水端ノ獣ノ物語

冴木黒

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戯翁

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 奥の壁が破壊され、割れた木板が飛んだ。
 大きく開いた壁の穴からのそりと現れたのは黒き怪物。人間の数倍はあろうかという巨躯の、光る目玉に裂けた口を持つ異形。
 化獣だ。
 誰かが叫んだ。
 盗賊たちは狼狽え、一斉に出口へ押し寄せる。
 だが、扉の前には少年が立ちはだかって動こうとせず、男の一人が焦って押しのけようとした。
 その手が体に触れる直前、少年が手首を掴んで止めた。その細腕からは信じられないほどの強い力だった。
 少年が言う。

「まだ返事を聞いていない」

 ヒッと、腕を掴まれた男の喉が鳴った。
 この状況下にあっても落ち着き払った少年の様子は、いっそ狂気のようでもあった。少年の、片側だけの赤い瞳がうっすらと輝いている。
 それが人間ではない何か、ヒトの皮を被ったバケモノのようで……
 背後で悲鳴があがった。
 化獣が男の体を捻り潰したのだ。
 錯乱し逃げ惑う盗賊を、化獣は手当たり次第に殺してゆく。

「嫌だ、嫌だ!」
「助けてくれ!」
「あっちだ、穴から逃げられるぞ!」

 武器を手に戦おうとする者も中にはいたが、抵抗虚しく振り払われた太い腕の餌食となる。
 辺りが血の海と化した凄惨な光景の中、少年は男の手を解放し、床に広がる血を跳ねさせながら化獣に歩み寄る。気配を察知した化獣は振り返り、手に持った肉塊を放り出すと、大きく吠え少年に襲い掛かろうとした。
 ところが、その動きがぴたりと止まる。
 今まさに鷲掴みにせんとする手が直前で凍り付き、化獣は少年を食い入るように見つめる。
 数瞬の間。
 少年は化獣に視線を据えたまま、体の脇に下げた腕を振り上げた。
 下段から刃に切り付けられた化獣は濡れた床に沈む。跳ねた血が少年の服に、顔に散る。
 動かなくなった化獣は霧のように細かな粒になって消える。

「バ、バケモノ……!」

 一連の様子を目撃していた男が、茫然と呟いた。一人逃げ遅れたのか、部屋の隅で腰を抜かし、がくがくと震えている。
 少年は人であったものの残骸を踏み分け、男に近づく。

「ヒィくるな、許してくれ、殺さないでくれ」

 腰が抜けて立てず、男は壁に背中を擦り付けながら懇願する。
 少年が短く問う。

「答えろ。お前たちが神殿に侵入したのか」
「ち、ちがう、オレらは村や旅人を襲うだけだ。神殿は警備が固いからオレ達だけじゃ無理だってお頭が……!」
「そう……」

 少年は刀を鞘に納め、立ち去る。
 壊れた家屋の中には、血と肉の塊だけが残されていた。


***


 廃村を出て東へ、半日かけて辿り着いたのは川沿いの村だった。
 夜が明けたばかりで、まだ眠りから覚めていない静かな通りを、ラムダは一人歩く。
 外套の隙間からヘビが頭を出して言う。

「この集落になんか用でもあンのか?」
「うん、一応聞きこみしようかなって。でもまだ早いみたいだから人が出てくるまでどこかで待って、それから」
「この道を進んだ先に広場がありますぞ」

 突然脇から声が聞こえた。
 ヘビがさっと外套の裏に引っ込む。人に見られて驚かれたり、騒がれたりすると面倒だからだ。
 振り返ると、石畳の道の端、民家の前に小柄な老爺が座り込んでいた。
 早朝の散歩でもしているのだろうか。とにもかくにも人だ。話が聞けるなら誰でも構わない。
 ラムダは老爺に近寄り、屈んで目線を合わせながら言う。

「おはようございます、おじいさん。少しいいですか?」
「はい、なんですかな」
「女の子を知りませんか? 十三歳の、僕と同じ髪の色で、テラって名前で」
「ふむ……」

 皺だらけの指で顎を撫でながら、老爺はまじまじとラムダを眺めて言う。

「見たこともありませんな」
「そうですか、ありがうございます」

 忽然と消えた妹。
 神殿の連中だって必死に探しているだろう。それでも見つかっていないのだ。
 ちょっと聞き込みしたくらいで、そう簡単に情報が手に入るわけもない。わかってはいても内心がっかりする。
 それでもラムダは丁寧に頭を下げると、教えられた広場に向かった。
 広場の中央には半壊した石像と、その周囲を囲むように石が詰まれていた。そうした意図で造られたものかどうかはわからなかったが、腰を下ろすのに丁度よさそうな高さだ。
 そこには先客がいた。ラムダは驚きに、何度も目を瞬く。
 石像の前にちょこんと座っているのは、腰の曲がった小柄な老爺。頭と口周りには豊かな白い毛が蓄えられており、黄色く濁った白目の目立つ眼球がこちらに向けられている。
 先刻、ここに来るまでの道で話した老爺だった。
 広場まではまっすぐに来た。後から抜かされた覚えもない。
 腑に落ちないままラムダは会釈をし、石像を挟んで老爺とは反対側に座る。
 ところがしばらくの後。
 ふと気配を感じて視線をやると、さっきの老爺がすぐ横にいた。

「うわぁ」

 思わず石の上から転げ落ちかける。
 ほっほと老爺が笑う。

「いやいや驚かせてしまい申し訳ありませぬ」
「あの、何か用ですか?」
「いえいえ別に。どうかこの年寄りのことはお気になさらず」
「はあ……」

 そうは言われても。
 チラチラと窺うような視線を何度も投げかけられて気にするなというのは無理がある。

「おじいさん」
「はい」
「この村のひと?」
「そう見えますかな?」

 つかみどころのなさに困ったラムダは、少しだけ尻を横にずらし老爺との距離を開いた。しかし老爺もまた同じだけ近づく。
 なんだろうこの人と思っていると、ヘビが外套から出てきた。

「ッたく、何やってんだお前さっきからゴソゴソゴソゴソ落ち着きがねェ。ん?」

 不満を垂れるヘビの赤い双眸が、老爺の方に向けられる。
 老爺が口の両端を持ち上げて笑う。

「なンだ、お前ニシキじゃねぇか」
「ご無沙汰しております、シロタエ様」
「ヘビ、知ってるの!?」

 ラムダは驚いて言った。
 ヘビがするりと二人の間に降りて言う。

「ああまァ。こいつはニシキつって昔からの、あー……知り合いで、本性はオレと同じだ」
「蛇の神様ってこと?」
「何度も言ってるが、オレもこいつも神なンかじゃねェよ。で、ニシキはわざわざそんな姿でなンか用か?」
「よくぞお聞きくださいました!」

 嬉々とした声が、朝の広場に響いた。
 老爺は地面に降り、ラムダとヘビの正面に立つと、胸に手を当て恭しく頭を下げる。

「実はこの老体もお二方の旅に同行させていただきたく……」

 ラムダはヘビを見る。
 ヘビはじっと老爺を見つめる。その目にはどこか冷たいような、呆れたような色があった。

「ニシキ」
「はい」
「一応聞いておくが、なンでだ?」
「はいィ~?」

 妙に間延びした返答と大きく首を傾げる様が白々しかった。

「どうしてオレ達と一緒に来たいのか、理由を聞かせてもらおうか?」

 老爺は中途半端に微笑んだ顔で、しばらく何も言わなかった。
 途中、丸い目玉だけが動いてラムダをちらりと盗み見し、僅かに細められる。
 豊かな髭に覆われた顎を親指で撫でながら、もう一度ラムダを、今度は頭から足の先まで視線を行き来させ、それからしみじみと呟く。

「良い膝でございますなぁ」
「え?」
「少女のような可憐な面立ち、華奢な手足に、細い首、声変わりこそしているようですが、まだまだ熟す前の果実さながら清廉な青さが際立っておられる。さて、年の頃は十五、六といったこところでしょうか?」
「当たってるが、だいぶ気色わりィからその辺でやめとけ……いや、聞いたのオレだが。相変わらずお前やッべェな……」
「何を仰います!」

 ヘビが引き気味に言ったが、老爺は拳を握りしめ身を乗り出してくる。

「少年とは、ひとときの幸福な夢! 限られた時の中で咲き誇り、輝き、そして散りゆく儚き花の命そのものでございます! その尊さを愛でようとしないのは、芸術を理解せぬ俗物と同じこと!」
「わかった、わかったからちょっと黙れ」

 ヘビがラムダを振り返って言う。

「コイツはこういうヤツでな。断ってもいいが、どうせ後からコソコソついてくるに決まってる」
「ワタクシめのことをよくご理解いただいているようで恐悦至極」
「まあ見てのとおりやべェ奴だが、多分、害はない……」

 ラムダとヘビの間で何度も視線を往復させる様子を見て、ヘビは言葉を継ぎ足す。

「ことはない気がしなくもねェな、ウン……」
「とんでもございません。優れた芸術をただ鑑賞することを罪とは言いますまい。決して同意なく触れたりは致しませんぞ」
「同意があったら触ンのかよ」
「それはまあ」
「だそうだ」

 ヘビがラムダに向けて言った。
 ラムダは老爺をじっと見つめる。
 老爺は上目遣いにラムダを見上げながら、口元の笑みを深くする。
 そんな睨めっこが少し続いて、ラムダが言う。

「いいよ、一緒に行こう」
「おお、ありがたき幸せ。それでは膝に触れさせていただいても?」

 ラムダは無表情で、首を横に振った。

「では人差し指だけ! 指先だけでは」

 食い下がる老爺に、ラムダはやはり首を横に振る。
 しばらくの間、懇願する老爺と無言で拒絶の意思を示すラムダの攻防が続いた。
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