シナリオ

琴乃葉

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シナリオ

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 どの年も相変わらず冬の夜は昼間に比べて気温が急激に下がる。当然、天気予報など見ることが出来ない。適当にコートは羽織ってきたが、冬の寒さの認識を間違えていたのかそれだけでは寒さは凌げず、とても耐えられなかった。


   *


 凍えた手に息を吹きかけて手を暖める。吹きかけた息は白息となって俺の目に映る。何度も息を吹きかけても暖まらない俺の手。それに限界を感じ、すぐ近くにあったコンビニに逃げるように入店した。
 暖房の効いた店内はとても暖かく、冷えきった俺の体をじんわりと暖めてくれた。時刻は十一時を越え、店内にいる客は俺と女性のみだった。帰りのことを考え、俺は暖かい飲み物を手に取ろうとした時だった。偶然にも、もう一人の客の女性と取ろうとした物が同じで互いの手が触れた。
「すみません……って、まさ君!?」
 女性は俺の顔を見た途端、表情は豹変し、俺の名前を口にした。
「何でこんな所に、いつ退院したの!?もう体は大丈夫なの!?」
 続け様に問いかけてくる女性。俺は思わず言った。
「すみません。どこかでお会いしましたか?」
 そう言うと、女性の表情は先程と打って変わって唖然としていた。言葉にならない、という様子なのかただ立ち尽くしていた。女性の周りだけ時間が止まっているようにさえ感じられる。そう思った瞬間、女性の周りの時間が動き始めた。
「……ほ、本当に覚えてないの?」
 不安そうな表情を浮かべる女性。俺は静かに首を振った。すると、女性は俯き、黙り込んでしまった。
「え、大丈夫ですか?」
 突然とした行動に俺は戸惑いながらも優しく声をかけた。女性はゆっくり顔を上げて少ししてから口を開いた。
「ごめんなさい……今日はもういい」
 俺は忘れかけていた飲み物の会計を済ませ、疑問に思いつつも俺はコンビ二を後にした。外に出た瞬間、コンビニの暖房で暖まっていたはずの俺の体は一瞬にして冷えた。


 後日。七時過ぎに目が覚めた。ほっと息をつくと重い体を起こす。体が起き上がったところで昨夜の出来事を思い出した。その時、急に胸が締め付けられた。不遇な道から逸れる為の自己防衛だと分かっている。だからこそ、余計に辛い。
 充電器に挿していたスマホに着信が入った。手を伸ばしてスマホを手に取る。見ると、メールが届いていた。
『話したいことがあるの。‪‪〇‬丁目の喫茶店に来て』
 俺は唇を噛んだ。長考の末、俺は了承した返事を送った。
『じゃ、十時に喫茶店ね』
 そのメッセージを最後にそれから送られてくることは無かった。俺は洗面所で顔を洗い、鏡に映った自分の顔を見つめる。そこに映るのは偽りの仮面を被った自分だった。


 予定時刻より少しばかり早い時間に俺は喫茶店に到着した。中に入ると、窓側の小さな席に案内された。席について待っていると、一人の女性がこちらに近づいて来た。
「ごめん、待った?」
 黒の長髪がよく似合い、服も完璧に着こなしている女性。椅子を引きながらそう尋ねる女性に俺は一言。待っていないです、と答えた。
 女性は深刻そうな表情を浮かべると、一つ息を吐いて話し始めた。
「ねぇ、雅くん……本当に記憶喪失なの?私のこと本当に覚えてないの?」
 昨日と同様の問いかけに俺は同じくして首を振った。
「……そう」
 問いかけは同じだったものの、女性の反応は違った。今日はそこまで悲しんでいる素振りを見せなかった。
「雅君が入院してる時に先生から聞いたの。もしかしたら脳に障害が残るかもしれないって……それって記憶喪失のことだったんだね」
 女性は笑顔を浮かべていたが、その笑顔はどこか引きつっていて、無理やり笑っているように見えた。
「……あの、僕達はどういった関係で?」
 歯切れの悪さを自ら感じながらも俺は女性に尋ねた。
「恋人だよ」
 女性は迷いもなく答えた。
「君、神崎 雅斗かんざき まさとは私、幸宮 奏海ゆきみや かなみの彼氏なんだよ?」
 淡々とそう言う女性の言葉に嘘偽りは無さそうだった。少し落ち着かせる為に俺は頼んでおいたコーヒーを口に含んだ。苦味と程よい酸味が口に広がる。
 俺がコーヒーを口に入れるまでを見ていた女性。
「どうかしました?」
「いや……なんかさ、虚しいなって。大好きな雅君は目の前にいるのにね」
 女性はただ真っ直ぐに俺を見つめていた。そのつぶらな瞳をこうも向けられると気恥しさからか目を逸らしてしまう。すると、女性こんな提案をしてきた。
「ちょっと、場所変えようか。思い出話でもしながら散歩しよ」
 そう言って女性は席を立った。しかし、俺はいつまで経っても席を立とうとしなかった。いや、立てなかったと言うべきだろう。俺の頭の中に女性の言葉の中にあった『思い出話』という単語が引っかかっている。
「雅君、どうしたの?」
 いつまで経っても席を立たない俺を不思議に思ったのか女性はそう尋ねる。
「い、いえ。なんでもないです」
 俺は何事も無かったかのように席を立った。

  
 喫茶店を出た俺と女性は大通りに面している歩道を並んで歩いていた。外は冷えきっていてダウンコートを羽織っていても冷たい風が体を吹き抜ける。
「……奏海さん、こっちへ」
 大通りに面した歩道、俺は女性を歩道の内側を歩くように促した。女性は少し驚いた表情を浮かべていた気がするが気のせいだろう。
 しばらく歩いていると、女性が沈黙を破った。
「雅君が交通事故にあったって聞いた時は本当にびっくりしたよ」
「心配かけてすみません。骨折だけで済んでよかったです」
 そんな会話を挟んでいると小さな公園の前を通りかかった。
「少し休憩してかない?」
 俺は腕時計に目をやった。歩き始めてからそれなりに時間が経過していた。特に断る理由も無い為、俺は女性の提案に乗った。二人がけのベンチに並んで腰を下ろす。
「ねぇ、雅君。記憶喪失って、嘘でしょ」
 女性は急にそんなことを言い始めた。
「……?どういう意味ですか?」
「そのまんまだよ。雅君さ、本当は記憶喪失じゃないでしょ」
 俺は俯いてただ黙ることしか出来なかった。女性の言っていることは紛れもない事実だからだ。ただ黙っている俺に怒鳴る訳でもなく、呆れる訳でもなく、彼女は優しく話した。
「私、メールで〇丁目の喫茶店に来て、としか言ってないよ。あの辺はいっぱいカフェとか喫茶店とかあるのに雅君はあの喫茶店にいた。だって、あの喫茶店は昔からよく二人で行ってた所だもんね」
 思い出を懐かしむような声で彼女は言う。そう、あの喫茶店にはよく二人で行っている。まだ俺達が付き合い始める前からも、付き合い始めてからも……
「それと、さっきのこと。覚えてる?無自覚だったかな?あれは。記憶喪失なのに私のことを知った上での行動だったからね」
 彼女は微笑んでいた。俺は頭を悩ませた。思い当たる節が見当たらず、さっぱりだったからだ。俺は今日、彼女と出会ってからの行動を全て思い返した。すると、一つだけ思い当たる節があり、俺は思わず笑ってしまった。
「分かったっぽいね。私を歩道の内側を歩かせたことだよ。私は生まれつき右目がちょっと不自由だからね。遠近感とか少し取りづらいし」
 彼女は右目が少し不自由だった。不自由というより右目だけ視力が悪いという感じだろうか。その為、万が一の可能性を踏まえて彼女の隣を歩く時は必ず、彼女に安全な方を歩かせる。それが習慣化されあの時、思わず出てしまったのだろう。完全に失態だった。
「で、本題だけど……何でこんな嘘ついたの?」
 変わらず彼女は優しく問いかける。俺は俯いていた顔を上げ、彼女には視線をやらずただ前を見たまま答えた。
「ちょっとしたドッキリってやつ?」
 彼女を安心させるように俺は笑った。それを見た彼女は大きなため息をついてから少し怒り口調でいった。
「本当止めてよ!全然面白くないから!」
 
 "ああ、こうやっていつまでも彼女の傍にいて笑い合っていたい。この幸せな時間がいつまでも続いて欲しい。彼女が好きだから"
 "でも、そんな願いは叶わない。それはもうずっと前から知っている。だからこそ俺は、この幸せを早く壊したかった"






 回想一【幸宮 奏海との出会い】

 彼女との出会いは偶然だった。今と同じくらいに気温が低い去年の冬、雪が街一帯を覆うように降り積もっていた時期だった。雪はとうに降り止んで気温も降る前とほぼ変わりないはずだが、妙に寒気が増している気がする。
 別に嫌な気はしなかった。昔から雪は好きだったからだ。それに、これで見るのが最後かもしれないから。
 仕事を辞めてから特に何の目的もなく街中を歩くことが多くなった。仕事を辞めた今、アルバイトをして貯めた金で過ごしている。その金額は生活するのに必要最低限あるといった額だった。子供の頃の影響でどこかに出かけたいとも思わないし、娯楽なんかに使わない。故に金は足りているのだ。
 雪で足場の悪い中、加えて凍えるほど冷える気温で、散歩するやつの気がしれない者が多いと思うが、俺にとってかけがえのないものだった。それに、散歩してなかったらあの出会いはなかったのだから。
 ダウンコートに身を包み、不器用な手付きで巻いたマフラーに首をすくめる。歩道に積もっていたであろう雪は、誰かが除雪してくれたのか雪は端に寄せられていた。それは道路も同様だった。
 目的もなくただ先に続く歩道を歩く。すると、前から歩いてくる女性を見て、俺は思わず息を飲んだ。癖のない煌びやかな黒の長髪、時折吹く風に髪がなびく。
 あの瞬間だ、あの瞬間さえなければ俺が今ある幸せを壊したいなんて思わなかっただろう……いや、あの一時の感情はあっても良かったのかしれない。ただ、その一時の感情で今があるのならばその感情さえ持たなければ、とも思ってしまう。けど、その一時の感情を抱いたこと全てが悪いことではない。
 

 "─────駄目だ、よく分からない。俺の何が間違いだったんだろうか……"


 不注意か、俺は落ちている大きめの石に気づかず、それに足を引っかけて転倒してしまった。右手に少し鈍い痛みが走った。そんな事よりいい歳をして盛大に転倒した事が少し恥ずかしかった。
「大丈夫ですか!?」
 転倒した俺に女性は駆け寄って声をかけてくれた。ただ転倒したというだけなのに少し大袈裟な雰囲気もしたが、特に気にしなかった。
「大丈夫です。つまずいて転んだだけですので」
「あ、血が……」
 そう言う女性の目線の先に俺も目線をやると、手から軽く出血していた。血を服で拭おうと手を動かした時、女性の手によって止められた。
「駄目ですよ。ばい菌でも入ったらどうするんですか?こういう小さな怪我でもしっかりとした手当てをしないと」
 少し怒り口調な女性は自身のバックを漁ると、絆創膏を取り出した。その絆創膏を俺の手にそっと優しく貼ってくれた。
「あ、ありがとうございます」
 意外な行動に戸惑いながらも俺はお礼の言葉を言った。女性は優しく微笑むと、そっと立ち上がった。
「では、私はこれで」
 クールに立ち去る女性の背中を眺めながら、手の貼られた絆創膏を左手でそっと触れる。こんな風に誰かに優しくされたのは何年ぶりだろうか。俺だけに向けられた優しさに浸りながら歩き始めると、背後から大きな音が聞こえた。慌てて振り返ると、先程の女性がうつ伏せになって倒れていた。
「いったたた……」
 そう言って体を起こす女性に俺は駆け寄った。
「大丈夫ですか?大きな音がしましたけど」
 俺と目が合った女性は薄く笑った。
「折角いい感じに別れたのに……これじゃあ、カッコつかないな。実は私、最近地方こっちに引っ越してきたばかりで雪とか全然慣れてないんです」
「そうだったんですか。地方は雪が多くて大変ですからね」
「はい、想像以上でした。それで、今から除雪作業用の道具を買いに行こうと思ってるんですけど……あの、もしよろしかったら一緒に来てくれませんか?まだ分からないことも多くて」
 仕事を辞めている俺に予定があるはずがなかった。俺は即答して女性と一緒にホームセンターに行くことにした。
 

「そう言えば、まだお互いに自己紹介がまだでしたね。私は幸宮 奏海です。今年で二十六です」
「神崎 雅斗です。今年で二十四なので二つ歳下ですね」
 俺がそう言うと、女性……奏海は驚いた表情を浮かべていた。
「え、意外。私より歳上かと思ってました……あ!いや別に老けて見えたとか、そう言うんじゃないですからね!」
 奏海は慌てて弁解するよう、早口混じりに言った。俺はそんな奏海を見てると、思わず笑みがこぼれた。そんな俺を不思議に思ったのか、奏海は尋ねた。その問いかけに俺は答える。
「いや、少し面白くって。すみません」
「そんなに?……あ、敬語外してくれていいよ」
 固くなっていた俺に気を利かせてくれたのか奏海はそう言ってくれた。
「え?あ、ありがとうごさ……ありがとう」
 歳上相手に敬語を外すのは何とも慣れなかった。俺の歯切れの悪さに奏海が笑っているのに気づいた。
 それから二人は初対面とは思えないくらいに意気投合し、会話が弾んだ。奏海は不思議な人で、まるで昔からの知り合いであるかのような、そうな気がした。それは奏海の性格上からか、親しみやすい雰囲気を持っているからだろう。
 会話をして時間など忘れているうちに目的地のホームセンターに辿り着いた。客足は普段より多く、皆同じ目的なのかと、密かに思った。
「除雪作業用の道具は向こうだね」
 常連とまでは行かないが、それなりに来たことのある場所なのでどこに何があるかは大体把握していた。先に歩く俺に奏海がついてくる。
「まずはスコップなんですけど……」
「わ、結構種類があるね」
 奏海は目を丸くしてそう言った。確かに都会の方ではあまり見かけないものが多いだろう。現に俺も都会で生活していた頃、見たことがなかった。俺は一つのスコップを手に取った。
「この辺はすごく深く積もる訳じゃないから、ラッセルとかがいいと思う」
「ラッセル?スコップの名前?初めて聞いたよ」
 俺は奏海にスコップを手渡すと、奏海は珍しいものでも見るように受け取ったものをまじまじと見ていた。
「まぁ、他にも色々あるけど、今年の冬はそんなに降らなそうだからそれくらいで足りると思うよ」
「ありがとう。雅斗君。あ、そうだ。連絡先交換しない?困ったことあったらいつでも相談できるし。勿論、君の相談にも乗るよ」
 俺は奏海と連絡先を交換した。


   *


 金曜日。今日は大雨で時折、雷も響いている。こういう日だけは散歩はしない。
 自宅の掃除をしていた時、クローゼットの奥から二つのダンボールを見つけた。取り出して開けてみると、懐かしい参考書が大量に出てきた。
『医師を目指すなら』『医療の基礎』『医師になる為に大切なこと』
 どの参考書もボロボロで付箋がびっしり貼ってあった。もう一つのダンボールを開けてみると、これもまた参考書が沢山入っていた。
『司法試験過去問題集』『法律を一から学ぶ』『独学で弁護士を目指す』
 二つの異なる種類の参考書は勉強漬けだったあの頃を連想される。
「……ん?まだ何かある」
 ダンボールの中から紙がそれぞれのダンボールから一枚ずつ出てきた。それを見た俺は虚無感を覚えた。
 もう必要の無い参考書は今度のゴミの日にでも捨てようと思い、まとめて縛った。ダンボールに入っていた紙は破り捨てた。それから、キッチンやらリビングやら普段掃除しない場所も念入りに掃除をした。
 あらかた部屋を掃除し終えた頃、時計は十九時を示していた。そろそろ夕飯の支度をしようとキッチンに向かった時、インターホンが響いた。宅配便では無い、俺はネット注文をしないからだ。こんな時間に来客か?、そう思い少し不審感を抱きながらテレビモニターフォンに視線を向けた。
 そこに映っているのは見覚えのある姿が雨に濡れていた。その姿を見た途端、俺は急いで玄関の扉を開けた。外の雨は思ったよりも酷く、風も吹き荒れている。寒いなんてものじゃなかった。
「ま、雅君。今日一日泊めてくれない?」
 小刻みに震えながらそう言う彼女。話は中で聞く、と俺は彼女を家の中に入れた。とりあえず、雨で濡れている彼女に風呂を貸した。最近買ってまだ一度も着ていない服をバスタオルと共に脱衣所に置いた。
 しばらくして風呂から上がった彼女に暖かい茶を差し出す。椅子に腰を下ろした彼女に話を聞く。
「今日はどうしたの?」
「この雨で電車が止まっちゃって。どこか泊まれる宿を予約しようと思ったんだけど、空いてなくて。それで、雅君の所に来たの」
「あー、それで。全然いいよ。こんな所でよかったら」
「本当!?ありがとう、雅君!」
 彼女は俺を力強く抱き締めてきた。ふんわりとシャンプーの香りが鼻を抜ける。少し苦しかったが、不思議と止めて欲しいとは思わなかった。
 

 夕飯を済ませた俺達は椅子に腰を下ろして雑談していた。
「ねぇ、雅君って医師と弁護士目指してたの?」
 リビングの隅に大量にまとめられた参考書が目に入ったのだろう。彼女は不思議そうに尋ねてきた。俺はその問いかけに小さく首を振った。
「えー!凄いじゃん!雅君頭いいもんね」
 目指すことが凄い訳じゃない。目指すことは誰にだって出来る。それに、彼女だって……
「ちょっと見てもいい?」
 普段見ないものに興味を持ったのか、彼女はそんなことを言い出した。見られて困るものじゃない為、いいよ、と一言そう言った。
 彼女は席を立つと、参考書に向かって行った。早いうちに処分しよう、そう思いながら茶をすする。
「……やっぱり、雅君だったんだね」
「……え?なんか言った?」
 彼女がぼそりと呟いたのが耳に入った。
「……なんでもないよ。気にしないで」
 そう言う彼女だが、まだ俺の中ではどこか引っかかるところがある。けど、彼女の偽りのない笑顔を見ていると、それ以上言及する野暮なことは出来なかった。一通り見終わったのか彼女は参考書を元あった場所に戻した。
 外では相変わらず激しい雨が降り注いでいる。静寂に包まれている室内に風で揺れる窓の音が絶え間なく響く。カーテンの隙間から見える景色に目をやっていると、彼女が欠伸を漏らしていたのも目に入った。
「そろそろ寝る?寝室のベット使っていいよ」
「え、それは悪いよ」
「いいよいいよ。仕事で疲れてるでしょ」
 彼女は頑なに受け入れず、不服そうな表情を浮かべていた。すると、彼女はなにか思いついたような表情を浮かべ、俺に言った。
「じゃあ……一緒に寝る?」
「……え?」



 有無を言わせず、俺はほぼ強引に寝室に連れられた。俺は独り身なのでシングルベットだ。大人が二人ともなるとシングルベットの面積はほぼ満たされる。狭いとすら感じるくらいだ。
「こんな距離が近いのは初めてだね」
「……そうだね」
 彼女の顔がよく見える、彼女の息遣いが聞こえる、彼女の肌が触れる。
「……?どうしたの?」
 改めてこう近くで見ると、彼女は俺には勿体ないくらいの美人だった。おまけに料理も出来て、性格がいい。少し天然ドジな部分もある。何より、これでもかというほどに優しい。何もかも完璧な彼女は本当に俺には勿体ないくらいだ。
「雅君。どうして合格証書が捨ててあるの?」
 彼女は急にそんなことを言い出した。彼女が参考書を手に取って見ている時、俺が掃除中にゴミ箱に捨てたものが見られたのだろう。
「……もう、必要ないからだよ」
 俺はぶっきらぼうに答えた。
「雅君の昔話、聞きたいな」
 そんないい話じゃない。暗い話になるのは自分がよく分かってる。それでもいいと言う彼女。俺は目線を天井に向けて答えた。
「医師と弁護士を目指したのは、親に褒めてもらう為だったんだ」














 回想二 前【結果】

 アニメや漫画などでたまに見る、自分の子に結果を求める親。そんな親はまさに俺の両親だった。幼い頃から俺は常に結果を出すよう求められた。テストは百点が当たり前、学年一位は当たり前、部活動で優秀な成績を収めるのは当たり前……クラスメイトからは凄いと賞賛される結果は全て、両親は勿論、俺の中でも当たり前になっていた。
 だから、俺は両親に褒められたことが一度もない。逆に怒られたことは数え切れない程ある。テストで平均点以上でも、九十九点でも、学年二位でも怒られた。心做しか部活動のことだけは勉強に比べて怒られなかった。
 小、中、高と勉強漬けの日々を送っていた俺に青春なんて言葉は一体何なのか分からなかった。高校卒業後、俺は地元を離れ、日本で学力を一、二位争う有名な国立大学の医学部に進学した。
 大学でも変わらず、俺は勉強に専念したのだが、俺はある人物との出会いでとある疑問に当たった。
「あ、また一人残って勉強してる」
 静寂に包まれた俺一人の空間にそんな声が耳に入った。声のする方向には歳上の医学部女子大生が立っていた。その女子大生は俺の隣の席に腰を下ろすと、俺の開いている参考書に顔を覗き込んできた。
「え、法律の勉強?君、医学部でしょ?」
「弁護士も目指してるので」
 俺は手を止めず、女子大生にも目をやらずに答えた。
「へ~、医師と弁護士なんて超エリートじゃん」
「……用がないなら出てってくれませんか?気が散るので」
 俺は少し苛立ちを覚えながら強めの口調で言った。
「ごめんごめん。でもさ、いつもの君を見てると、ちょっと思うことがあるんだよね。君さ、何で医師と弁護士目指してるの?」
 ペンを動かす手が止まった。
「……両親に褒めてもらう為です」
「お父さんやお母さんに褒めてもらう為だけに目指してるの?」
 その問いかけに俺は答えることが出来なかった。けど、一つだけ分かったことがある。れっきとした目的の裏側を俺は目指しているのだと。
「まぁ、いいや。目指す理由なんてあってもなくてもどっちでもいいと思うよ」


   *


「ちょっと待って……」
 俺が話している途中、彼女は話を遮った。
「その女子大生……私だよ」
「……え!?」
 言葉が遅れて聞こえてきた。
「やっぱそうだよね。初めて雅君に会ったあの日、見たことあるなーって思ったんだよね。それで今日、あの参考書を見て確信出来た」
 彼女は薄く笑った。
 確かに言われてみればあの女子大生と彼女は重なる部分がある気がする。髪は伸びきっているが雰囲気や顔立ちはそのままだった。
「そう言えば、奏海は医者だったな……って、嘘だろ。もう寝てる」
 彼女は一定の寝息を立てていつの間にか眠っていた。あの時の女子大生は彼女だったのかと思うと、妙に信じられない。
「……おやすみ」
 聞こえてるはずのない彼女にそう言ってから俺も目を瞑った。











 回想二 後【存在意義】

「こんな問題も解けないのか!」
 そう怒鳴り散らかして手にしていた問題集を俺に投げつけてくる父親。
「あんたにどれだけの費用をかけて教育してきてると思ってるの!」
 クラスで一番だったが、百点じゃない点数の答案用紙を破いて怒鳴る母親。
 いつもこれだ。テストで百点の時は何にも言わないくせに九十九点以下だったら怒鳴ってくる。酷い時には暴力や丸一日家を追い出されたこともあった。
 一度でいいから両親に褒めてもらいたい、そんな思いで勉強していた。けど、全教科百点でも学年一位を何度とっても両親が褒めてくれることは無かった。俺は段々と怒鳴られたくない、殴られたくない、家を追い出されたくない、そんな思いで勉強をするようになった。
 そんな思いのまま勉強する日々は変わらず、俺は中学生になった。
 中学一年生のある日、俺は教室で講話を聞いた。講話を開いてくれたのは四十代前半の男性でその人は日本で数十人しかいないと言われている弁護士と医師のライセンスを持っている人だった。講話終了間際の質疑の時間、俺は挙手をした。普段、無口な俺の挙手に教室がざわついたのが感じ取れる。
「じゃあ、一番早かった君」
 俺は一番最初に指された。席を立った俺はこう尋ねる。
「医師と弁護士のライセンスを取ったら、どんなに褒めてくれない両親も褒めてくれますか?」
 意外な質問だったのか、男性は少し驚いていたが、すぐに答えてくれた。
「勿論、君を誇りに思うだろう」
 その日だ。俺が単純な理由で医師と弁護士の資格取得を目指したのは。
 その日から俺は学校の勉強に加え、色々調べがら参考書を買い、医師と弁護士の勉強を始めた。大学までの進路も決めた。勉強時間は今までとは比にならないくらい増えて睡眠時間を削って必死になって取り組んだ。
 その生活は大学を卒業するまで続いた。その為、中、高、と勿論だが、大学でも親しい友人など到底出来るはずがない。学校で喋った回数など片手で数えるくらいしかなかった。喋る暇があったら勉強をしていたくらいだ。
 そんな俺は学生生活の八割を勉強につぎ込んだと言っていいくらいだった。そんな俺の努力は実を結び、見事に司法試験と医師国家試験に合格した。俺は二枚の合格証書を手にしてすぐさま帰宅した。家に近づくにつれて俺の脈を打つ回数は増えていく。果たして、両親は褒めてくれるのか。そんな期待を抱きながら家の扉を開ける。しかし、鍵がかかっていて扉が開かなかった。いつもならどちらかがいる時間帯なので不思議に思いながら鍵を使って中に入る。
 俺は椅子に腰を下ろして両親が帰って来るのを待つ。二枚の合格証書を机の上に並べながら。
 しかし、両親はいつまで経っても帰ってこなかった。流石におかしいと思い始めた時、家に一本の電話が入った。俺は受話器を取ると、大人の男性の声がした。
『神崎さんのご自宅でお間違いないですか?』
「はい。そうですけど、どちら様ですか?」
『◯◯県警の者ですか、実は……ご両親が交通事故に会い、意識不明の重体で病院に搬送されました』
「……どこの病院か教えてくれますか?」
 俺は何故か取り乱したりせずに冷静だった。警察から病院名を教えてもらい、すぐにその病院へ向かった。
 病院に辿り着き、俺は受付の人に事情を話して案内してもらった。辿り着いた病室で両親と思われる人が二人ベットの上で横たわっていた……白い布で顔を覆われながら。
「五分前に……」
 すぐ傍にいた医師がそうか細い声で言った。
「……ああ、そうですか」
 枯れたように涙が溢れてくることはなかった。それに、悲しいという感情すらも芽生えなかった。ただ芽生えたのは今までの時間が無駄だったという喪失感と生まれた時から縛られていたものにやっと解放されたという感覚だけ。
 帰宅後、机の上に並べた二枚の合格証書を手に取る。
 その時、病院では流れなかった涙が今となって流れ、合格証書に滴る。もう二十歳を超えたいい大人だが、やっぱり子供の頃から与えられなかったものを一度でいいから与えてほしかった。
「やっぱり……一度でいいから、褒めてもらいたかったな」
 広くなった家でただ一人、涙を流していた。


   *


「────君、雅君」
 目を覚ますと、彼女が俺の顔を覗き込んでいた。もう朝か、そう思いながら体を起こす。その時、布団に水滴が垂れた、それは何粒も。自分の涙と理解するまで少し時間がかかった。それを見た彼女はすかさず尋ねる。
「怖い夢でも見たの?」
「怖い夢って言うか……ちょっと、過去の夢をね」
 そう言って涙を手で拭った……その刹那、彼女は俺を抱き締めてきた。
「……ど、どうしたの?」
 彼女は俺の耳元で優しく言った。
「もし、辛い過去を一人で抱えてるんなら私に言えることは言って。初めて会った時に言ったでしょ?君の相談にも乗るよ、って」
 
 "……頼むから止めてくれ。そんな風に俺に優しくしないでほしい。彼女の優しさを向けられる度に、俺は離れたくないと思ってしまう。彼女の優しさに甘えてしまう。ずっと一緒にいたいと思ってしまう"
 "けど、それが叶わないから、俺は……俺は……"
 "こんな矛盾している自分が嫌だった。どんなに決意しても結局、揺らぐ自分がいる。決意した時の自分と揺らいでいる時の自分は別の人間とまで思ってしまう"
 "……もう少しだけ、あともう少しだけ彼女の傍にいよう。そしたら、もう……"







「見て、雅君!凄く綺麗だよ!」
 雪が降り、地と屋根に降り積もる……何度も見たことがある光景のはずだが、彼女は初めて見た時のような反応をしていた。何度も見たことがある、といっても街全体の雰囲気でここまで変わるものだと、目で見て感じた。
 俺達は山形県にある銀山温泉に一泊二日の旅行に訪れていた。
 この旅行を提案したのは彼女だった。何でも、銀山温泉付近にある旅館の宿泊代が無料になる券を患者から頂いたらしい。そして、何故かその券は俺が使用して彼女は自腹で旅行に訪れている。何度も彼女に自分の分は自分で払う、と言ったのだが、彼女は聞く耳を持ってくれなかった。
『なんでそこまでしてくれるの?』
『えー?……だって、私の方が稼いでるじゃん?』
 悪戯っぽい笑みを浮かべている彼女は今でも覚えている。出会ってから初めて彼女に茶化された気がした。結局、本当に自分の方が稼いでいるからという理由で券をくれたのかは分からない。

 "もしかしたら……いや、そんなはずはないか……"

 あるはずも無いことが頭の中を過った。
「雅君。旅館行く前にちょっと散歩しようよ」
「……そうだね。行こうか」
 大正浪漫を感じさせる建物は降り積もった雪によって更に味を出している。普段目にする事の無いその風景は一言で言えば美しく、気高さを感じる程だった。
「あ、ちょっとこの店寄ってもいい?」
「いいよ。俺もついて行こうか?」
「一人で大丈夫。雅君は別の所見ててもいいよ」
 そう言うと、彼女は一人で店に入って行った。俺は特に寄りたい店が無く、彼女の用が済むまで外で待つ事にした。
「……さっむ」
 足が棒のように固まり、体の芯から冷えるのを感じる。ダウンコートのポケットに手を入れ、縮まるように体を竦める。息を吐くと、白息は地元より一層濃くなって目に映る。
 このまま突っ立てっているだけでは凍え死にそうだったので俺はその辺を少し歩くことにした。先程まで彼女と歩いていた道を今度は一人で歩く。隣に誰かがいないだけでこうも変わるものか、と彼女がいないだけで少し寂しさを感じた。
「あの、すみません。これ落としましたよ」
 背後から女性の声が聞こえた。明らかに俺に向けられた声だったので俺は振り返った。そこにいた女性は俺のハンカチを手にしていた。
「え、あ!すみません、ありがとうございます」
 俺はハンカチを受け取る。すると、女性は静かにこう言った。
「もしかして、神崎 雅斗君?」
 女性は俺の名前を口にする。俺は言葉こそ出さなかったものの、内心は物凄く驚いていた。何故、見ず知らずの人が俺の名前を知っているのか、と。しかし、その声と雰囲気に妙に覚えがあり、必死に思考を巡らせると、ある人物と重なった。
「……いや、ごめんなさい。気にしないでく─────」
宮松みやまつさん、ですか?」
 俺は自信が無く、声量を落として言ったが、その女性の耳に届いたらしい。
「……本当に、神崎君なの?」
 女性の声は震え、見ると涙を流すのを堪えていた。俺は首を振る。
「よ、良かった……!」
 宮松という女性は手で顔を覆うと、立ったまま動かなくなった。
「連絡しないですみませんでした。今は元気ですから」
「……そう、安心した」
 宮松さんは少し溢れた涙を拭うと、少し間を空けて尋ねてきた。
「神崎君も旅行?」
「ええ、彼女と来てまして。この旅行も彼女が提案してくれて」
「へぇ~、彼女さんが。それじゃ、私はお邪魔ね。今度は定期的に連絡頂戴ね」
 色々話した後、宮松さんはそう言い残して去って行った。宮松さんを見送って俺は自身の腕に巻かれてる腕時計に視線をやる。彼女と別れてからそれなりに時間が経過していた。俺は来た道を戻った。


 彼女と別れた店の前に行くと、彼女が若い二人組の男性に話しかけられている光景が目に入った。男性二人は笑いながら彼女に話しかけている。彼女も傍から見ると、笑って話しているようにも見えるが、俺の目には困ってとりあえず笑って対応しているようにしか映らなかった。
 またか、俺は小さくそう呟く。地元では最近あまり見かけなくなった行為がまさかの旅行先で発生した。今思えば彼女は大学時代からあんな感じだったような気がする。容姿がいい故に近づく者が多いのだろう。まぁ、広い目で見れば俺もその内の一人でもある。
「奏海、待たせてごめん」
 何振り構わずに俺は男性二人に割って入った。
「あ?おい、なんだよお前」
 男性の一人が俺の肩を掴む。俺はそいつを睨みつけながら言った。
「俺の女なんだよ。気安く話しかけんな」
 自分でも驚くくらいの低い声だった。二人は分かりやすく怯え、慌ててその場から立ち去った。意外にもあっさり引いてくれて助かった。俺は息を吐くと、彼女に視線を移した。
「ごめん。もう少し早く来れば良かったね」
「……ううん。大丈夫だよ。だって、待ってれば雅君が助けに来てくれるって信じてたから」
 彼女の笑顔に心臓が大きく跳ねた。それは彼女と初めて会った時のように。顔が熱い。鏡で見なくとも今自分は赤面しているのだと分かる。そんな顔、彼女に見られたくなくて顔を背けた。
「何?もしかして、照れてるの?」
 背けた俺の顔を彼女が覗き込んでくる。
「……何でもないよ」
「絶対照れてるでしょ~。可愛いとこあるんだから」
 その言葉に何も言い返せなかった。
 しばらくして体温が平常に戻ったところで彼女が言う。
「そろそろ旅館行こっか」
 彼女の小さな歩幅に合わせて俺は隣を歩いて旅館に向かった。


 銀山温泉に到着して一番最初に目に留まった旅館が今夜泊まる旅館だった。昭和時代からあると言われている旅館。レトロな雰囲気を残しつつも現代の雰囲気に逆らわないモダン溢れる内装、それら二つが程よく融合した創りで趣のある旅館だった。
 受付でチェックインを済ませ、部屋へと向かった。
 床には畳が敷かれ、机が一つに座椅子が二つ。更に障子の戸の先に机が一つと椅子が二つ。パッと見た感じのインテリアはそのくらいだった。
 ふと、窓の外に目をやる。外に広がる景色は絶景で、街一帯を見渡せる程に見通しが良かった。先程、宮松さんと話していた場所まで見える。
「……」









 回想三【現実と悪夢】

 両親の葬式を終えた後。俺は一人暮らしをしていたアパートを離れて誰もいなくなった実家で暮らす事にした。何故そういう決断に至ったのかハッキリと覚えていない。単に気まぐれだったのだろうか。
 荷物を全て収納し終えた頃、俺はリビングの椅子に腰を下ろし、背もたれに寄りかかって天井をただぼーっと見つめていた。
 大学を卒業した今、必然と就職する訳だが、どうにもそういう気分になれなかった。その時に大学時代に言われた女子大生の言葉を思い出した。
『お父さんやお母さんに褒めてもらう為だけに目指してるの?』と。まさにその言葉通りだったと、この時初めて自覚した。その言葉が間違っていたのならきっと今頃、医師としての道を歩み始めていたか、それとも弁護士としての道を歩み始めていただろう。
 けど、俺はどちらの道にも進んでいない。その言葉が間違っているはずがない、と言わざるおえない。


 結局、俺は医師としての道を歩み始める事にした。医師としての働く為にはまず臨床研修医として二年間以上の経験を積まなければならないらしい。資格を取得するまでも大変だったが、いざ資格を取得しても簡単になれるものでもなかった。
「こんにちは。君が今日からの子?」
「はい、神崎 雅斗と申します。よろしくお願いします」
「私は宮松 結葉ゆいは。こちらこそ、よろしくね」
 俺が臨床研修医としての経験を積む為のサポート、教育をしてくれる宮松という女性に出会った。
「まず、やることは──────」
 最初に基本的なことを宮松さんが細かく説明してくれた。知識として大学時代に得た話が多かったが、真剣に話す宮松さんを見ていると、そんな事言ってられなかった。俺は宮松さんに合わせるよう自分の知識と話す内容を照らし合わせながら集中して話を聞いた。
 話を全て聞き終えた後、俺は早速実践に移った。ここが一番の問題だった。話を聞くのと実際にやるのは訳が違った。俺は失敗を繰り返し、物を壊してしまったりもした。
 俺は焦った。こんな失態続きでは医師などになれるはずがない、と。それに宮松さんに迷惑をかけたくなかった。その一心で手を動かしている俺に宮松さんの手がそっと触れた。
「そんなに焦らないで。初めてなんだから失敗していいじゃない。これからゆっくりでいいから、少しずつ出来るようになればいいわよ」
 その言葉を聞いた俺の手は止まった。それと同時に体全体の力が抜けるような感覚が俺を襲った。
 両親が亡き今も、大人になった今でも、幼い頃から縛られたものに囚われ、常に完璧を追い求める自分がいた。その縛りからは既に解放されたかと思っていたが、単にそう感じただけでどうやら俺はまだ縛られていたらしい。
『ゆっくりでいいから少しずつ出来るようになればいい』その言葉は俺を救ってくれた。早く出来る事に越したことはないが、時間をかけて出来た事だって早く出来たのと結局は同じ……そう気づかされた。


   *


 すっかり日が暮れ、街は闇に包まれた。闇の中で明かりが隙間なく灯り、昼間と錯覚させる程に光り輝いていた。外は再び雪が降り始めて気温は昼間と比べて一段と低くなっているのにも関わらず、体は暖かい。不思議な感覚だ。
 俺は今、人生で初めての温泉に浸かっている。如何せん、両親があんな性格だったが故に旅行などするばすがない。そうは言っても、自分自身も旅行に行きたいなどと思わなかったのもある。
 湯から上がる湯気と雪が降る光景は何とも見入るものだった。
 逆上せる前に湯から上がった。彼女の姿はまだ見当たらず、まだ中にいるのかと思いその辺に座って待つことにした。
 数分後……
「お待たせ。待った?」
 彼女の声が耳に入る。
「いや、そんなに待ってな……」
 初めて彼女と出会った時のように息を飲んだ。淡色の浴衣がよく似合う彼女の頬はほんのりと赤らんで髪は少しばかり濡れていた。それらは彼女の魅力を引き立たせていた。
「……?どうしたの?」
 しばらく黙り込んでいた俺に彼女はそう尋ねる。見惚れてた、と付き合っているとはいえ、気恥ずかしく流石に言えなかった。何事も無かったかのように振る舞うと、彼女はそれに気にするような素振りを見せずに一緒に部屋へと戻った。


 用意された豪華な食事の後、俺と彼女は障子の戸の奥にある椅子に腰を下ろして雑談をしていた。
 彼女との会話は時間を忘れる程、楽しく感じられる。これといった娯楽をたしなんで来た訳じゃないが、彼女との会話は俺にとってどの娯楽よりも楽しいものだと言える。
 だからこそ思う。俺は自分に空いた穴を彼女で塞いでいるのでは無いか、ただ利用しているだけでは無いかと。罪悪感が俺を襲う。
 

 "けど、もう全て終わらせてしまおう"


 自分の体が死期が近づいているのを訴える。俺に残された時間はもう少ないと、本能で悟る。
 余命宣告をされたあの日、俺は死ぬ為に生き始めた。臨床研修を途中で辞め、地元に戻った。そして、誰もいなくなった実家に一人で暮らすことにした。
 俺はその時、今まで他人との交流を深めて来なかった自分に初めて感謝した。もし関係が深まっていたら、その人と死ぬことによる別れがそれなりに辛くなるから。
 それなのに、俺は彼女と出会い、恋人という関係にまで発展させてしまった。けど、それは決して悪いことばかりではなかった。
「……」
 何故だろう……独りには慣れているはずなのに、今だけは寂しい。死からの恐怖心が心のどこかで芽生えているのだろうか。
 何度も誓って果たせていないこと、この旅行が終わったら俺は必ず、彼女に言うんだ。


 "────別れよう"と。

 
 全ては彼女の為でもあり、自分の為でもある。それは、これとは違う『別れ』が辛くならないように……

 朝、鉄のように重くなった体を起こす。少しばかり頭が痛いのは昨夜、なかなか寝付けなかったせいだと信じたい。台所に置いてある薬を水で流し込む。病院から処方された薬も底を尽きそうだ。もってあと三日。貰いに行こうとは思わない。きっと、その薬が無駄になるだけだからだ。
 顔を洗い、歯を磨き、私服に着替える。身支度を整え終えた俺は昨日、彼女に伝えた時間に間に合うよう、思い出深いあのカフェへと向かった。


 長いこと行っていたせいか、家からの近道を完全に熟知していた。店に辿り着き、案内してくれる店員も何度か顔を見たことがある。それはきっと、向こうも同じだろう。懐かしい席に腰を下ろし、一息つく。
 すると、すぐに彼女の姿が入口付近で見えた。彼女と目が合い、彼女は俺の座る席へと歩み寄る。
「なんか、待ち合わせの時って絶対雅君の方が先にいるよね」
 席を引きながらそう言う半笑いの彼女。
「確かに、言われてみればそうかもね」
 彼女の表情を合わせる。
「なぁ、奏海。今日は話したいことがあって呼んだんだ」
「知ってるよ。メールにそう書いてあったからね」
「……奏海。俺達、もう……」
 その後の言葉が喉に詰まった。何度発しようとしてもその言葉が声となって出て来ることは無かった。
 その時、彼女の声が耳に入った。
「別れたい……そう言いたいの?」
「……え?」
 思いもよらない発言に言葉が漏れた。微笑んではいるが、その目の奥は笑ってなくて、どこか悲しそうにも見えた。
 彼女の言ったことが正しく、俺が言いたいことだった。しかし、彼女の問いかけに答えることが出来ず、ずっと黙っていると、再び彼女が口を開いた。
「告白した場所で別れ話を切り出そうとするなんて中々に皮肉だね」
 嫌味を言っている様子ではなく、いつも通りの彼女だった。
「……奏海。正直なこと言っていいか?」
 彼女は何も言わずに首を振った。
「俺は多分、奏海を利用してただけなんじゃないかって思うんだ」
「利用?どういう意味?」
「奏海と出会った頃、俺は綺麗な君に一目惚れした。最初はただそんな感情だけだった。けど、一緒にいる日を重ねる毎に俺は君の中身に惹かれていった。中身っていうか、性格かな」
「性格……?」と、彼女は小さく呟いた。
「前にも話したけど、俺は両親から褒められた試しが無いし、優しくされたことも無い。だから、それを向けられるのがどんなものなのか、君と出会うまでは分からなかった。俺にとって君は誰よりも輝いて見えたし、どんなに偉い人よりも上の存在だと思ってる」
 少し間を空けて言葉を繋げる。
「幼い頃から向けられなかった優しさというものが大人になってようやく分かった。奏海に優しくされると、気分が高揚すると言うか……嬉しかった。今その瞬間だけは自分だけに向けられているという優越感もあった。それに、奏海の優しさは心地良かった。一般的に楽しいとされるものよりも、面白いとされるテレビを見ているよりも、俺は君といる時間が好きだった。単純に優しさを感じたいという子供みたいな理由でね」
 全て話し終えた後、二人の間だけに静寂が流れた。
 俺は恐る恐る彼女に視線を移す。怒られてもおかしくない話だと自分は感じていたからだ。しかし、彼女の表情はいつも通りだった。少しの変化を言うならば、考え込むような表情を浮かべていた。
「そんな理由が……」
 彼女は一言そう言った後、少しの静寂が流れた。しかし、その数秒後に彼女は核心をついた。
「でもさ、それでどうして別れたいってなるの?今更申し訳ないとか思ったから?そんな理由だったら、私は別れたくない」
「……俺は、本気で別れたいと思ってる」

 "嘘だ。本当はそんなこと思っていない。彼女と別れたいはずがない。ずっと一緒にいたい。だって、彼女が好きだから。容姿も性格も全てを含んだ彼女という存在が好きだから"
 "けど、これは全て互いの為を思っての結果なんだ。これがきっと、最前の行動……"

「どうして?ちゃんと理由を──────」
「頼むから、俺と別れてくれ!」
 気づけば俺は声を荒らげていた。周辺の客や店員の視線が俺達に集中する。やってしまった、そう後悔したのは一瞬、その流れで俺は強引に話を進めた。
「もうこれから家にも来ないでくれ。そして、もう俺と関わるな」
 俺はそう言い残して席を立った。一瞬、彼女の顔が視界に入った。出会ってから一度も見せてこなかった涙を流していた。俺は最低だ。彼女をそんな顔にさせてしまうような人間なのだから。
 カフェを出る時、俺は小さく呟いた。
「じゃあな、奏海」


   *


「……これで、いいんだよね?」
 彼のいなくなった席で私はバックから取り出した冊子を握ってそう呟く。最初から最後まで目を通し、最後のページに視線を向ける。

 雅斗 『じゃあな、奏海』

 そう書かれたのを最後にそこから先は真っ白だった。
 もう、この過去の世界から元の世界に帰らなくてはならない。
 だけど、帰りたくなかった。そんな理由は明確だった。

 "もうこの世に存在しない彼ともっと一緒に過ごしたいから"

 けど、それはもう叶わない。
『彼と出会ってから彼と別れるまでの期間のタイムスリップ。その期間中に絶対過去を変えてはいけない』
 そういう契約で私は過去の世界に来た。決して解消されることの無い後悔……それでも、私は彼と会いたかった。
 元の世界に戻ったら、もう二度と会えない彼。けど、今この世界では会うことが出来る。それは、手を伸ばせば届く程近くに……けど、それが許されない。
 そんなことを思うと、枯れたはずの涙が再び溢れて止まらなかった。冊子に自分の涙が滴り落ちて波紋のようにじんわりと広がる。
 すると、先程まで無かった文字が冊子の裏に浮かび上がるでいることに気づいた。私は冊子の裏に書かれた文に目を通す。

『"奏海"は"雅斗"と過ごしていた日々に終わりを迎えました』

 ただ一文、そう書かれていた。
「そんなこと、わざわざ書かなくても……分かってるよ」
 この後、何をすべきか分かっている。この過去の世界は全て私の持っている冊子……シナリオ通りに動いているのだから。
 彼に会えた喜びと後悔を胸に私はこの過去の世界を去った。


   *


 数年後……
 地方で医師としての仕事も大分安定してきた頃、私の勤めている病院に私宛ての一通の手紙が届いたという知らせを手紙と共に受け取った。内容が気になったものの、その日は混雑状態で手紙の内容を確認している暇なんてなかった。
 結局、手紙を開けたのは帰宅してからだった。
 封筒には『幸宮 奏海へ』と書かれていた。それ以外、住所なども何も書かれておらず、封筒だけでは誰から送られてきたのか分からなかった。封筒を丁寧に破くと、綺麗に折り畳まれた白い紙が二枚出てきて、そこにはびっしりと文字が書いてあった。
「え……嘘、でしょ」
 軽く目で追っていると、私は最後の送り主と思われる名が目に入った。そこには『神崎 雅斗より』と、そう書かれていた。
 見間違いか、そう思って目を擦ってもう一度確認しても、やはりそこに書かれている名前は数年前に亡くなった彼の名前だった。
『この手紙は祖父に奏海に渡すよう頼んであったものです』
 その一文だけで私の目には涙が溜まった。歪んだ視界の中、私は上から目を通した。
『俺は今まで隠してきたことをこの手紙で全て伝えようと思う。
 覚えてるか?俺が交通事故にあった日。交通事故ってなってるけど、あれは自殺未遂だったんだ。奏海と出会ってから死ぬ為に生きていた俺の日々に光が差し始めた。けど、気づいたんだ。俺は奏海のことを利用してるって。自分の為だけに、自分が欲しいものを手に入れる為だけに、君と付き合ったんだって。だったらいっその事、もう死んでしまおうって思った。
 でも、君をただ利用しているだけなら俺は別に君との別れを惜しまないし、悲しくもない。でも、実際の俺は違った。奏海と別れたくない、もっと一緒にいたい……って、思ったんだ。
 だから、君に別れ話を切り出したあの時、凄く胸が痛かった。本当はそんなこと思ってないから。でも、それが最善の行動だと信じて俺はああ言ったんだ。別れた方が自分の為にも奏海の為にもなると思ってね。
 正直、俺は奏海と出会ったことを後悔している時期があった。それは、自分の死期が近づいてきた頃。俺の生い立ちは話した通りで、俺はほとんど人と関わってないし、仲のいい友人なんていない。だから、死ぬことになんの恐怖も無かったから尚更。君を残して勝手に死にたいと思う程、俺はドライじゃないからね。ま、結局一人にさせちゃったけどね。
 最後に一つだけ、もう直接言えないから手紙で許してくれ』
 一枚目はそこで終わっていた。
 一枚目を机の上に置き、二枚目に視線を向けた。そこには一枚目と裏腹に下に余白を大きく持て余して一番上にただ一文書かれていた。
 その一文を読み終わった時には既に私の目からは涙が溢れていた。涙は持っている手紙に滴り落ちた。
「そんなの……私だって同じだよ」
 もう二度と会えない彼を感じられる手紙を私は強く握り締めた。私は涙が枯れるまでただひたすらに涙を流した。










   『ずっと、大好きだよ』







 あとがき

 いまいちピンと来なかった人の為に軽く解説しておきます。
 まず、今回の場面で雅斗と一緒に過ごしていたのは未来から訪れた奏海で未来から来た奏海は『過去を絶対に変えない』という契約で過去の世界に訪れました。
『過去を絶対に変えない』というのは次の一文と深く関わっている。
 それは、雅斗が別れ話を切り出した後、奏海目線に移った時の最後から二番目の文『この過去の世界は全て私の持っている冊子……シナリオ通りに動いているのだから』
 奏海の持っている冊子は過去の世界……つまり、奏海の過去の発言や行動、言動について細かく書かれた台本……シナリオである。
 もう分かったという人もいると思うが、最後までお付き合い願いたい。
 つまり、過去を絶対に変えてはいけない、というのはシナリオに書かれた言動以外やってはいけない。
 物語の裏側を知ることで一度、雅斗が死んだ世界を生きた奏海は過去の世界で本当はどうしたかったか、分かりますよね。
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