹の底から喉を響かせる。この曲の最高音は高く、今の俺にとってギリギリの音域だった。だけど、絶対にしくじらない。練習通りのミックスボイス、口角を吊り上げて、喉の奥を開くイメージで、全身全霊の声を響かせる。
聞こえてるか、智也。
俺はまだ、あの頃みたいに走ってるぞ。
もう場所は違うけど。――お前と一緒に居た、あの頃みたいに。
『――、』
最後のフレーズを歌い切り、高らかに片腕を掲げ拳を握りしめる。
後奏の残響と共に、はっきりと拍手が聞こえるのを感じた。
顔はまだ上げない。音無さんと五十嵐の方にアイコンタクトを送る。
GO。口元で合図を送ると次の曲のイントロが始まった。俺は後ろに置いたエレキギターを肩から提げると、マイクスタンドの前で拍手を打ちながら観客を煽り、十分に手拍子の流れが出来た所で思い切り叫ぶ。
「こんばんは、Rock Studyです! ハルシオンの皆に負けないくらいの演奏します! ぜひ最後まで聞いてってください! 俺たちと、あなた達と! 大好きなロックバンドの明日に捧げます! ア・フラッド・オブ・サークルで、シーガル!!」
俺がシャウトした週間、舞台照明が一気にステージ上を照らし、音無さんの奏でるギターフレーズが、天井を突き破るが如くに飛び立った。
a Flood of circle「シーガル」。――決して知名度の高い曲ではないのかもしれない。だけどこのバンドほど泥臭く、熱い音楽をやっている人たちは居ないと、俺は信じている。この曲は特にそうだ。あの雨が続いた一週間、どれだけ俺はこの曲に励まされたか。冷たい雨に打たれながら、泥の中を転げまわりながら。それでも明日はあるのだとそう信じさせてくれた。
そして、ずっと待ち焦がれていた『明日』が今この瞬間。あの時絶対に歌いたいと思っていたこの曲を、俺は喉を千切らんばかりの勢いで叫び、歌う。
『――、――!?』
しかし。二回目のサビの途中、急に声が出なくなった。
いや、違う。マイクだ。マイクが故障して音が出なくなっているのだ。
つい辺りを見回しそうになり、なんとかぎりぎり抑え込む。今はライブ中だ。トラブルがあったとしても平静を装わなくてはならない。ロックバンドが慌てたら興ざめにも程がある。幸い間もなくギターソロだった。この間に、何とかするしかない。
(――音無先輩!)
左腕を回して煽り立てる。意を察した音無さんはステージ中央に躍り出ると、ギターソロを弾き始めた。俺はその隙に、ベースを弾く響の元へ急いで駆け寄る。
「響! コーラスマイク借りるぞ!」
響はすぐに察した様子で頷くと、前に出て観客の視線を引く。その間に俺はマイクスタンドからコーラス用マイクを引き抜き、ミキサーの所まで走っていく。調整が済んだ頃にはギターソロはもう終盤。曲が走り気味だったのが災いした。これじゃぎりぎり間に合わない、そう思った瞬間。
「――」
音無楓が、左手でギターを高らかに掲げていた。
一筋の光がそこに落ち、ひととき世界が静止する。
耳を裂くようなフィードバックの音だけが、体育館に鳴り響いていた。
1秒、2秒、3秒、――4秒、5秒。
ああ。やっぱり本当に。あんたって人は。
そこに突っ立ってるだけで、……最高にギターヒーローだ。
マイクスタンドの前で、静かに息を吸う。音無さんのおかげで、十分に時間が稼げていた。アルペジオを弾きながら、俺はCメロを歌い始める。
さあ、咲かせよう。
雨降りの後に咲く、根もなく名も無い一輪の花を。
『オオオオオオオオオオオオオオ!!!!』
地声で渾身のシャウトを放つ。マイクをもう一回ぶっ壊しかねない勢いで、ラストのサビを一気に歌い上げる。観客席を見ると、ちらほら何人か出口の方へと散っていくのが見えた。だけど、別にいい。まだ俺達をこんなに見ている人たちがいる。いや、もう誰も見ていなくたって俺達は永遠にこれを続けるだろう。
だってそうしたいから、これだけを、したいから!
『―――キィィィィィィン』
トラブルはあったけど、無事二曲目を終える。甲高いギターのフィードバック音が轟く中、間髪入れず五十嵐のドラムが激しくビートを刻み始めた。
さあ、まだ走るぞ。響。次はお前の出番だ。
あのリフを弾き鳴らす。ストレイテナー『Killer Tune』。
響と学校で初めて会った日に一緒に合わせた曲。ただし今回は再録でアレンジされたバージョン『Natural Born Killer Tune Mix』。ドラムのパターンが大きく変わりドライブ感が断然強化されている。ストレイテナーというバンドの「進化」を象徴する、ライブでは最も盛り上がる曲の一つだ。
そう、進化だ。キラー・チューンは進化する。
今日のギターは二本。俺だけじゃない!
弾いていたメインのリフを音無さんに譲り、俺はオクターブ奏法のカッティングフレーズを弾き始める。ツインギターのアンサンブルの下で、水を得た魚のようにベースラインが狂喜乱舞する。走り気味のテンポが足踏みするたび心地いい。もはや歌う必要がないんじゃないかってくらいのグルーヴがそこに生まれていた。
『――! ――!』
ギターから手を離しマイクを片手で握って歌い始める。この曲の主役はなんといってもリズム隊だ。五十嵐のドラムと響のベースが、伴奏とは思えないほどの存在感を見せつける。Bメロ、俺も再びギターを弾き始める。
(……っ!?)
サビに入る瞬間、音無さんのギターが唸りを上げ、右に居る俺達全員を蹴り飛ばすようなディストーション・サウンドを炸裂させる。
『――YEAH-YEAH!!!!!』
渾身の叫びで、左から食って掛かる化物を俺はなんとか跳ね除けた。
――全く、恐ろしい。ちょっとでも油断すればこれだ。まるでこの曲はメンバー同士の戦いだった。全員で主役を奪い合うかのような。少しでも気を抜けばバンドのアンサンブルが一気に崩れてしまう、危険な領域。主張しすぎず大人しくなりすぎず、今にも引きちぎれそうなワイヤーの上で、ギリギリのラインを保って走り続ける。
(よし、――!)
前列の観客たちが、腕を上げて跳ねているのが目に映った。いける。
やっぱりこの曲が、今の俺達の必殺の曲だ。
そして怒涛のような間奏が始まった。もはやステージ上は音と音の乱闘状態と化している。バケモノみたいな両サイドに埋もれながら、俺は淡々とメインのギターリフを弾いて合奏を必死で繋ぎとめる。
(行け、響!)
間奏の中盤、スポットライトが響の元に落ちる。にやりと響は笑うとピックを口にくわえステージ中央に躍り出た。エフェクトのかかったスラップのベースソロ。この曲の一番の見せ場だ。俺はソロを弾く響の傍らに立ち、マイクを握りながら観客を煽り立てる。
(……ん!?)
俺が歌い始めたその瞬間。左から音無さんが近づいてきて響の横に立つ。そしてピックを口に咥えると響の弾くソロと全く同じフレーズをギターで弾き始めた。
エ、エレキギターでスラップ!? 何やってんのアンタ!? 響も負けじとそれに張り合う。おい、ちょっ、と。何やってんのこの姉弟! それ練習じゃやんなかったでしょ! こんなところで喧嘩すんなや! なんで急にそういうことするの!?
しかし演奏の方は全く正確そのものでギターとベースが1オクターブでユニゾンする。――あ、そう。何の問題もない? ならまあ、いいけど!!
『YEAH-YEAH!!!!!』
近くに居る二人をシャウトで跳ね飛ばし、再びステージ中央を俺だけのものにする。曲も終盤、あとは駆け抜けるだけだった。
『――――ィィィィィン』
断末魔のようなフィードバックが響き渡る。滅茶苦茶強いラスボスをやっと倒したような気分だった。歓声と拍手が飛び交う中、猛烈な疲労感が襲ってきて、全身に汗が浮き出ているのを感じた。でも、まだ終わりじゃない。ここからが本当の戦い。暗黒に包まれるステージの中、俺はギターをスタンドに置きサングラスを外した。
「……」
スポットライトが俺の元に落ちる。闇の中に浮かぶ観客の視線を一身に引き受ける。呼吸を整えた後、マイクを握りしめて真っ向から言葉を吐いた。
「みんなで作った曲です。聞いてください。――素晴らしい世界」
クリーントーンのオープンコードが鳴り響く。
今度こそ、この場に居る誰も知らない曲だった。
◆
それはあいつと廃墟で話した翌日、五十嵐の家のガレージでバンドを結成した日。メンバー全員でライブでやる曲を決めていたところだった。テーブルの上に置かれた小さな音楽プレイヤーからは、粗いアコギの音と高宮の歌声が吐き出されている。
「……暗」「……暗いな」「……暗いですね」
「いや、知っとるわそんくらい!」
音楽プレイヤーの再生を止めながら高宮が叫ぶ。
「あの、音無さん。やっぱ別の曲にしません?」
「自信ないのか?」
「いやそういうわけじゃないけど……せっかくアッパーな流れできといて、これじゃいきなり暗いじゃないですか。しかも急にオリジナルって。なんか色々台無しにしちゃわないですか」
「……お前は、ずっとコピーだけでバンドをやっていくつもりなのか?」
「……いや、それは。もちろん違います。いつか自分の曲を……」
言いよどむ高宮に私はきっぱりと言う。
「私はこの曲をやるべきだと思う。本気で勝負する気なら自分の曲もやるべきだ」
「……アタシも、同感。ロックがどうとかほざくなら、お前も自分の曲で繋いでみろって話だ」
「ぐ、……でもこれロックっていうかスローテンポの弾き語りだしバンド向きじゃ」
「いいんじゃないですか? 速い曲ばかりだけでもアレだし、緩急取る意味でも」
視線を落とし高宮は沈黙する。やがて、言った。
「……ダメだ」
「……高宮」
「あ、いや。違うんです。ただ、……この曲の歌詞は、ほんとただ暗いだけで、何の意味もないから。みんなと一緒にはやれない。――このままじゃ」
顔を上げて、高宮は言った。
「書き直させてください。皆とやるなら、ちゃんと、意味のあるものにしたい」
その言葉に、全員が頷いた。
◆
私のソロパートが来た。足元のブースターを踏んで、前に進み出る。
昔からこういう、スローテンポのギターソロを考えるのが一番苦手だった。小手先の技術では絶対に誤魔化せない、メロディセンスの世界だから。
馬鹿みたいにペンタトニックスケールをなぞるベタなソロを弾く。情けない話、自分のものとは思いたくないくらい拙い出来だった。けど、それはきっとあいつにとっても同じだろう。女子中学生のポエムみたいな青臭い歌詞にしても、間の抜けたメロディにしても。本当はきっともっとうまく作りたかったに違いない。
だけど、生まれてきたのはこれだった。
理想的じゃない、ありのままの、等身大の自分の姿。
それを、憎たらしいと思う。
なんでもっと、と。呪いたくもなる。
こんなものなら、生まれてこなければよかったのにと。
だけど、それでも。これはここに生まれてきた。
産声を上げて、確かにここに生きている。
――本当に小さな、私の生命。
それをどうして、殺せるっていうんだ? 生きてほしいと、ただ願うだけ。
最後のチョーキング。足元のブースターを切った。
これで私の出番は終わり。あとは、お前の番だ。
◇
音無先輩のソロが終わる。曲はブレイク。照明が立ち消えて体育館に深い静寂が訪れる。俺の元に、一筋のスポットライトが降り注いだ。
マイクを両手で握って、口を開く。
「……ハッピーエンドに、ならない気がしてます」
もう、歌じゃない。ただの言葉だった。たった今、思いついただけの生の台詞。
「明るい未来があるとか自分を信じろとか大人は言いますけど。暗い現実がいつも僕の目の前にはあって。理想と現実の差に、日々、打ちのめされて生きてきました。――だけど、何もしないよりは何かをして生きる方がいい。そう信じてここに立ってます。花は一生咲かないかもしれない。空は一生飛べないかもしれない。ハッピーエンドには、ならないかもしれない」
五十嵐がリズムを刻み始め、響のベースが静かに寄り添う。本来なら二番のサビを終えた時点でこの曲はおしまい。だけどあれから、続きができた。
『でも、それでも僕は頑張ろうって思ってます。諦めたくないって、まだそう思ってます! だって、世界は――』
ギターのボリュームを上げる。隣からも、フィードバック音が聞こえた。
照明が一気にステージ上を照らす。
『世界はまだ、素晴らしいはずだって信じてるから!』
最後のサビを歌い上げる。長い後奏が始まった。ラララと歌いながら、何小節も同じフレーズを繰り返す。歩くような速さで、ずっと、ずっと、ずっと。
それが終わる頃には、観客の数は目に見えて減っていた。
だけど、終わった時には静かな拍手が巻き起こった。
『……ありがとう、ございました!』
マイクの前で頭を下げる。拍手が止むまでずっとそうしていた。
『……最後の曲は、俺達の大好きな曲です。知ってたら、どうぞ一緒に歌ってください! エルレガーデン、ジターバグ!』
息を吸う合図と同時に音無さんがブリッジミュートのパワーコードを刻み始める。
片腕を高らかに掲げて、俺は歌い始めた。
最後の曲は五十嵐のリクエスト。ELLEGARDEN『ジターバグ』。
それは当時きっと数えきれないくらいの十代を虜にした、BUMPの『天体観測』やアジカンの『リライト』のように、日本の2000年代最強のロックナンバーだ。
歌いながら、言葉の一つ一つが胸に染み渡っていく。ずっと英語で歌ってきた、ボーカルの細美さんが真剣に日本語に向き合った曲。解釈の仕方はそれぞれだろうけど今の俺にとってこの曲は、ラブソングだった。支えてくれた仲間への、ずっと俺を励まし続けてくれた、数えきれないロックバンド達に対しての。
そうだ。どんなに落ち込んでも音楽だけがそこにあった。
オーバードライブのギターサウンドが、思い切り叫ぶ誰かの声が。
この暗い闇を引き裂いてくれた。
いつか自分も、そんなことをできたらと思う。俺を救ってくれた誰かのように。大好きなロックミュージックを誰かの心に響かせたい。
今はまだできない。この曲に頼ってしまう。でもいつか。いつか絶対――。
『――そうなりますように!』
最後の歌詞を叫んで、飛び跳ねた。頭を揺さぶりギターを掻き鳴らす。弦が千切れるくらいに強く。この時間が永遠に続くように激しく。ピックがはじけ飛んで、血だらけの指で掻きむしった。もう痛みも何もわからない。それでもギターを鳴らす。鳴らし続ける。鈍色の弦が真っ赤になるまで。五十嵐のドラムのキメに合わせて、今度は全員で飛び跳ねた。
『――――』
最後のコードの残響が体育館に響き渡る。照明が眩くステージを照らし、耳も眼も、世界の何もかもがくぐもって感じた。
ああ。終わった。終わってしまった。こんなに楽しかった時間が終わってしまった。スローモーションの世界の中で、中学時代の光景がフラッシュバックする。静まり返った体育館。白け切った冷たい視線。左手に食い込むギターの弦。
でも、今は。
顔を上げる。見える。聞こえる。何もかもが、鮮明に。
「ああ――」
どっと、涙があふれ出て、
どっと、歓声が巻き起こった。
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