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第十四話 社交界の風向き
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第十四話 社交界の風向き
王都の社交界は、風よりも気まぐれで、風よりも残酷だった。
昨日まで持ち上げていた相手を、今日は平然と見下す。誰かが落ちれば「前からそうだと思っていた」と知った顔をし、逆に勢いのある者には、何事もなかったかのように笑いかける。
それでも、その移ろいやすさこそが社交界の本質でもある。
そして今、その風向きは確実に変わり始めていた。
最初の数日は、卒業舞踏会での婚約破棄があまりに鮮烈だったこともあり、王都の噂は王太子エドガーに有利に流れた。公の場で婚約を断たれたエルシェナは“高慢な悪女”、泣きながら庇われたセラフィナは“可哀想な妹”。
その筋書きはわかりやすく、人はわかりやすい話を好む。
だが、わかりやすい話は飽きられるのも早い。
なにより、現実がその筋書きに追いつかない。
王太子宮では物が届かない。
茶会の規模は縮む。
招待客は減る。
商会は返答を濁す。
王宮内では妙な混乱が続いている。
その一方で、婚約破棄されたはずのエルシェナは王都から姿を消して泣き暮らすでもなく、ヴァルモン公爵家は静かに、けれど冷徹なほど整った手続きを進めている。
これだけで、人の見る目は変わる。
本当に落ちた側はどちらなのか。
その疑問が、茶会や夜会の端々でささやかれ始めていた。
その日、王都でも名の通ったマルグリット伯爵夫人のサロンでは、十人ほどの貴婦人たちが丸い卓を囲んでいた。
紅茶の香りと甘い焼き菓子の匂いが満ちる、いつも通りの優雅な午後。けれど交わされる話題は、やはりエドガーとエルシェナの婚約破棄の件だった。
「……でも、少し不思議ではありませんこと?」
若い侯爵夫人が扇子で口元を隠しながら言った。
「何がですの?」
「だって、もし本当にエルシェナ様があれほど酷い方だったのなら、どうして今になって王宮の方が慌てておりますの?」
その一言に、卓の空気がわずかに変わる。
伯爵夫人は穏やかに微笑んだまま答える。
「慌てている、なんて、物騒ですわね」
「でも聞きますでしょう? 王太子宮でいろいろ遅れが出ているとか、商会が手を引いたとか」
「手を引いた、というより」
年上の子爵夫人が口を挟む。
「ヴァルモン公爵家の後ろ盾がなくなった結果、これまで当然のように通っていたものが通らなくなった、というだけみたいですわよ」
「まあ」
「ではつまり、王太子殿下は……」
その先を誰もはっきりとは言わない。
けれど全員、同じことを考えていた。
王太子は、自分が思っているほど“自分ひとり”で成り立っていなかったのではないかと。
伯爵夫人がゆっくりとカップを置く。
「エルシェナ様は、昔から感情を表に出されない方でしたでしょう」
「ええ、少し怖いくらいに」
「でも、それと有能でないことは別ですわ」
「たしかに……」
「むしろ、あれほど感情を抑えていらしたからこそ、いろいろなお役目を静かに担っておいでだったのかもしれませんわね」
その言葉には、感心と、少しの警戒が混じっていた。
女たちはようやく気づき始めているのだ。
エルシェナがただ美しい婚約者だったのではないことに。
王太子の横に飾られていただけの令嬢ではなく、王家と公爵家の間にあった多くの“見えない仕事”を引き受けていたのではないかと。
その頃、別の場所では、今度は若い令嬢たちの小さなお茶会でも似たような話が出ていた。
「セラフィナ様、最近あまりお見かけしませんわね」
「王宮にいらっしゃるのでしょう?」
「でも、この前の茶会も人が少なかったと聞きましたわ」
「……王太子妃になるのなら、もっと皆さま集まりますわよね」
若い娘たちの言葉は、貴婦人たちよりよほど残酷だ。
遠慮がないぶん、本音がすぐ出る。
「やっぱり皆さま、様子を見ていらっしゃるのかしら」
「当然ではなくて? だって、正式にはまだ何も決まっておりませんもの」
「それに、エルシェナ様の方が公爵令嬢としてはずっと格上ですし……」
「しっ」
一人が慌てて止めたが、もう遅い。
口に出されてしまった。
格の違い。
それはこの件において、本来なら最初から明白だったはずのものだ。
ただ、卒業舞踏会の劇的な婚約破棄と、セラフィナの涙と、エドガーの勢いが、一時的にその差を見えにくくしただけで。
時間が経てば、結局そこへ戻る。
一方、ヴァルモン公爵邸では、その変化はより直接的な形で報告されていた。
グラハムが午後の報告書をエルシェナの前へ置く。
「社交界での反応が変わりつつございます」
「どちらへ?」
「殿下とセラフィナ様を、やや距離を置いて見る向きが増えております」
エルシェナは報告書に目を通した。
各家の反応、欠席理由、返答の速度、最近の茶会で交わされた言葉の断片まで、簡潔だがよくまとまっている。
「やはり皆さま、賢くていらっしゃるわね」
「勝ち馬に乗ることに関しては」
グラハムの淡々とした皮肉に、エルシェナはごく薄く笑った。
その通りだった。
人は正義に従うのではない。多くの場合、自分に損がない方へ寄るだけだ。
今までは王太子とセラフィナの側へ寄る方が得だと思っていた。
だが、王宮の混乱とヴァルモン家の冷静な対処を見て、少しずつ空気が変わり始めた。
「私を悪女だと騒いでいた方々も?」
「完全に撤回はなさいません。ただ、“少し事情が違ったのかもしれない”とおっしゃる方が増えております」
「都合のいいこと」
「左様でございます」
エルシェナは報告書を閉じた。
不愉快ではあったが、驚きはしない。社交界とはそういう場所だ。誰かを本気で信じているわけではない。信じているように見せるのがうまいだけで。
「でも、それでいいわ」
「よろしいのですか」
「ええ。私は彼女たちに理解されたいわけではないもの」
エルシェナは静かに言う。
「ただ、向こうの足場が崩れていけばそれで十分よ」
グラハムは深くうなずいた。
「すでに、セラフィナ様を新しい王太子妃候補として持ち上げる声はだいぶ減っております」
「当然でしょうね」
正式な婚約発表もない。社交界での支持も薄い。王宮内では混乱ばかりが広がっている。そんな中で、早々と王太子妃候補として色をつけるのは危険だと、皆が判断したのだろう。
セラフィナにとっては残酷な現実だ。
“選ばれた可哀想な妹”でいる間は同情された。けれど“本当に王太子妃になれるかもしれない女”となった瞬間、人はその中身を見始める。
そして見られた時に、彼女には足りないものが多すぎる。
その頃、王宮の一室でも、エドガーは似たような報告を受けていた。
「欠席?」
「はい。今夜の小規模な晩餐への返答でございますが、また数家よりご辞退が」
「理由は」
「お身内の急用、体調不良、先約――」
「またそれか!」
エドガーが声を荒らげる。
「誰も彼も、申し合わせたように!」
文官は黙るしかない。
だが胸の中では分かっていた。申し合わせたのではない。同じ結論に、それぞれ勝手にたどり着いただけだ。
今、王太子の側へあまり早く寄るのは危ない。
その空気がもう出来上がりつつある。
エドガーは苛立ちのまま歩き回る。
「私が婚約を解消したことが、そんなに気に入らないのか」
それは違う。
気に入らないのではなく、あまりに愚かだったから距離を取られているのだ。
だがそれを理解できるほど、彼は冷静ではなかった。
セラフィナもまた、その場にいて青ざめた顔をしていた。
「殿下……皆さま、どうして……」
「黙っていろ」
エドガーは苛立って吐き捨てる。
「少し騒ぎが大きいだけだ。そのうち収まる」
セラフィナはそれ以上何も言えなかった。
だが胸の中では、否応なく理解し始めていた。
自分はまだ何も手に入れていない。
王太子の隣にいるだけでは足りないのだ。
皆が本当に見ているのは、その女に格があるか、支えるものがあるか、そこへ寄って得かどうか。
そして今のところ、自分はそのどれも十分に持っていない。
夕方、グラハムが最後の報告を終えると、エルシェナは窓辺へ立った。
王都の空は薄く曇り、夕暮れの色が静かに街を沈めている。
「風向きは変わった?」
「はい。まだ完全ではございませんが」
「それで十分よ」
彼女は低く言った。
最初から皆が味方である必要などない。
むしろ都合のいい手のひら返しで十分だった。
王太子にとって痛いのは、社交界が自分を正義の側として持ち上げ続けてくれないこと。
セラフィナにとって痛いのは、涙だけでは人がついてこないこと。
そしてその変化は、まだ始まったばかりだった。
エルシェナは静かに目を伏せる。
社交界は残酷だ。
だが、その残酷さは時に使える。
「グラハム」
「はい」
「これからは、向こうが何か催そうとするたび、誰が欠席したかも記録しておいて」
「かしこまりました」
「あとで必ず効いてくるもの」
グラハムは一礼した。
王太子はまだ、自分が婚約を破棄しただけだと思っている。
けれど本当は違う。
彼は自分の評判、自分の格、自分が当然だと思っていた支持の一部まで、一緒に切り落としてしまったのだ。
そして社交界は、もうそれに気づき始めている。
王都の社交界は、風よりも気まぐれで、風よりも残酷だった。
昨日まで持ち上げていた相手を、今日は平然と見下す。誰かが落ちれば「前からそうだと思っていた」と知った顔をし、逆に勢いのある者には、何事もなかったかのように笑いかける。
それでも、その移ろいやすさこそが社交界の本質でもある。
そして今、その風向きは確実に変わり始めていた。
最初の数日は、卒業舞踏会での婚約破棄があまりに鮮烈だったこともあり、王都の噂は王太子エドガーに有利に流れた。公の場で婚約を断たれたエルシェナは“高慢な悪女”、泣きながら庇われたセラフィナは“可哀想な妹”。
その筋書きはわかりやすく、人はわかりやすい話を好む。
だが、わかりやすい話は飽きられるのも早い。
なにより、現実がその筋書きに追いつかない。
王太子宮では物が届かない。
茶会の規模は縮む。
招待客は減る。
商会は返答を濁す。
王宮内では妙な混乱が続いている。
その一方で、婚約破棄されたはずのエルシェナは王都から姿を消して泣き暮らすでもなく、ヴァルモン公爵家は静かに、けれど冷徹なほど整った手続きを進めている。
これだけで、人の見る目は変わる。
本当に落ちた側はどちらなのか。
その疑問が、茶会や夜会の端々でささやかれ始めていた。
その日、王都でも名の通ったマルグリット伯爵夫人のサロンでは、十人ほどの貴婦人たちが丸い卓を囲んでいた。
紅茶の香りと甘い焼き菓子の匂いが満ちる、いつも通りの優雅な午後。けれど交わされる話題は、やはりエドガーとエルシェナの婚約破棄の件だった。
「……でも、少し不思議ではありませんこと?」
若い侯爵夫人が扇子で口元を隠しながら言った。
「何がですの?」
「だって、もし本当にエルシェナ様があれほど酷い方だったのなら、どうして今になって王宮の方が慌てておりますの?」
その一言に、卓の空気がわずかに変わる。
伯爵夫人は穏やかに微笑んだまま答える。
「慌てている、なんて、物騒ですわね」
「でも聞きますでしょう? 王太子宮でいろいろ遅れが出ているとか、商会が手を引いたとか」
「手を引いた、というより」
年上の子爵夫人が口を挟む。
「ヴァルモン公爵家の後ろ盾がなくなった結果、これまで当然のように通っていたものが通らなくなった、というだけみたいですわよ」
「まあ」
「ではつまり、王太子殿下は……」
その先を誰もはっきりとは言わない。
けれど全員、同じことを考えていた。
王太子は、自分が思っているほど“自分ひとり”で成り立っていなかったのではないかと。
伯爵夫人がゆっくりとカップを置く。
「エルシェナ様は、昔から感情を表に出されない方でしたでしょう」
「ええ、少し怖いくらいに」
「でも、それと有能でないことは別ですわ」
「たしかに……」
「むしろ、あれほど感情を抑えていらしたからこそ、いろいろなお役目を静かに担っておいでだったのかもしれませんわね」
その言葉には、感心と、少しの警戒が混じっていた。
女たちはようやく気づき始めているのだ。
エルシェナがただ美しい婚約者だったのではないことに。
王太子の横に飾られていただけの令嬢ではなく、王家と公爵家の間にあった多くの“見えない仕事”を引き受けていたのではないかと。
その頃、別の場所では、今度は若い令嬢たちの小さなお茶会でも似たような話が出ていた。
「セラフィナ様、最近あまりお見かけしませんわね」
「王宮にいらっしゃるのでしょう?」
「でも、この前の茶会も人が少なかったと聞きましたわ」
「……王太子妃になるのなら、もっと皆さま集まりますわよね」
若い娘たちの言葉は、貴婦人たちよりよほど残酷だ。
遠慮がないぶん、本音がすぐ出る。
「やっぱり皆さま、様子を見ていらっしゃるのかしら」
「当然ではなくて? だって、正式にはまだ何も決まっておりませんもの」
「それに、エルシェナ様の方が公爵令嬢としてはずっと格上ですし……」
「しっ」
一人が慌てて止めたが、もう遅い。
口に出されてしまった。
格の違い。
それはこの件において、本来なら最初から明白だったはずのものだ。
ただ、卒業舞踏会の劇的な婚約破棄と、セラフィナの涙と、エドガーの勢いが、一時的にその差を見えにくくしただけで。
時間が経てば、結局そこへ戻る。
一方、ヴァルモン公爵邸では、その変化はより直接的な形で報告されていた。
グラハムが午後の報告書をエルシェナの前へ置く。
「社交界での反応が変わりつつございます」
「どちらへ?」
「殿下とセラフィナ様を、やや距離を置いて見る向きが増えております」
エルシェナは報告書に目を通した。
各家の反応、欠席理由、返答の速度、最近の茶会で交わされた言葉の断片まで、簡潔だがよくまとまっている。
「やはり皆さま、賢くていらっしゃるわね」
「勝ち馬に乗ることに関しては」
グラハムの淡々とした皮肉に、エルシェナはごく薄く笑った。
その通りだった。
人は正義に従うのではない。多くの場合、自分に損がない方へ寄るだけだ。
今までは王太子とセラフィナの側へ寄る方が得だと思っていた。
だが、王宮の混乱とヴァルモン家の冷静な対処を見て、少しずつ空気が変わり始めた。
「私を悪女だと騒いでいた方々も?」
「完全に撤回はなさいません。ただ、“少し事情が違ったのかもしれない”とおっしゃる方が増えております」
「都合のいいこと」
「左様でございます」
エルシェナは報告書を閉じた。
不愉快ではあったが、驚きはしない。社交界とはそういう場所だ。誰かを本気で信じているわけではない。信じているように見せるのがうまいだけで。
「でも、それでいいわ」
「よろしいのですか」
「ええ。私は彼女たちに理解されたいわけではないもの」
エルシェナは静かに言う。
「ただ、向こうの足場が崩れていけばそれで十分よ」
グラハムは深くうなずいた。
「すでに、セラフィナ様を新しい王太子妃候補として持ち上げる声はだいぶ減っております」
「当然でしょうね」
正式な婚約発表もない。社交界での支持も薄い。王宮内では混乱ばかりが広がっている。そんな中で、早々と王太子妃候補として色をつけるのは危険だと、皆が判断したのだろう。
セラフィナにとっては残酷な現実だ。
“選ばれた可哀想な妹”でいる間は同情された。けれど“本当に王太子妃になれるかもしれない女”となった瞬間、人はその中身を見始める。
そして見られた時に、彼女には足りないものが多すぎる。
その頃、王宮の一室でも、エドガーは似たような報告を受けていた。
「欠席?」
「はい。今夜の小規模な晩餐への返答でございますが、また数家よりご辞退が」
「理由は」
「お身内の急用、体調不良、先約――」
「またそれか!」
エドガーが声を荒らげる。
「誰も彼も、申し合わせたように!」
文官は黙るしかない。
だが胸の中では分かっていた。申し合わせたのではない。同じ結論に、それぞれ勝手にたどり着いただけだ。
今、王太子の側へあまり早く寄るのは危ない。
その空気がもう出来上がりつつある。
エドガーは苛立ちのまま歩き回る。
「私が婚約を解消したことが、そんなに気に入らないのか」
それは違う。
気に入らないのではなく、あまりに愚かだったから距離を取られているのだ。
だがそれを理解できるほど、彼は冷静ではなかった。
セラフィナもまた、その場にいて青ざめた顔をしていた。
「殿下……皆さま、どうして……」
「黙っていろ」
エドガーは苛立って吐き捨てる。
「少し騒ぎが大きいだけだ。そのうち収まる」
セラフィナはそれ以上何も言えなかった。
だが胸の中では、否応なく理解し始めていた。
自分はまだ何も手に入れていない。
王太子の隣にいるだけでは足りないのだ。
皆が本当に見ているのは、その女に格があるか、支えるものがあるか、そこへ寄って得かどうか。
そして今のところ、自分はそのどれも十分に持っていない。
夕方、グラハムが最後の報告を終えると、エルシェナは窓辺へ立った。
王都の空は薄く曇り、夕暮れの色が静かに街を沈めている。
「風向きは変わった?」
「はい。まだ完全ではございませんが」
「それで十分よ」
彼女は低く言った。
最初から皆が味方である必要などない。
むしろ都合のいい手のひら返しで十分だった。
王太子にとって痛いのは、社交界が自分を正義の側として持ち上げ続けてくれないこと。
セラフィナにとって痛いのは、涙だけでは人がついてこないこと。
そしてその変化は、まだ始まったばかりだった。
エルシェナは静かに目を伏せる。
社交界は残酷だ。
だが、その残酷さは時に使える。
「グラハム」
「はい」
「これからは、向こうが何か催そうとするたび、誰が欠席したかも記録しておいて」
「かしこまりました」
「あとで必ず効いてくるもの」
グラハムは一礼した。
王太子はまだ、自分が婚約を破棄しただけだと思っている。
けれど本当は違う。
彼は自分の評判、自分の格、自分が当然だと思っていた支持の一部まで、一緒に切り落としてしまったのだ。
そして社交界は、もうそれに気づき始めている。
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