オヤジとJK、疾る!

柊四十郎

文字の大きさ
上 下
13 / 36

遺恨

しおりを挟む
 琵琶湖。
 日本で一番大きな湖であり、世界でも十三番目に古い古代湖でもある。
 夜の帳が落ち、琵琶湖の水面を黒く染め上げている。
 湖畔に、一人の男が佇んでいる。
 短く刈り込まれた頭髪、鷲の様な鋭い目つき。
 衣服の上からでもありありとわかるその鍛え上げられた肉体。
 一部の隙もないその後ろ姿は、彼が只者でないことを物語っている。
 その男に、一人の女が近づいてゆく。
リウ大尉」
 女が男に呼びかけたその言葉、中国語である。
 劉と呼ばれたその男は、夜の琵琶湖の緩やかな水面を見つめている。
「居処はつかめたか?」
 振り向きもせず、劉は答える。
「ここから四十キロほど離れた隣県の敦賀という街に入った事が確認されています。スン軍曹以下三名が対応に向かっています」
 女は事務的に答え、劉の隣に並ぶ様に立った。
「大尉、一つ気がかりな点が」
「言え」
「標的と共に行動している人物の正体が判明しました。アーデルヘイド・エルメリンスです」
 その名を聞いて、劉は驚いたような顔をする。
「ほう、红发夜叉ホンファーイェーチャーか?」
「はい。今は食火鸡シーフオジィー、キャサワリーと名乗っているようです」
 女は劉の横顔に視線を移す。
「ありえません」
 劉を見る女の目は焦りの色が浮かんでいる。
「大連で私はあの女の心臓を撃ち抜きました」
「しかし、ツァイ少尉。その後、海に落ちた女の遺体は上がっていない。となると、ありえない事、とも言いきれん」
 蔡と呼ばれた女を一瞥もせず、劉は対岸に見える街の灯りを見つめている。
「しかし!」
 蔡はなおも食い下がろうとしたが、劉はそれを退けるかのように、歩き出した。
「あの女がいるとなると、孫では心許ないな……」
 劉は少し考えるように黙り、歩みを止めて夜空を見上げた。
「私が参りましょうか?」
「いや、ホー軍曹にも行ってもらおう。彼は拉致工作の専門だ」
 そう言われて蔡は少し悔しそうな顔をして、劉に向かい敬礼をした。
「……了解しました。では失礼します」
 踵を返してその場を立ち去る蔡の背中に、劉は声をかけた。
「蔡少尉、気持ちはわかるが、遺恨をかかえたまま任務にあたると状況を見誤ることも多い。わかるな?」
 蔡は立ち止まり、劉の方には振り向かずに答えた。
「弟がキャサワリーに撃たれた事と任務は別です。弟は警察官としての職務を全うしただけです」
 そう言うと蔡は再び歩き出し、待たせていた日本製のセダンに乗り込んだ。
 蔡が車に乗り込むと、運転席に座る女が笑顔で出迎える。
 運転手として蔡と行動を共にしているタン伍長である。
「いかがでしたか?敦賀行き」
 まだ幼さの残る顔をした鄧は蔡の顔を覗き込むようにして聞いてきた。
「却下だ。何の班が向かう」
 不機嫌そうに答える蔡に、鄧はウフフ、と笑って車を走らせ出す。
「我々は敦賀市の手前二キロあたりで待機する」
 蔡はノートPCを膝の上でひらげ、何軍曹への作戦指示をメールしたためて送信した。
「不機嫌な少尉も素敵です」
 鄧が左手を差し出すと、蔡は自分の掌を差し出された掌に重ね、優しく握りしめた。
「不機嫌ではない。ただ、我々特殊部隊がわざわざ日本にまで来て作戦行動をとるのだ。失敗は許されん。そう思うと、顔も険しくなるだろう」
 重ねられた二人の指先は、お互いを愛撫するかのように絡み合い、弄りあう。
「M248の拉致はなんとしても遂行せねばならん」
 蔡はノートPCを閉じ、足元にある鞄に仕舞い込んだ。
紫薇ズーウェイお前も心して作戦に当れ」
 鄧は車を路肩に寄せ、停車させた。
 二人は顔を寄せ合い、唇を重ねた。
「私は少尉のお守りが任務ですから、それどころではありませんよ」
 鄧は蔡の唇の感触を確かめるように、自らの下唇を右手の人差し指でなぞる。
シュゥアンと呼べ」
 蔡は鄧の首に手を回し、強く引き寄せ再び唇を重ねた。

 

 
 


 

しおりを挟む

処理中です...