15 / 67
溶けて消える
しおりを挟む
「覚えてるか?」
朝から降っていた雨はいつの間にか止んでいて、空はすっかり晴れ渡っていた。
開け放たれた窓から星を見上げながら、主が言った。
「昔、二人で城を抜け出したことあったよな」
「はい。山に遊びに出かけて、迷ったんですよね」
「日が暮れて真っ暗で、鳥の声が不気味で、木の枝や葉がオバケのように見えて怖かったな」
怯えながらも、二人で手をつなぎ歩き続けた。
そうして木々の途切れた場所に出た時、見上げた星空の美しさは今でも覚えている。
主はすっと腕を伸ばして人差し指を空に向けた。
「あの星だったよな」
「そうですね」
真北に見える、ひときわ強い輝きを放つ星。
動くことがなく、ずっと同じ位置にあるという。
使用人が父親から教えてもらったと聞き、それを頼りに方角を見定めたのはまだ幼かった主だった。
互いに互いの手を握り、再び歩き始めて。
そうしたら二人を探しに来た大人たちと会うことができて、無事城に帰ることができたのだった。
「もしも道に迷うことがあったなら、あの星を頼りに進むといい。おまえの親父さんの言葉だったな……」
「はい」
まだ冷たい夜の風が吹き込んで、カーテンを揺らす。
主は頬杖をつき、うっとりとしたように呟いた。
「星が綺麗だな……」
使用人の日記 3月25日
あの方はおれよりも二つ年上で、子どもの頃はよく一緒に遊んでもらったものだった。
なんでもよく知っていて、色々なことを教えてもらった。
おれにとって、あの方はあの動かない星そのものだ。
今までも、そしてこれからも……
***
「悪いな、おまえには色々世話になって……苦労かけて」
ベッドに横になったままの状態で主が言った。
声は弱々しい。
使用人は黙って首を横に振ると、ベッド脇の卓に水差しを乗せた盆を置いた。
上半身を起こした主に、水を注いだカップを手渡す。
「少しでも何か食べられませんか?」
「いや……今はいい。また、腹が減った時に頼むよ」
主は一口だけ水を口に含んだだけでカップを盆の上に戻してしまう。
そしてまたベッドに体を横たえた。
「少し寝るな、昨日はよく眠れなくて………」
少しして、穏やかな寝息が聞こえてくる。
きちんと布団をかけなおし、使用人はその寝顔を見つめる。
そしてしばらくの間、その場を離れなかった。
使用人の日記 4月6日
日に日に弱っていく様子は、見るに耐えない。
食欲もあまりないようで、また少し瘦せたようだ。
ひどい時には、水を飲んだだけでも吐いてしまう。
痛みを和らげる薬があと少しで切れそうだから、また街に行かなければいけない。けれど街までどれだけ急いでも半日はかかる。その間、あの方を一人にしてしまうのが心配だ。
***
「星が見たいな、一面の星空。なあいいだろ? 少しだけ、少しだけでいいから」
夜中に近い時間だった。
子どものようにせがむ彼の望みを、使用人は聞き入れた。
春が近くなるにつれ、夜でも以前のように冷え込むことはない。
それにこの数日、主の容態は安定している。
短い間なら大丈夫だろう。
薄手の毛布でやせ細った体を包み、肩を貸して歩く。
夜の湖は静かで暗く、少し不気味だった。
近くの草地に彼は腰を下ろし、使用人はいつものとおり後ろに下がろうとしたところ、服の裾をそっと引かれた。
「隣に」
「でも」
「今日だけでいい。なあ頼むよ。昔みたいに、な?」
「………」
主人だとか、従者だとか関係なく、ただの友人として隣に並び共に遊んだあの頃のように。
二人で空を見上げる。
「あれが、海ヘビ座、乙女座、大熊座、小熊座……でしたよね」
「よく覚えてるなあ」
「おれがあなたに教えられる唯一のことですから」
星を見るのが好きだった主のために、使用人は父から星座や星の名前を教えてもらった。
膝を抱えた使用人の腕に何かが当たった。
「 」
懐かしい呼び名だ。
主は口を開きかけて、けれどすぐに閉じてしまう。
何かを言いかけて、やめたように見えた。
「どうしましたか? 具合が悪いのなら部屋に……」
「いや、大丈夫」
「無理はしないでください。星は逃げませんから、明日また見に来ましょう」
「うん、ありがとう」
素直に頷く主を再び支えて、使用人は立ち上がる。
城に戻り、ベッドに寝かせて、それから言った。
「おやすみなさい。良い夢を」
使用人の日記 4月8日
いつもどおりちょっと微笑んで、「おやすみ」と言って。
顔色だって悪くなかった。
だけど。
朝、まるでただ眠っているだけかのように彼は亡くなっていた。
朝の光の中、今にも目を開けて、起き上がってきそうに見えた。
でも、いくら声をかけても、体をゆすっても、なんの反応もなかった。
穏やかな顔をしていたのは、唯一の僥倖だったのかもしれない。
苦しまず、本当に眠っている間に息を引き取ったのであれば……それだけでも。
だけどおれは……
最後の時まで傍にいようと決めたのに。
最後の最後で、彼を一人にしてしまった。
朝から降っていた雨はいつの間にか止んでいて、空はすっかり晴れ渡っていた。
開け放たれた窓から星を見上げながら、主が言った。
「昔、二人で城を抜け出したことあったよな」
「はい。山に遊びに出かけて、迷ったんですよね」
「日が暮れて真っ暗で、鳥の声が不気味で、木の枝や葉がオバケのように見えて怖かったな」
怯えながらも、二人で手をつなぎ歩き続けた。
そうして木々の途切れた場所に出た時、見上げた星空の美しさは今でも覚えている。
主はすっと腕を伸ばして人差し指を空に向けた。
「あの星だったよな」
「そうですね」
真北に見える、ひときわ強い輝きを放つ星。
動くことがなく、ずっと同じ位置にあるという。
使用人が父親から教えてもらったと聞き、それを頼りに方角を見定めたのはまだ幼かった主だった。
互いに互いの手を握り、再び歩き始めて。
そうしたら二人を探しに来た大人たちと会うことができて、無事城に帰ることができたのだった。
「もしも道に迷うことがあったなら、あの星を頼りに進むといい。おまえの親父さんの言葉だったな……」
「はい」
まだ冷たい夜の風が吹き込んで、カーテンを揺らす。
主は頬杖をつき、うっとりとしたように呟いた。
「星が綺麗だな……」
使用人の日記 3月25日
あの方はおれよりも二つ年上で、子どもの頃はよく一緒に遊んでもらったものだった。
なんでもよく知っていて、色々なことを教えてもらった。
おれにとって、あの方はあの動かない星そのものだ。
今までも、そしてこれからも……
***
「悪いな、おまえには色々世話になって……苦労かけて」
ベッドに横になったままの状態で主が言った。
声は弱々しい。
使用人は黙って首を横に振ると、ベッド脇の卓に水差しを乗せた盆を置いた。
上半身を起こした主に、水を注いだカップを手渡す。
「少しでも何か食べられませんか?」
「いや……今はいい。また、腹が減った時に頼むよ」
主は一口だけ水を口に含んだだけでカップを盆の上に戻してしまう。
そしてまたベッドに体を横たえた。
「少し寝るな、昨日はよく眠れなくて………」
少しして、穏やかな寝息が聞こえてくる。
きちんと布団をかけなおし、使用人はその寝顔を見つめる。
そしてしばらくの間、その場を離れなかった。
使用人の日記 4月6日
日に日に弱っていく様子は、見るに耐えない。
食欲もあまりないようで、また少し瘦せたようだ。
ひどい時には、水を飲んだだけでも吐いてしまう。
痛みを和らげる薬があと少しで切れそうだから、また街に行かなければいけない。けれど街までどれだけ急いでも半日はかかる。その間、あの方を一人にしてしまうのが心配だ。
***
「星が見たいな、一面の星空。なあいいだろ? 少しだけ、少しだけでいいから」
夜中に近い時間だった。
子どものようにせがむ彼の望みを、使用人は聞き入れた。
春が近くなるにつれ、夜でも以前のように冷え込むことはない。
それにこの数日、主の容態は安定している。
短い間なら大丈夫だろう。
薄手の毛布でやせ細った体を包み、肩を貸して歩く。
夜の湖は静かで暗く、少し不気味だった。
近くの草地に彼は腰を下ろし、使用人はいつものとおり後ろに下がろうとしたところ、服の裾をそっと引かれた。
「隣に」
「でも」
「今日だけでいい。なあ頼むよ。昔みたいに、な?」
「………」
主人だとか、従者だとか関係なく、ただの友人として隣に並び共に遊んだあの頃のように。
二人で空を見上げる。
「あれが、海ヘビ座、乙女座、大熊座、小熊座……でしたよね」
「よく覚えてるなあ」
「おれがあなたに教えられる唯一のことですから」
星を見るのが好きだった主のために、使用人は父から星座や星の名前を教えてもらった。
膝を抱えた使用人の腕に何かが当たった。
「 」
懐かしい呼び名だ。
主は口を開きかけて、けれどすぐに閉じてしまう。
何かを言いかけて、やめたように見えた。
「どうしましたか? 具合が悪いのなら部屋に……」
「いや、大丈夫」
「無理はしないでください。星は逃げませんから、明日また見に来ましょう」
「うん、ありがとう」
素直に頷く主を再び支えて、使用人は立ち上がる。
城に戻り、ベッドに寝かせて、それから言った。
「おやすみなさい。良い夢を」
使用人の日記 4月8日
いつもどおりちょっと微笑んで、「おやすみ」と言って。
顔色だって悪くなかった。
だけど。
朝、まるでただ眠っているだけかのように彼は亡くなっていた。
朝の光の中、今にも目を開けて、起き上がってきそうに見えた。
でも、いくら声をかけても、体をゆすっても、なんの反応もなかった。
穏やかな顔をしていたのは、唯一の僥倖だったのかもしれない。
苦しまず、本当に眠っている間に息を引き取ったのであれば……それだけでも。
だけどおれは……
最後の時まで傍にいようと決めたのに。
最後の最後で、彼を一人にしてしまった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
男女比がおかしい世界の貴族に転生してしまった件
美鈴
ファンタジー
転生したのは男性が少ない世界!?貴族に生まれたのはいいけど、どういう風に生きていこう…?
最新章の第五章も夕方18時に更新予定です!
☆の話は苦手な人は飛ばしても問題無い様に物語を紡いでおります。
※ホットランキング1位、ファンタジーランキング3位ありがとうございます!
※カクヨム様にも投稿しております。内容が大幅に異なり改稿しております。
※各種ランキング1位を頂いた事がある作品です!
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
おっさん武闘家、幼女の教え子達と十年後に再会、実はそれぞれ炎・氷・雷の精霊の王女だった彼女達に言い寄られつつ世界を救い英雄になってしまう
お餅ミトコンドリア
ファンタジー
パーチ、三十五歳。五歳の時から三十年間修行してきた武闘家。
だが、全くの無名。
彼は、とある村で武闘家の道場を経営しており、〝拳を使った戦い方〟を弟子たちに教えている。
若い時には「冒険者になって、有名になるんだ!」などと大きな夢を持っていたものだが、自分の道場に来る若者たちが全員〝天才〟で、自分との才能の差を感じて、もう諦めてしまった。
弟子たちとの、のんびりとした穏やかな日々。
独身の彼は、そんな彼ら彼女らのことを〝家族〟のように感じており、「こんな毎日も悪くない」と思っていた。
が、ある日。
「お久しぶりです、師匠!」
絶世の美少女が家を訪れた。
彼女は、十年前に、他の二人の幼い少女と一緒に山の中で獣(とパーチは思い込んでいるが、実はモンスター)に襲われていたところをパーチが助けて、その場で数時間ほど稽古をつけて、自分たちだけで戦える力をつけさせた、という女の子だった。
「私は今、アイスブラット王国の〝守護精霊〟をやっていまして」
精霊を自称する彼女は、「ちょ、ちょっと待ってくれ」と混乱するパーチに構わず、ニッコリ笑いながら畳み掛ける。
「そこで師匠には、私たちと一緒に〝魔王〟を倒して欲しいんです!」
これは、〝弟子たちがあっと言う間に強くなるのは、師匠である自分の特殊な力ゆえ〟であることに気付かず、〝実は最強の実力を持っている〟ことにも全く気付いていない男が、〝実は精霊だった美少女たち〟と再会し、言い寄られ、弟子たちに愛され、弟子以外の者たちからも尊敬され、世界を救って英雄になってしまう物語。
(※第18回ファンタジー小説大賞に参加しています。
もし宜しければ【お気に入り登録】で応援して頂けましたら嬉しいです!
何卒宜しくお願いいたします!)
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる