上 下
19 / 26
[一巻]

一限、煤掛中学校……2

しおりを挟む
 これを受けてのことだろうか。
 給食時になるとてい信部が忙しく走っていた。
 逓信部は煤掛中の部活動の中でも数少ない特殊な部活動である。というのも、その活動内容は学校内のみに限定された郵便配達業務に始まり、校門脇に置かれた丸ポストの取集、毎日ほぼ定刻にやってくるプロの郵便屋の応対等々、決して分け隔てのない側面からして、一見委員会のような性質を持っていることが挙げられるのだ。現にその活動は公のものであり、部員は十数人ほどの少数精鋭ながらにして、個人情報の秘匿を破る者は誰一人いなかった。
 だが、この部活動も古い歴史があるわけではない。そもそも委員会ではなく、部として存在するということは個人の意思がそこにあったからに他ならないのだ。その個人を、鉄也は知っていた。
 先々週の席替えにより、廊下側後方に席を設けていた鉄也は、窓を開いて疾走する影に声をかけた。
「前島、やけに騒々しいな。どうした?」
 濃紺の帽子を被った少女が黒髪をふわりとなびかせて振り向いた。その帽子には、お決まりの赤い郵便マーク。肩からは革製の黒鞄が垂らされていた。
「やぁ、西極君じゃない。今日は外信の預かりは承れないな。内信なら今日の預かりで、遅くても明日の朝には手渡せるかな」
「いや、出すものは特にねぇけど」
「内信、使ってみてね。便利だから」
 ここで言う外信と内信というのは、学校外と学校内への郵便を指す。外信は一日の取集が終わったのち、放課後に〈パルケ・ススカケ〉にある郵便差出箱へ投函される。内信は朝礼前と昼休み、放課後にそれぞれ預かっている。仕分け作業を挟むため、原則として配達は二回おき。つまり、朝礼前に差し出して、昼の仕分け、放課後の配達となるわけだ。いずれも、切手が必要となっているため、配達と同時に切手販売も行っている。その切手は部費でまかなわれているのだが、万が一の売れ残りの際には学校側が買い取る仕組みとなっている。ちなみに、内信は外信の半値での配達料となっている。例えば、一枚ものの葉書ならば内信には一〇円切手二枚と二円切手三枚が必要ということとなる。無論、校内では一〇円切手の需要が高かった。
 風変わりなシステムかもしれないが、利用者は高水準を維持していた。すべてはこの少女、前島仲枝まえじまなかえの熱意の賜物である。仲枝の父は煤掛の郵便配達員である。幼少からその取り組みを見ていた彼女は父に憧れ、嶽釜体制の煤掛中に入学するとともに、このシステムの導入を提案した。だが、入学当初はこれを見送られた。広い校舎ではあったものの、本人同士の手渡しは学校では当然のように行われていたことであり、何よりも携帯端末が普及した現代、軽いやり取りならメールでという意見が多かったのである。しかし、英梨が統領となるなり追い風が吹き始めた。統領執務室宛に設置された下駄箱前の意見箱にファンレターが殺到したのである。これに頭を悩ませていた彼女に、仲枝は直談判したのである。密書であろうと果たし状であろうと確実に配達する。その彼女の熱意を英梨が汲むことにより、現在のようなシステムが導入されたのである。
「今日は半分が統領執務室宛てだよ」
「なんか、えらいことになってるな」
 困り顔の仲枝の黒鞄を鉄也は指差した。
「逆に、統領様から各クラス宛てに速達を承っているよ。はい、二年五組宛て」
 仲枝から手渡されたのは、丁寧な筆字でクラス名が書かれた封書であった。赤字で[速達]という判が豪快に押されている。裏面には統領執務室と書かれてある。
 鉄也はさっそく、これを開封してみた。
『取急ぎにて、用件のみの通達と致します。本日昼休み後の五時間目授業に、統領選定選挙に関わるクラス周知を御願いします。通常授業が延期となりますが、何卒御理解御了承の程宜しく御願い申し上げます。第七十七代統領、一瀬英梨』
 そこに、席を外していた隣席の舞子が戻って来た。ロッカーへ葉書を取りに行っていたようだ。彼女もまた、仲枝とは親交がある部類だった。と言うのも、定期的に統領執務室宛ての内信を頼んでいたからであった。この日も、淡黄色の可愛らしい封筒を仲枝に手渡した。
「いつもありがとね。何もお返しとかできないけど」
「平気だよ。これも逓信部の活動だからね」
 すると、鉄也は給食の盆に載っていたコッペパンを袋ごと摘まみ、彼女の目前へと差し出した。
「持って行けよ」
「いいのかい?」
「どうせ、クラスに戻ってないんだろ。飯食えなくなるぞ」
 そこで、舞子は気づいた。鉄也が開けてしまったクラス宛ての封書にだ。彼女はこれを指差して喚いた。
「ちょっと、なんでてっちゃんが開けてるの?」
「いいだろ。どうせババアに渡すんだから」
「榛名先生、きっと怒るよ」
 こうした押し問答をしていた時であった。

 ――キンコンカンコーン
『二年五組の西極。昼休みに職員室榛名のところまで来るように。繰り返す。二年五組の西極……』

 調子のいい電子音に続いて校内スピーカーから聞こえてきたのは、年歯を感じる女性の嗄声であった。
 クラスはざわついた。また西極だ、と皆腹を抱えていたわけだが、当の本人は心当たりがなかった。それで、舞子に答えを求めようとしていたのであるが、
「日頃の行いだよ。封書の件もちゃんと伝えておいてよね。私達関係ないんだから」
「酷い言い草するよなぁ」
 そんな二人に会釈をして、仲枝は廊下を駆けていった。
 給食を済ませたのち、鉄也は単身で職員室へと赴いた。面倒事になるのは嫌だからと舞子に同伴も求めたのであるが、これは丁重に拒否された。
 榛名先生というのは、鉄也のクラスの女性教諭であり、事実上帰宅部の顧問であった。その齢は五十を過ぎており、美貌を語るには遅過ぎる容姿をしていた。それでも、美を求めんとするのはいつの世でも女心である。しかし、誰もがその心を気遣うわけではない。厚く塗り固められた化粧を初めて見た鉄也は彼女のことをクソババアと失笑したのである。これに端を発してのことか、いやいや歳のせいだろうか、彼女自身もまた開き直ったように厚化粧を重ね、しまいには「あたしゃ千年の時を生きる」などとうそぶくものだから、収拾は既につかないほどになってしまっていた。しかれども、こうした彼女なりの優しさというものは周囲からも理解されており、故にクラスの生徒からも好評であった。
 職員室は、存外にも静かであった。少人数の教諭は残っていたが、とりわけ目についたのは二学年の教諭のデスク群だ。榛名を除いては紙の一枚までも綺麗さっぱりと見当たらず、まさに殺風景と言うに相応しかった。
 黒い縮れ毛の女性は大金渕の眼鏡をずらすと、鉄也の姿を捉えた。淡い花模様のブラウスと、その上から羽織られた絹のカーディガンが歳のセンスを醸していた。
「来たね。まぁ座りなよ」
 先の嗄声の持ち主、榛名その人であった。彼女は向かいの一組教諭の席を指差すとこれに腰掛けるよう促した。
「御機嫌麗しいようで、ババア。ついにハブられたか」
「あたしゃ紫式部とお茶してたんだよ」
 こう互いに悪たれ口を嗜んだのち、顔を向かい合わせた。そして、先とは異なる小さな声で話を始めた。先に問い掛けたのは鉄也であった。
「にしてもなんだ。なんで昼休みなのに先生方がこんなにいない」
「みんな次期統領選絡みさ。今年は一瀬の時のようにはいかないね。あの子は確かに優秀だった。人を引っ張る力もあった。でも、最後の最後で自身の信用を擲ったのさ。あれはまずかったね」
「ルーシーの件か」
 榛名は缶珈琲に紅色の唇をつけると、こくりと頷いた。
「ルーシーだかキャサリンだか知らないがって、授業の合間にも抗議の生徒がこっちに来たよ。先生同士でも、あれはまずいんじゃないかって話になってきたわけさ。それでも、為石の担任はあの子を庇っていたけどね。まぁそれで、二学年の担任は各クラスの部長同士で話をつけて、一人ずつ代表者を出そうって腹に落ち着いたらしい。他の連中は、今頃統領執務室に怒鳴り込んでるんだろうね。普段ならあんな騒ぎにならないんだろうけど、嶽釜が留守中にあの演説はねぇ」
 この日は奇しくも嶽釜校長が不在であった。別段この日に限ったことでもなく、校長職としてこれまでにも度々不在にしていることがあった。その不在を誰も怪訝には思わなかったのであるが、榛名は彼ならば教諭達を制止できたかもしれないと考えていたのである。
「一組は間違いなく野球部の足あ立だち。二組はそのまま為石を推してくるだろう。三組は吹奏楽部の小澤がいたはず。四組には剣道部の高鍋か。この辺は堅いだろう」
 鉄也は閉口した。
 ルーシーを除いては粒揃いだ。演劇部が覇権を持つ煤掛中でなければ、上に立っていてもおかしくない面々である。
 ここまではS字廊下西半分のクラスであった。それで、残りの東半分の情報を聞き出そうと鉄也は耳を傾けたのであるが、
「自分で聞いて回りな」
 先までの勢いはいずこやら。こう言って、ペン立てから綿棒を摘んで耳を掻き始めたのである。一転して塩対応を決め込んだ榛名に鉄也は顔を近づけた。
「ババア。さては聞き逃したな」
「聞き逃しもひったくりもあるか。今日一日でここまで話が進んでるんだ。あたしだって、わけが分からないってものさ」
 榛名が耳孔から綿棒を取り出したのを確認すると、鉄也は前のめりだった上体を少しばかり引いた。
「ババアがそれじゃ、他の先生なんかはまるでパーだろ」
「人間は千年経っても変わらない生き物だからね。勇んで前に出たがる奴もいれば、引っ込んで沙汰が済むのを待つ奴もいる」
「で。あんたは引っ込んで済ます気か?」
「まさか」
 そこで、鉄也は開封済みの茶封筒を榛名に差し出した。
「給食の時間。うちのクラスに届いてたやつだ。見当はつくんだろ」
 榛名はこれを受け取ると、手で引き破いた切り口を見るなり、
「汚い開け口だね。刃物使って切るんだよ。馬鹿だね」
「うるせ。そもそも、給食くらい教室で食えって」
 榛名は口をぐっと噤むと、折りたたまれていた一枚紙に目を泳がせた。そして、それを元に戻すと机へ放り出した。
「なるほどね。一瀬もこの騒ぎに折れたか」
 この反応に鉄也も心当たりがあった。
「話が繋がった。統領は各クラスの代表選びを遠回しに認めたわけだ」
 榛名はこくりと頷くと、再度鉄也に前のめりを強制した。彼が近づくと、これは本題だが、と話を切り出した。
「うちは他のクラスに比べて部活動の部長職が際立って少ない」
「どうせババアの人選だろ」
「お前もその人選に引っ張られたんだから黙って頷きな」
「何を?」
 榛名は大金縁の眼鏡をくいっと引き上げると、鉄也の胸を指で小突いた。
「うちの代表として、統領選に出な」
 統領選出馬の条件として、次期部長つまり二学年の部長職であることが義務付けられていた。一見ハードルの高い話ではあるが、鉄也はこの条件を満たしていた。総勢一名の帰宅部部長。これを榛名は活かそうと目論んだのである。
 生徒総数千余人。学年あたり三百を超える生徒の中から統領の推薦を受けることは名誉なことであった。先述の各部の部長らも、滅多なことがない限りはそれを受け入れるはずだ。しかしながら、鉄也は違った。
「断る」
 一言できっぱりと、これを蹴った。
 榛名は目を丸くしていたのだが、彼の文句を脳で噛み砕くと突き立てた指先をぐっと彼の胸に押し込んだ。
「どこの部活に属する気もないで、指導する苦労もされる苦労もしないでここまで来たプウ太郎を、あたしが統領の候補に出すって言ってるんだよ」
「冗談は顔だけにしろよ」
「馬鹿。意味が分からないのかい」
「分かってもやらねぇよ」
 榛名はしかめ面をすっと収めると皺しわを伸ばすように自らの頬を叩き、そして視線を逸らした。決して仲違いではない。榛名も鉄也の性分は理解していた。彼が上に立ちたがらないことも。常に寄木を探し求めていることも。真意まで掌握しているわけではなかったが、その奥部に手を突っ込もうとは皆目考えてはいなかった。
「分かってた話か」
 こう溜め息混じりに漏らすと、腕を組んで鉄也に告げた。
「矢崎で固めようかね。定石通りになるが、仕方がない」
 舞子は部活動の枠のみに留まらず、多方面において親身に且つ丁寧な言動を心がけていた。彼女自身決してそれを苦とも思わず楽しんでいる節もあった。元より、ボランティア部は鉄也のような性分の生徒が数人ほどいたのであるが、彼女の寛大過ぎる心と膨大な活動範囲が災いしたのであろう。一人去り、また一人去り、気づけば彼女だけになっていたというのが実態である。決して腰掛けではない。こうした経緯もあって、クラスでは学級委員長も兼ねていた。目ぼしい生徒のいない五組にとって、彼女が推薦を受けることは安易に想像できることではあった。
「じゃ、そういうことで」
 鉄也は立ち上がろうとしたのであるが、すかさず榛名は彼の腕を引っ張った。
「なんだよ、ヤマンバ」
「お前。もう自分には関係ないと思ってるんじゃないだろうね」
 鉄也は薄々勘付いてはいた。分かりきっていたことを質問するだけだったら、事前に話をつけるということも兼ねて舞子も呼ぶべきであると。それだのに、彼女は呼ばれなかった。つまり、榛名が言いたいことは。
「矢崎の助手をやんな」
 これがすべてであった。
 一難去ってまた一難とはまさにこのことだ。鉄也もおいそれと頷かなかった。
「なんでだよ」
「矢崎を推薦したところで、組織票は望めないだろう。各クラス規模の大きい部の部長を引っ張ってくるはずだ。うちのクラスだって、ひとたび送り出しちまえば支持する子も限られてくる。いくら純真さが売りの矢崎でも息詰まっちまうさ」
「端から本気にしちゃいないんだろ」
 すると、榛名は鉄也を引き寄せて耳元で囁いた。
「あたしゃ大真面目だよ。よその話をしただろ。どこの担任も本気で自分のクラスから統領が出ると思ってる。人間ってのは千年経っても欲には勝てないんだよ」
「で、もれなくあんたも欲に塗れたいわけだ」
「できれば、この博打。勝ってみたいもんだよ」
「教師の口走ることかよ」
「まぁ、帰宅部の活動だと思ってだね」
 白い歯を剥き出す榛名を横目に映した鉄也は、渋々これを引き受けることにした。
 未だ事の沙汰を知らない生徒の笑い声が、廊下にはびこっていた。
しおりを挟む

処理中です...