『婚約破棄された令嬢、白い結婚で第二の人生始めます ~王太子ざまぁはご褒美です~』

鷹 綾

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第1話 突然の婚約破棄宣告

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第1話 突然の婚約破棄宣告

 春の光が、大広間のステンドグラスをやわらかく透かしていた。
 王城の謁見の間――本来ならば、祝宴か勲章授与の場として使われるそこに、今日は妙に重たい空気が漂っている。

 長い赤絨毯の先、王座の一段下に設けられた席で、王太子アレクシス・ハーヴェルは腕を組んでいた。
 金糸のような髪、宝石のような青い瞳。容姿だけなら「絵に描いたような王子様」だが、その表情は冷たく、どこか退屈そうだ。

 その前に、深紅のドレスをまとった一人の令嬢が跪いていた。

 リオネッタ・エルバンス。
 王国有数の名門、エルバンス公爵家の一人娘にして、現・王太子婚約者。

(……さて、と。今日は何の“王妃教育の追加課題”かしら)

 呼び出しの文には「王太子殿下より、今後のご関係について大切なお話がある」とだけ書かれていた。
 それを見たとき、リオネッタは内心、盛大にため息を飲み込んだ。

(これ以上、何をどう完璧にしろって言うのよ……? 礼儀作法も、外国語も、財政も外交も、一通りこなしてるのに。まさか、寝る時間まで報告しろとか言わないわよね?)

 そんな皮肉な心の声を隠しながら、彼女は完璧な微笑を浮かべる。

「お呼びに応じましてございます、アレクシス殿下」

 澄んだ声が、静まり返った広間に響いた。その場に立ち会っているのは、国王と王妃、そして数名の重臣だけだ。
 しかし、誰もがこれから告げられる「何か」を知っているらしく、妙な緊張を纏っている。

 アレクシスは、ふん、と鼻を鳴らし、椅子から立ち上がった。

「リオネッタ・エルバンス。我が婚約者よ」

「はい、殿下」

「……お前との婚約を、ここに破棄する」

 その言葉は、あまりにもあっさりと口から放たれた。

 静寂。

 時間が、一瞬だけ止まったような気がした。
 次の瞬間、リオネッタの背筋に、ぞくりとしたものが走る。

(――あ)

 心のどこかで、何かが弾けた。

(やっと、来た)

 もちろん、顔には出さない。
 長年積み上げた「完璧な公爵令嬢」の仮面は、そんな簡単には崩れない。

 リオネッタは、あくまで静かに問い返した。

「……恐れながら、理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」

 アレクシスは、待ってましたと言わんばかりに顎を上げる。

「理由? 簡単なことだ。お前は――」

 一拍置き、冷たく言い放つ。

「完璧すぎて、可愛げがない」

(……は?)

 思わず素の声が出そうになり、リオネッタは内心で慌てて飲み込んだ。

「可愛げ……でございますか」

「ああ、そうだ。お前はいつも正しく、間違いを許さず、どんな場でも完璧な振る舞いをする。王妃としては申し分ない。だが、妻としては窮屈すぎる」

(それ、王妃としては満点って自分で言いましたわね、今)

 突っ込みたい。全力で突っ込みたい。
 だが、ここでやってはいけない。今はまだ“悲劇の令嬢”である必要があるのだ。

 アレクシスはさらに続ける。

「それに、もう一つ理由がある。……私は真実の愛を、見つけてしまったのだ」

(あー、出たわ、“真実の愛”)

 リオネッタは、心の中でそっと目頭を押さえた。違う意味で涙が出そうである。

「真実の……愛、ですか」

「そうだ」

 アレクシスが手を伸ばす。その背後から、おずおずと一人の少女が姿を現した。

 栗色の髪を二つに結び、簡素なワンピースを身にまとった、まだ若い娘。
 身分証となるような装飾品はほとんど身につけていない。
 ――平民。ひと目でそうわかる。

「紹介しよう。リリィ・ハート。城下町で働く、心優しい娘だ」

「あの、あのっ……! リオネッタ様、その……!」

 リリィと呼ばれた少女は、真っ青な顔でリオネッタを見つめていた。
 その瞳は怯えと罪悪感で揺れ、今にも泣き出しそうだ。

(……この子は、悪くないわね)

 視線が合った瞬間、リオネッタはそう確信した。
 彼女はきっと巻き込まれただけだ。

「私は、平民。殿下の婚約者としてはふさわしくありません。でも……殿下は、それでも私を選んでくださって……っ」

 リリィの震える声に、アレクシスは満足げにうなずく。

「身分など関係ない。私は彼女を愛している。……だから、形式だけの婚約者であるお前とは、ここで別れることにした」

 その言葉に、王妃が眉をひそめた。

「アレクシス。その言い方は、少々――」

「母上。私は私の人生を生きたいだけです」

 アレクシスは、わざとらしいほど堂々とした口調で言い切った。

「父上の用意した婚約者ではなく、自ら選んだ相手と共に歩みたい。それが、私の選択です」

 国王は、重々しくため息をつく。

「……お前の望みは、わかった。だが、エルバンス公爵家との縁を切ることが、どれほどの意味を持つか、理解しているのだろうな?」

「もちろんです。ですが、私はリリィを手放すつもりはありません」

 アレクシスの横で、リリィがさらに顔色を失くした。

(……ああ、この子、本気で状況を理解してない顔ね。誰か止めてあげなさいよ、ほんとに)

 それでも、リオネッタは一歩前に進み出た。

 ドレスの裾をつまみ、深く礼をする。

「陛下、並びにアレクシス殿下のご決定、確かに承りました」

 顔を上げたとき、その瞳には涙が浮かんでいた――演技として。

(ここで涙の一粒も見せなかったら、“完璧すぎて冷血”って新しい悪評がつきそうですものね)

 頬を伝う一筋の涙を、そっと指先でぬぐう。
 王妃がハッと息を呑み、重臣たちが気まずそうに視線をそらした。

「このような形で、長年の婚約が終わることは……私としても残念でございます」

 少しだけ声を震わせる。
 胸の内では、別の感情が盛大に花火を打ち上げていた。

(――でも、正直に言えば)

(自由だ……!)

 朝から晩まで続く王妃教育、政務の補佐、王太子の尻拭い。
 そのすべてから、彼女は今日、この瞬間をもって解放されるのだ。

 けれど、その喜びを表に出すことはしない。
 リオネッタは、あくまで品位ある“捨てられた婚約者”を演じきる。

「アレクシス殿下。殿下の未来に、真実の愛の加護がありますよう、お祈り申し上げます」

 アレクシスは、一瞬だけ言葉に詰まった。

 自分が非難されると覚悟していたのだろう。その肩が、わずかに強張っている。

「……そうか。お前がそう言うのなら、助かる」

 助かる、ではない。
 最後の最後まで、彼は自分のことしか見ていない。

(ああ、本当に。どうして私は、今までこの人のために身を削ってきたのかしらね)

 自嘲気味な思いをぐっと飲み込み、リオネッタは静かに一礼する。

「それでは、これにて失礼いたします」

 踵を返し、赤い絨毯を一歩ずつ歩く。
 その足取りは、外から見れば「悲しみを堪える健気な令嬢」に見えるだろう。

 だが、内心は違う。

(今夜は、久しぶりに何も勉強しないで寝ていいわけよね……? いえ、寝る前にゆっくり本を読んで、お茶も淹れて……あ、そうだわ。ずっと試したかった新しいお菓子のレシピも――)

 広間の扉が、静かに閉じる。
 その瞬間、リオネッタの口元に、誰にも見られない微笑みが浮かんだ。

(――婚約破棄、ありがとうございます)

 それは、誰にも聞こえない心の中での、ひそやかな歓声だった。

 こうして、王太子婚約者リオネッタ・エルバンスの「捨てられた令嬢」人生は終わり――
 自由を掴む、第二の人生が、ひっそりと幕を開けたのである。
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