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小悪魔とバケモノ①

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   俺の部屋をノックする音が聞こえた気がした。ショッピングモールから家に帰ってきて、床に倒れ込んだままだった俺の耳が反応した。
 家に着いて自分の部屋にたどり着くと、俺はもう立っていることすらできなかった。倒れたときの音がうるさかったのだろうか、母さんの怒っている声を耳にしたように感じた。
   なにもする気が起きなかった。指一つ曲げる気にもなれかった。まるで蝋人形になったみたいに全身がまったく動かなかった。
   ひどく気分が悪い。胃の中の物を吐き出しそうになり、何度もえづいた。だけど何一つ口からは出てこなかった。苦みのある唾液で、俺の口の周りはべとべとになっていた。
   もう一人の自分は姿を消していた。俺に呪いのような言葉をかけたきり、姿を現してはいない。このまま消え去ってくれればいいのだが、きっと奴は俺が苦痛を感じるたびにまた現れる。そのことは決定事項だと俺には思われた。

「……センパイ、はいるっすよ。うわ、電気もつけないで、なに床に突っ伏してるんですか!」

   のらの声がする。照明をつけたみたいで、目の前が急に明るくなり、俺は顔をしかめた。

「もう、突然走り出していなくなっちゃったから、探したんすよ。家に電話して、今日は遅くなるって言ったら、パパにめっちゃ怒られるし。晩ご飯くらい、たまには自分で作れって、キレ返しましたけどね。で、わたし、センパイはちゃんと家に帰ってるかなって思って来てみたら――」

   のらは一人でずっとしゃべっていた。彼女の優しい声が耳に届くたびに、なぜか懐かしい気分になった。

「センパイ。いつまで、そんな恰好でいるつもりですが。もう、仕方ないなー。はいはい。右京ちゃん。いつまでも、床の上で寝てないで、ベッドに行きまちょーね。ママが抱っこして運んであげまちゅからねー。て、重っ! センパイ! 少しは自分の力で立とうとしてくださいよ!」

   抱き起そうとしたのらが、俺が微動だにしないためケツを叩いた。

「良子ちゃん。右京、大丈夫そう?」
「あ、はい。なんか本物の地蔵みたいになってますけど、問題ないと思います」
「そう。じゃあ、右京のこと任せたわよ。あ、良子ちゃんの分もご飯を用意してあるから、お腹すいたら言ってね」
「ママさんすみません、わざわざ」
「いいのいいの。じゃ、私は右京の部屋にはしばらく近づかないから。良子ちゃん、右京をたくさん元気にしてあげてね。この家、壁が厚いから心配ないわよ」
「ははは……なんか意味深な感じっすね。とりま頑張りまーす」

   ドア越しに母さんの声が聞こえた。

「もう、ママさんにも心配されて。しょうがないセンパイっすね。よいしょ」

  のらは床にうつ伏せになっている俺をひっくり返して、俺の頭を抱えあげ自分の太ももにのせた。

「そんなに辛かったんだね」

  のらの顔が目の前にあった。彼女は俺の目や口の周りを指で優しく拭いた。

「わー。センパイの体液で指がベタベタになっちゃいましたよ。あ、いまの発言で違うところが元気になっちゃいました? キモっ! ホント、センパイはむっつりっすね」

  そう言いながら、俺の頭を撫でるのら。

「もう、ツッコんでくださいよ!」

  のらは俺の頬をつねった。

「ねえ、センパイ。家族とお出掛けすると言っていたしぃちゃん先輩が、まーくん先輩と一緒にいてショックを受ける気持ちは分かりますよ。わたしが、もしセンパイと付き合っていて、嘘の予定を聞かされた挙句、その日にわたし以外の女子と一緒にいるところを目撃したら、パニックになっちゃいますもん」

 俺の前髪をのらは優しく撫でる。

「それで嫉妬にかられて、二人は自分を騙して浮気していたとか、ヘンな勘違いをする気持ちはすごく分かります」
  
 違う。

「でも、それはやっぱりセンパイの勘違いなんですよ。センパイはいま冷静さを失っているから、真実が見えていないだけなんですよ」

  のら、違うんだ。

「よく考えてみてくださいよ。あの二人は家が隣同士の幼馴染なんですよ。だから、しぃちゃん先輩が言っていた、家族とお出掛けという「家族」には仲のいいお隣の家族も含まれていたってことですよ」

  のら。やめてくれ! そんなこと、わかってるんだよ!

「明日、わたしがこっそりしぃちゃん先輩に聞いてあげますから。大丈夫です。しぃちゃん先輩とまーくん先輩がセンパイに隠れてこっそり付き合ってるなんてことは、絶対にないですから。センパイの濁った目よりも、わたしのほうが観察力ありますから」

  のら、もうやめてくれ!

「これで安心しましたか、センパイ。だいたいあの二人がセンパイに隠れて、こそこそ逢引なんてするはずないじゃないですか。二人ともセンパイのことを大切に想っていることは、この二ヶ月ほど電車通学を共にしただけでも、充分伝わってきますよ」

  頼む! もうそれ以上、言わないでくれ! のら!

「はあ、それにしても、冷静に物事を見れないくらい、しぃちゃん先輩のことが好きなんですね。恋敵とはいえ、羨ましいっす」
「……だから、だから……」
「あ、センパイ! やっとしゃべってく――」
「だから! そんなんじゃねーって言ってんだろ!」

  俺は部屋に響き渡る声で絶叫した。

「……せ、センパイ?」
「そんなんじゃねーんだよ! のらが言ってくれたことなんか、とっくにわかってんだよ! 栞梨は俺を裏切るような奴じゃねーって。正道は俺を裏切るような奴じゃねーって。そんなこと、わかってんだよ!」
「で、でもセンパイは二人が一緒にいるところを見て、ショックを受けて走り去ったじゃないっすか」
「違う! 違うんだ……」

  そのときのことが頭をよぎると、目頭が熱くなった。そのときのこと、もう一人の俺が呪いの言葉を投げかけたときのことを。

「……俺は、俺は、あのとき栞梨と正道が一緒にいるのを見て、これが……事実なんだって……そう納得してしまったんだよ!」
「そ、それは、しぃちゃん先輩のことが好きなんだから、別におかしいことないっすよ」
「違うんだ! 好きだからこそ信じないといけないのに。だけど俺は……大切な存在の栞梨が……俺を裏切っていたって……思ってしまったんだよ!」

 俺は自分が許せなかった。自分が生み出した化け物の言葉を信じたことが許せなかった。

「なんで……なんで、あんな奴の言うことなんか信じたんだよ! 俺が信じなきゃいけないのは栞梨なのに! 栞梨があの夜に、正道の名前を呼んだのだって、きっと俺の聞き間違いに決まっているのに! 栞梨が正道と関係を持っているなんてありえないことなのに! なんで……なんで……俺は栞梨のことを、カノジョのことを信じてあげられないんだよ!」

  止まらなかった。目から涙がとめどなく溢れた。のらが俺の顔をじっと見つめていたが、そんなことなど気にならなかった。そんなことなどどうでもよかった。

「……あの夜に、まーくん先輩の名前を呼んだってなんですか?」

  そのことを思い出すだけで、俺の頭はおかしくなる。名前の分からない感情が俺の全身を駆け巡る。あの夜の出来事が蘇ってくる。あの夜の! あの夜の! あの夜の――

「あの夜! 栞梨は俺の名前じゃなくて、正道の名前を呼んだんだよ! 何回も何回も何回も! それを聞いた俺はどうすりゃいいんだよ! どう思えばいいんだよ! どう感じればいいんだよ! なあ、俺は栞梨のなんなんだよ! カレシだよな? そうだよな? 俺は栞梨のカレシだよな?」
「せ、センパイ! 落ち着いてください! センパイは栞梨さんのカレシで間違いないです! だから、落ち着いてください!」
「だったら! なんで……なんで……あのとき俺じゃない男の名前を呼んだんだよ!」
「あ、あのときって?」
「あのときはあのときだろ! お泊りデートのときに決まってんだろ! なんで……あの夜に……俺の名前を呼んでくれなかったんだよ……なあ栞梨……教えてくれよ」
「…………」

  栞梨・・は教えてくれなかった。
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