勝手にサインしろと仰いましたので、廃嫡書類に国璽を押して差し上げました

鷹 綾

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第二十六話 肉体労働

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第二十六話 肉体労働

夜明け前の空は灰色だ。

宿の十人部屋で、誰かが咳き込む音で目が覚める。

目覚ましも鐘もない。

起きなければ、仕事を失う。

アレスは上体を起こす。

肩が痛い。

腕が重い。

昨日の石材運びの痕だ。

隣の寝台の男が無言で靴を履く。

視線も合わせない。

ここでは、誰も他人の過去に興味を持たない。

持つのは、自分の今日だけだ。

外へ出ると、冷たい空気が刺す。

王都の裏区画。

仕事の斡旋所には、すでに列ができている。

声が飛ぶ。

「積み下ろし三人!」

「荷運び五人!」

「解体二人!」

番号札が配られる。

名は呼ばれない。

「四十七!」

呼ばれたのは、アレスだ。

番号。

それが今の自分だ。

「ついてこい」

監督が顎で示す。

今日は港だ。

船から降ろされる荷を運ぶ。

麻袋が山のように積まれている。

持ち上げた瞬間、腰が軋む。

「遅い!」

怒号。

麻袋を背に担ぐ。

砂が漏れる。

肩に食い込む。

かつては剣を握り、号令を出していた手。

今は、荷を運ぶだけだ。

足場は不安定。

石畳ではない。

泥だ。

滑る。

転ぶ。

笑いが起きる。

「王様気取りか?」

誰かが言う。

アレスは歯を食いしばる。

言い返せば、仕事を失う。

黙って持ち上げる。

昼。

日払いの銀貨が一枚。

硬いパンと塩水。

それで終わりだ。

監督が告げる。

「明日も来るなら、朝一で並べ」

命令ではない。

条件だ。

港の隅で、他の労働者が言う。

「お前、手が綺麗だな」

アレスは黙る。

手の皮は剥け、血が滲んでいる。

だが、まだ完全に荒れてはいない。

「慣れれば固くなる」

男は笑う。

「最初は皆、王様だ」

その言葉が刺さる。

王様。

かつて本気でそう思っていた。

今は、番号四十七。

夕方。

斡旋所へ戻る。

宿代を払い、残りはわずか。

利息の額を思い出す。

この銀貨では、何年働いても追いつかない。

夜。

十人部屋。

誰かが賭け事の話をしている。

「昨日、裏で倍にした」

「運が良ければ三倍だ」

その言葉に、アレスの耳が動く。

倍。

三倍。

一夜で。

頭の奥がざわつく。

だが同時に、卓の光景が蘇る。

全損。

敗北。

理事の声。

“履行不能時、強制労働契約”。

彼は目を閉じる。

汗と湿気の匂い。

いびき。

咳。

これが現実だ。

翌日も同じだ。

石を運び、荷を担ぎ、怒鳴られ、銀貨を受け取る。

名ではなく、番号で呼ばれる。

誰も“殿下”とは言わない。

誰も頭を下げない。

労働が終わる頃には、腕が上がらない。

背が曲がる。

だが負債は減らない。

むしろ増えている。

利息は待たない。

夜。

寝台に横たわる。

天井の木目が歪んで見える。

アレスは小さく呟く。

「俺は王になる男だった」

誰も聞いていない。

聞いたとしても、笑うだけだ。

十人部屋の闇の中で。

番号四十七は、ただの労働者だ。

肉体を削って銀貨を得る。

だがその銀貨は、負債の海に落ちて消える。

玉座は遠い。

剣もない。

あるのは、重い荷と、疲労だけ。

肉体労働。

それが、彼の今だった。
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