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シスターガブリエラと彼女のカルボナーラ

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 シスターガブリエラの好物はパスタである。

 パスタであれば何でもいいというわけではない。彼女の好きなのはカルボナーラだ。芯が残るか残らないぐらいの絶妙な加減でゆでられたショートパスタに、修道院で飼育されているカタリナ(牛)の搾りたての乳から作られた生クリーム、庭で自由に伸び伸びと育ったフランチェスカ(鶏)が産んだ新鮮な卵、先月、神の御許へと召されたフランシーヌ(豚)から作られたパンチェッタ、素晴らしい材料がそろっていた。そしてこれを完璧に作り上げ、仕上げられる料理人がジュリアという完璧な料理人がいた。今日の調理担当のジュリアはまだ誓願前のシスター見習いだったが、日本という異国育ちにもかかわらず、次々とこちらの料理をマスターし、ガブリエラをはじめとする食通のシスター達に喜ばれる存在となっていた。まさに、完璧な一皿となるための条件がそろっていた。

 灰の水曜日から46日という長い間、修道院の掟に従い、一切の肉類を避け、パン、スープ、豆と野菜の煮込み料理だけで過ごしてきた。そのせいか、ここの所、すこぶる体調が悪く一昨日まで寝込んでしまった。しかし、今日、ガブリエラはこの一皿を食べるためにほぼ気合で治した。病人食のオートミールなどを出されては、もっと体が弱ってしまうという危機感もあった。これまでのつらい日々にガブリエラが思いをはせていると、配膳担当のシスター達が古いカートをギイギイ言わせながら、キッチンからダイニングに入ってくる。彼女達も、久しぶりのごちそうに気が急いているのか、いささか乱暴にテーブルに座っているシスター達の前に皿をおいていった。

 今日は平日の昼間と言うこともあり、食堂にいるシスターの数は普通より少なかったが、おなかがすいているせいか、いつもより時間がかかっているような気がした。やがて、彼女の前に待ちわびていたパスタの一皿がおかれると、温かい湯気とともにパンチェッタの香ばしい香りとクリームの濃厚な香りが、鼻をついた。ガブリエラは思わずつばをごくりと飲み込む。

「ついにこの時が、ああ、なんて素敵なのかしら」

 ガブリエラが、味気なく単調な食生活から解放される時がやっと訪れようとしていた。これから訪れる至福の時を想像して、ガブリエラは一人、うっとりと悦に入った。ドーパミンが脳内で分泌されているのが
 やがて最後の一人の前に皿が置かれると、修道院長が軽く咳払いをした。食前の祈りの合図だ。ガブリエラとほかのシスター達は手を組み、祈りの準備をする。

「天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天に…」

 朗々とした声で修道院長が祈りの言葉の最初の部分を食堂の隅々までに響かせると、途中からガブリエラを含むほかのシスター達も目を閉じ、祈りの言葉を唱え始める。ガブリエラは祈りの言葉を唱えつつも、薄目をあけて、目の前のカルボナーラを見つめていた。いつ、このカルボナーラがさめてしまうのかと思うと、たまらなかった。院長はこういう特別な行事の時の祈りの言葉が長くなるのが常だったのもあって、気が気でならない。ここにこうしてこんな美味しい食べ物を与えてくれる神に感謝するためにも、一番おいしい状態でいただかないことの方が神への冒涜ではないか、とガブリエラは思ったが、それを口にすることはもちろんない。ただ、口で神の祈りを唱えつつ、一心に早く終われと心の中で念じるだけである。

「アーメン」

 院長の祈りはやはり長かった。目の前のカルボナーラからはかすかに湯気が立ち上るくらいで、冷めつつあるのは間違いなかった。今食べなければ、ガブリエラは目を見開き、右手でフォークを握りしめる。そして、それを静かに、しかし大胆にできるだけたくさんのパスタをフォークに突き刺せるように、研究し尽くした角度でパスタの皿の中に突っ込んだその時だった。

「大変です!イーゾラの町が襲われています」

 肩で息をしながら見習いのジュリアが食堂の扉を開いて、入ってきた。それを聞いた院長は片方の眉毛をあげ、フォークをテーブルの上に戻した。続いて他のシスター達も院長に習ってフォークを置く。
 イヤな予感がする、ガブリエラは思った。悲しいかな、ガブリエラのこう言った直感はイヤなものに限って当たる。

「シスターガブリエラ、フォークをおきなさい」

 院長のその声が聞こえなかったかのように、目の前のカルボナーラを見つめたまま、ガブリエラは握りしめていたフォークを置こうとはしなかった。無駄なあがきだとは分かっていても、目の前のパスタを食べる事をあきらめたくなかった。フォークを置かないのは院長に対する精一杯の意思表示だった。

「ガブリエラ、聞こえないのですか?もう一度言います。シスターガブリエラ、フォークをおきなさい!」

 優しい声ではあったが、そこに含まれた静かな怒気と迫力に負けて、ガブリエラはしぶしぶフォークを置いた。
「命令です。ジュリアを連れて、イーゾラの町に行き、住民を助けるように」
「しかし、院長。私では何のお役にも立てません。一昨日まで高熱で寝込んでおりましたし、非力な私になにができるでしょう?」
「おや、まぁ」
 院長はつぶやくようにそう言った後、じっとガブリエラを見つめ、ガブリエラは抗議の意味を込めて、院長をきっと見つめ返した。
「行かないと言うのであれば、仕方がありませんね。ジュリア、ガブリエラの食事を下げておしまいなさい。罰として、あなたの食事はこれから二十日間、スープとパンだけとします」
「えええええええ!」
 ガブリエラは大声で叫んだ。絶望で目の前が真っ暗になり、目から涙があふれてきた。ジュリアはすみません、といいながら、ガブリエラのカルボナーラの皿を下げた。何もなくなったテーブルの上に、ガブリエラの大粒の涙がぼたぼたと落ちる。
「もし、あなたが、今からでも行くというのなら…」
「いうのなら?」
ガブリエラは涙がこぼれないように必死に前を向きながら、そう聞き返して、院長の次の言葉を待った。
「反省していると見なして、戻ってきたときにジュリアにこの二倍の量の食事を作らせましょう」
 さて、どうします?、と院長は満面の笑顔でガブリエラに尋ねた。一見、穏やかに見える完璧な笑顔。だが、そこにいる修道女は皆、院長が心底、ガブリエラに腹を立てていることを知っていた。その証拠に院長の口元は笑っていても、目元は笑っていない。彼女は本当に怒っているのだった。何十年と神に仕え、この歴史ある修道院を仕切ってきた院長の静かな怒りに周囲の修道女たちは震え上がった。

 ガブリエラは院長の迫力にくじけそうになる心を抑え、目元の涙を袖でぬぐい、意を決して、椅子から立ち上がった。カルボナーラなしの生活とカルボナーラありの生活、ガブリエラに選択の余地はなかった。彼女はそのまま、院長の前に進み、ひざまずいた。その隣にジュリアが進み出て、同じようにひざまずく。

「あなた達に神のご加護がありますように、アーメン」
 院長は旨の前で十字を切った後、短い祝福を彼らに授けた。
「では、ジュリア、あなたからお預かりしていた刀はお渡しします。ガブリエラ、あなたの銃はここに。二人にはここに神とこの伝統あるイゾーラ修道院の名において、住民を守るために必要とされる、ありとあらゆる行動をとることを許可します」
「了解いたしました」
 ガブリエラはつぶやくようにそういって、ほかのシスター達が美味しそうにカルボナーラを食べるのを横目で見ながら、後ろ髪をひかれる思いで、イゾーラの町へと向かった。

            *
 
「なんてことでしょう。やりたい放題のようです。義勇軍とは名ばかりの山賊になりさがったということなのでしょうか」
 ジュリアは双眼鏡を見ながら、眉間にしわを寄せた。春先とはいえこのあたりは山の中腹にあるこのあたりは、まだ寒さが残っていた。空気のピリッとした冷たさにジュリアは体をぶるっと震わせた。双眼鏡の先には、家の中から金目のものを運び出すもの、いやがる女を引きずって欲望を満たそうとするもの、老若男女をとわず、抵抗するものを殴りつけ、暴力をふるうもの。そこには己の欲望をむき出しにし、弱いもの達を蹂躙している男達がうつっていた。
 この国の政情は危うい。強国に囲まれたこの国は常に脅かされ、いくつもの国に分けられていた。強国の小競り合いに巻き込まれては、何度も国境が引きなおされ、隣村が別の国になったという事もあった。ジュリアの言う義勇軍を率いるガレル将軍はこの国の統一を掲げ、片田舎で挙兵したとの話だ。詳しいことは知らないが、ガレル将軍は高潔で、誠実な人間だとのうわさも聞いていた。しかしながら、目の前にいる義勇軍とやらにその高潔さのかけらもない。義勇軍と名を借りた、ただの山賊なのかもしれないと、ジュリアは思った。

「まったくもって、腹立たしい」

ジュリアが双眼鏡から目を離して、声のする方を見上げると、ガブリエラが泣いていた。大粒の涙をぬぐいもせず、おいおいと泣いている。

「こんなクソみたいな連中のために貴女の作ったカルボナーラが食べられなかったなんて、本当に許し難い」

「え?あ、っそ、そこですか?」
 ジュリアが、呆けたように聞き返したが、ガブリエラはそれには答えなかった。涙を袖で拭うと同時に、軽い身のこなしで山を駆け下りていく。ジュリアも、慌てて、後を追った。一昨日まで寝込んでいたとは思えないほど俊敏な動きだ。食べ物に関わることになると、ガブリエラはとてつもない力を発揮する。どこにこんな力が残っていたのだろう、ジュリアはいつも不思議に思っていた。この修道院に見習いとして入って、まだ、3か月だが、ガブリエラは体が弱く、寝込んでいることも多い。ただ、どんなに具合が悪くても、食事に肉がはいっていると、這うように食堂に来て、必ず食べる。灰の水曜日の前に豚のローストが出たときも、38度の熱があったのにもかかわらず、彼女は恍惚の表情を浮かべて、食べていた。彼女の食べ物に対する執着心はすさまじいものがあった。
 そうこうしているうちに、2人は麓の町にたどり着いた。肩で息をしながらジュリアがガブリエラを見ると、彼女は息一つ乱していなかった。彼女はまっすぐに一点を見つめていた。ジュリアが彼女の視線の先には若い十代ぐらいの娘が身を隠していたと思われる納屋の扉から引きずり出されているところだった。
「恥を知りなさい!」
 男達が一斉にこちらに振り向いた。しかし、声を発したのが女性で、しかも、シスターだと気がつくと彼らはとたんに下卑た笑みを浮かべ、ガブリエラとジュリアをあざけった。
「おやまあ、これは山の上の修道院におすまいのシスター様ですか?わざわざ、我らのような卑しいもの達をお出迎えくださるとは光栄の極みです」
 男の中の一人が笑いながら言った。
「その子を離しなさい」
 ガブリエラは静かに言った。
「離す?離したら、あなた方がお相手してくださるのでしたら、離してもいいですよ」
げらげらと笑う間も男たちはその汚らしい手で少女の白い肌をまさぐることをやめない。少女は涙を浮かべた目で、すがるようにこちらを見、震える手を伸ばしてくる。
「目が、赤い」
 ジュリアは振り返った兵士たちの目が一様に赤く、ぎらぎらと光っているのに気が付いた。彼らの目は実際、血走っているのではなく、血のように真っ赤なのだった。

「悪魔憑き、ですね」

 ジュリアは息を吸いながら、日本刀に手をかける。ガブリエラもそのようねと言いながら、ガーターベルトから銃を引き抜く。
「物騒なものをお持ちですなあ、怖い怖い」
それを見た兵士たちは彼女たちの武器を見ても、驚くそぶりも見せなかった。単なる脅しだろう、何もできないのに違いないと下に見ているのだろう。ジュリアは舌打ちをし、彼らの一人に銃を向けた。が、その手を下げさせたのはジュリアだった。
「シスターガブリエラ、なりません。悪魔憑きだと申し上げました。彼らは人間なのですから、殺してしまっては彼らの思うつぼです」
「あら、でも人間に化けてるだけかもしれないじゃない?」
ジュリアは刀の柄から手を離して、ポケットから瓶を取り出した。それから、大きくかぶりをふって、少女を押さえつけているひげ面の男めがけて、投げつけた。宙にきれいな弧を描き、男の肩のあたりにあたった。パーンッと甲高い音をさせて瓶が割れ、中身の液体が周囲に飛び散った。液体がかかった兵士たちの肌からは煙のようなものが立ち上り、彼らは断末魔の声をあげて、のた打ち回った。不意に束縛が解けた少女が泣きながら、こちらに逃げてくる。
「聖水でこんな風になるという事は、化けて出るようなそこまで高等なモノは、彼らに憑いていない。何処かに本体がいるはずです」
「じゃあ、まずその本体を見つけないといけないのね。まどろっこしい。悪魔につかれるような弱い男なんて、そのまま滅びてしまえばよいものを」
忌々しそうにガブリエラが言うと、ジュリアがたしなめた。
「シスターガブリエラ、あなたはシスターなのですから、もう少し、寛容にならねば」
「寛容ねえ。こうしてみると見習いのあなたの方が、私よりもよっぽどシスターだわね、ジュリア。でも、私は私のカルボナーラを邪魔するようなやつらに寛容になんてなれないわ」
「ええ、でも、彼らだって好きで憑かれたわけでは…」
「そんなことわかっているわ。でもね、46日間よ!46日間もの長い間、お肉が食べられなかったのよ。そして、今日でてきたのは私の大好物のカルボナーラ!しかも、ジュリア、あなたが作った最高のカルボナーラ!ただのカルボナーラじゃないの。夢にも何度も見たのよ。それを邪魔されたら、寛容になんてなれっこないわよ」
カルボナーラが下げられていくときの気持ちを思い出して、ガブリエラは心底悲しくなり、また大粒の涙をこぼした。ジュリアはそれ以上何も言えず、ただ、黙って、どうやって、ガブリエラをなだめようかと考え込んだその時だった。

「シスター、助けてください」

か細い、消え入りそうな声で言いながら、男達から自由になった少女が腕を広げてすがるようにこちらに近づいてくる。
ジュリアは彼女の動きから目を離さずに、再び日本刀の柄に手をかけて、それを静かに引き抜いた。銀色の刃が陽の光を反射し、少女の胸のあたりを照らす。引き裂かれたブラウスの影に黒いものが蠢いた。かすかな動きであったが、ガブリエラもジュリアも、それを見逃さなかった。そして、二人はほぼ同時に呟いた。

「あら、いた」
「ほら、いました」

ジュリアは素早く日本刀を地面と平行にして、自分の右側に構えると、少女めがけて突進した。少女はその素早い動きについていけず、よけることもできなかった。刀は少女の胸元に吸い込まれていった。

「あああ…」

少女が声にならない声を上げ、真っ青な顔をして自分の胸につきたてられた刀を凝視する。ところがその白い肌からは一滴の血も流れておらず、少女の体に傷は一つもついていなかった。ただ、ジュリアの刀の先には、黒い何かがバタバタと動いている。ジュリアは無言のまま、静かに剣先を振り上げると、黒い何かが空高くほうり上げられた。
「トカゲかぁ」
ジュリアが緊張感のない、実にのんきな声でつぶやく。ガブリエラはほうり上げられたトカゲを銃で狙い澄まして、引き金を引いた。銃声が響き渡ると同時にトカゲの体は吹き飛んで、消えた。
「さすが、シスターガブリエラ。お見事です」
ぱちぱちぱちと、ジュリアが手を叩く。ガブリエラがあれと呼ぶ悪魔に操られていた兵士たちは、糸が切れた操り人形のようにバタバタと倒れていった。操られているだけなので、数時間もすれば元に戻るはずだろうと、ジュリアは思った。
 二人が修道院に戻ろうとしたその時、村中に人間ではない、獣じみた、恐ろしい声が地の底から湧きあがり、地面を揺らす。ボコボコっと地面が割れ、そこから火と石とが吹き上がり、周囲の空気が瞬時に熱くなる。先ほどまでの寒さはどこへいったのか、真夏のような暑さになり、ガブリエラとジュリアの額から汗が噴き出した。汗で肌に張り付いたベールが気持ちが悪い。耳をぴっちり覆ったバンドーのせいで、夏の間、中耳炎や、耳の病気に悩まされるシスターは多い。
「暑い」
 ガブリエラはそう呟いて自分のベールを脱いだ。豊かな金髪が黒い修道服の上にたれる。
「シスター!」
「だって、暑いんだもの!」
でも、それはなりません、とジュリアが言いかけた時だった。地面に開いた穴から、2人の目の前に大きな蛇が現れた。ジュリアが見上げるほどの高さにとぐろを巻いたその蛇の太さは恰幅の良い男性の胴ほどもあった。長さは15メートルほどもあるだろうか。色鮮やかな鱗はベルベットのようになめらかな部分と固そうな部分とが混在しており、頭のところに王冠のような模様があった。金色の目は二人を睨み、口からは紫色の舌がチロチロと出ていて、蒸気のようなものが、白く吹き出している。

「よくも邪魔してくれたのう」

頭の中にざらざらとした気持ちの悪い声が響く。
「邪魔したのはあんたでしょ、私のカルボナーラを邪魔したのは」
ガブリエラはかったるそうにそういって、銃を握っていない方のこぶしをぎゅっと握りしめた。つりあがっていた蛇の金色の目じりが下がり、にやっと笑う。
「お前らの邪魔をするのはわしらの悦びじゃ」
そういいながら、とぐろをほどいた蛇が二人に少しずつ近づいてくる。二人が止まったままでいるともといた場所から、ガブリエラとジュリアの居るところまでちょうど半分の距離までのところで来たところで、蛇はスピードを上げ、体全体で地面をたたくようにして反動をつけ、飛びかかる。
「小賢しい小娘達よ。私の部下をよくも殺してくれたな。お礼にあの世へ送ってやろう。お前らキリスト教徒が好きな主の居る場所へな!」
ガブリエラを飲み込もうと口を大きく開かれ、腐ったような、生臭いにおいが周囲に満ちる。

「いやよ。あのカルボナーラが天国にあるとは思わないもの。あのカルボナーラはここにいるジュリアと修道院の牧場がないとできないのよ!」

ジュリアが二人の間に割って入り、舌を刀で切り落とす。一瞬、蛇はひるんだかのように体を後ろに引いたが、次の瞬間、口を大きく開けて、火を噴いた。ジュリアはとっさに右に飛んでよけたので、フードが焦げただけで済んだ。しかし、蛇は間髪を入れず、ジュリアに向かって火を噴き続ける。右、左、後ろとよけていくが、休む暇もないので、ジュリアの息もさすがに切れてきた。
「シスターガブリエラ、なんとかしてください!」
ガブリエラは頷いて、もう一つのガーターベルトに挟んでいた小さな文庫を取り出すと、それを放り投げた。空に向かって放り投げた本はまばゆい光を放ちながら、彼女の胸のあたりで止まった。ページが音を立てて、すごい勢いでめくられていく。ガブリエラは一息ついて、その本を見つめた。
「父と子の精霊のみ名において、アーメン」
彼女がそう唱えると本の動きが止まり、ガブリエラに詠むべき言葉を示した。

「大天使聖ミカエル、戦いにおいてわれらを護り、悪魔の凶悪なる謀計に勝たしめ給え。天主のかれに命を下し給わんことを伏して願い奉る。あゝ天軍の総帥、霊魂をそこなわんとてこの世をはいかいするサタンおよびその他の悪魔を、天主の御力によりて地獄に閉込め給え。アーメン。至聖なるイエスの聖心、われらをあわれみたまえ。恩寵満てるマリア…」

ガブリエラの祈りの言葉を聞いた蛇は、ジュリアを追いかけるのをやめ、その口から火を噴きながらこちらへと向かってくる。
「小賢しい。所詮は女よ。お前のような、シスターごときに私を止められると思うなよ」
ガブリエラを蛇が飲み込もうとしたその時に、ガブリエラはすべての祈りを唱え終えた。彼女は大きく息を吸うと目の前に蛇を睨みつけてこういった。
「汝の名前を名乗れ、悪魔よ」
「ぐぐぐぐぐぅ」
蛇はくぐもった低い声でうなり、体をくねらせて動こうとするが、見えない何かに縛られているかのように動くことができなかった。
「お前は誰だ!汝の名前を名乗れ!」
ガブリエラの声に男の声が重なり、低く野太い声が響き渡る。その刹那、彼女と本との間に黒い修道服をまとった男が現れた。
「お・・・お前は、フランチェスコ?なぜ、ここに」
戸惑いを隠せない蛇に対して、男は何も答えずに、繰り返した。
「もう一度、言う。汝の名前を名乗れえええええええ!」
その声は先ほどよりもさらに大きく、周囲の空気を震わせ、一筋の光となって、なってまっすぐに蛇へと向かい、その眉間に刺さった。
「サ・・・サ・・・マ・・・エル」
蛇の口から絞り出されるように名前が紡ぎだされた。ガブリエラと修道僧は口の端をあげて、微笑んだ。
「サマエル、父と子と聖霊のみ名において命ずる。地獄に帰れ!」
「うぉおおおおおおおおおおおお」
蛇が断末魔の声をあげて、苦しみだし、のた打ち回る。ジュリアがその頭の上に乗り、刀を突き刺す。蛇は大きく首を振って振り落とそうとするが、ジュリアはひるまずに柄の部分まで、更に深く突き刺した。
「シスターガブリエラ、とどめを!」
ガブリエラは銃を聖書に向けると、真ん中のあたりが空洞になり、ラテン語が縁どられた光の輪が現れた。その輪がカチカチと音を立てて、照準器のように蛇の姿をその輪の中心にとらえると、悪魔の名前が真ん中に浮かび上がる。その瞬間を逃さずにガブリエラは引き金を引いた。銀色の玉が輪の中心を突き抜けて、まっすぐに蛇の頭の真ん中にめり込む。と同時に蛇の頭がはじけ、体全体が黒い灰となって崩れ落ちていった。空気を震わすようなおぞましい獣の咆哮と共に。そして最後の塵が風に溶けて消えると咆哮も消えた。
その後には静寂が戻り、いつもの小鳥のさえずりが聞こえるのどかな田園風景の広がる村がそこにあった。先ほどの暑さもどこへやら、冷たい風が上気した二人の頬と汗ばんだ体を撫でていく。ただ、荒らされた家や傷ついた人たちはそのままで、それが夢でなかったことを物語っていた。
人々に多少のあざは残るかもしれないが、命に別状はないはずだ。人さえいれば、村も立ち直ることができるだろう。先ほどまで暴れていた兵士たちも、打って変って穏やかになっているか、自分たちが何をしていたのかわからないといった表情でぽかーんとしている。先ほどのように暴れることはもうなさそうだった。

「おなかがすいた。カルボナーラが食べたい」

ジュリアを振り返って、ガブリエラはそういうと、座り込んでしまった。彼女の顔はぐちゃぐちゃで、先ほどの凛としたガブリエラとは似ても似つかなかった。
「はいはい、シスター、帰りましょう」
あまりのギャップにジュリアは吹き出しそうになるのをぐっとこらえ、ガブリエラにそう声をかけた。修道院へと続く山道を歩きだした。
         *
疲れ果ててやっとの思いでたどり着いたジュリアの前に差し出された食事はほかほかの湯気を立てたカルボナーラではなく、薄いライ麦パンと豆のスープだった。
「ご苦労様でした。この私がてづから作りましたのよ、ガブリエラ。感謝しなさい」
にこにこしながら皿を勧めてくるのは料理下手で知られるジャネット副修道院長だった。その横には院長がこちらも張り付けたような笑みを浮かべて、立っている。
「ここに私は確かに二倍の量の食事を用意いたしました。あなたが今にも倒れそうでしたからね。ジュリアに料理させるとそれも大変でしょうし、帰ってきたときにすぐに食べられるようにしておいたのです。明日からはジュリアが作ってくれるでしょう」
おかしそうに院長は笑う。
「ありがとうございます。でも、カルボナーラを二倍ではなかったのですか?」
「あらあら、お忘れですか、ガブリエラ?私はその前にあなたに今後、二十日は豆のスープとパンで過ごす罰を与えましたね?それを私はいまだに撤回してはおりませんよ」
ほほほほ、おかしなことを、という院長の目元は昼食時と同じように笑っていなかった。
「そんなぁ…」
目の前に並べられた味気のない、量だけある食事を見て、ガブリエラは膝から崩れ落ち、おいおいと声を上げて泣き始めた。しかし、修道院長は罰を撤回しなかったので、彼女は泣きながら味のないパンと涙でしょっぱくなったスープを食べるしかなかった。

結局、彼女がジュリアの作った待望のカルボナーラにたどり着けたのはそれから、きっかり二十日後のことだった。
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