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第三十二話 働きたくないと申しましたでしょう
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第三十二話 働きたくないと申しましたでしょう
王宮の庭は、今日も静かだった。
冬の陽射しは淡く、噴水の水音だけが柔らかく響いている。
白いテーブルに、銀のポット。
繊細な磁器のカップから、ほのかに湯気が立ちのぼる。
レイナ・アルヴェルトは、ゆっくりと紅茶を注いだ。
動きに無駄はない。
誰に見せるためでもない所作。
自分のための時間だ。
遠くで、侍女が一礼する。
「お嬢様」
「例の件でございます」
レイナは視線だけで続きを促す。
侍女は声を落とした。
「元王太子アレス様が、港湾労働に就いているとの報告が」
一瞬の沈黙。
風が庭木を揺らす。
レイナはカップを持ち上げる。
香りを確かめ、一口。
温かさが喉を通る。
「そう」
ただ、それだけ。
侍女は続ける。
「宿も失い、現在は橋の下に……」
言葉が途切れる。
同情を滲ませないよう、必死に抑えているのが分かる。
レイナは目を伏せたまま、淡々と問う。
「強制労働条項は?」
「有効でございます」
「追加債務も確定済み」
「利息は日々増加しております」
レイナは静かに頷く。
計算はしていた。
あの時。
舞踏会の夜。
「便利だったが飾りには向かん」
あの言葉と共に、全てを返した。
保証も。
信用も。
責任も。
彼が望んだ通りに。
庭の向こう、王城の塔が見える。
あの塔の中で、彼は言った。
「国は俺だ」
だが国は契約で成り立つ。
感情ではない。
命令でもない。
確認と署名。
それが全てだ。
侍女が小さく息を吐く。
「お心は……お痛みになりませんか」
問いは控えめだ。
レイナはカップを置く。
澄んだ音が響く。
「痛む理由が?」
侍女が戸惑う。
「かつては……」
「かつては?」
レイナは穏やかに微笑む。
「私は申し上げました」
「ご確認を、と」
あの日。
「面倒だ。適当にサインして国璽を押しておけ」
そう言われた。
だから押した。
国璽を。
彼の単独保証へ。
合法的に。
完全に。
侍女は沈黙する。
レイナは再び紅茶を口にする。
甘みはない。
だが温かい。
「私は働きたくないと、申し上げましたでしょう」
静かな声。
皮肉ではない。
宣言でもない。
ただの事実。
「裏で全て処理し、功績は奪われ、確認は拒まれる」
「それを続ける義理はございません」
風が止む。
庭は静寂に包まれる。
遠くで鐘が鳴る。
正午だ。
レイナは立ち上がる。
「午後は図書室におります」
「誰も通さないで」
侍女が深く頭を下げる。
「かしこまりました」
レイナは歩き出す。
石畳を踏む音は軽い。
責任は果たした。
契約は履行した。
あとは、彼自身の選択の結果だ。
橋の下で凍える男と。
王宮の庭で紅茶を飲む令嬢。
交わることはない。
レイナは振り返らない。
空は澄んでいる。
彼女の歩みも、迷いがない。
「働きたくないと申しましたでしょう」
その言葉は、もう誰に向けるものでもない。
ただ、自分のための確認だ。
完。
王宮の庭は、今日も静かだった。
冬の陽射しは淡く、噴水の水音だけが柔らかく響いている。
白いテーブルに、銀のポット。
繊細な磁器のカップから、ほのかに湯気が立ちのぼる。
レイナ・アルヴェルトは、ゆっくりと紅茶を注いだ。
動きに無駄はない。
誰に見せるためでもない所作。
自分のための時間だ。
遠くで、侍女が一礼する。
「お嬢様」
「例の件でございます」
レイナは視線だけで続きを促す。
侍女は声を落とした。
「元王太子アレス様が、港湾労働に就いているとの報告が」
一瞬の沈黙。
風が庭木を揺らす。
レイナはカップを持ち上げる。
香りを確かめ、一口。
温かさが喉を通る。
「そう」
ただ、それだけ。
侍女は続ける。
「宿も失い、現在は橋の下に……」
言葉が途切れる。
同情を滲ませないよう、必死に抑えているのが分かる。
レイナは目を伏せたまま、淡々と問う。
「強制労働条項は?」
「有効でございます」
「追加債務も確定済み」
「利息は日々増加しております」
レイナは静かに頷く。
計算はしていた。
あの時。
舞踏会の夜。
「便利だったが飾りには向かん」
あの言葉と共に、全てを返した。
保証も。
信用も。
責任も。
彼が望んだ通りに。
庭の向こう、王城の塔が見える。
あの塔の中で、彼は言った。
「国は俺だ」
だが国は契約で成り立つ。
感情ではない。
命令でもない。
確認と署名。
それが全てだ。
侍女が小さく息を吐く。
「お心は……お痛みになりませんか」
問いは控えめだ。
レイナはカップを置く。
澄んだ音が響く。
「痛む理由が?」
侍女が戸惑う。
「かつては……」
「かつては?」
レイナは穏やかに微笑む。
「私は申し上げました」
「ご確認を、と」
あの日。
「面倒だ。適当にサインして国璽を押しておけ」
そう言われた。
だから押した。
国璽を。
彼の単独保証へ。
合法的に。
完全に。
侍女は沈黙する。
レイナは再び紅茶を口にする。
甘みはない。
だが温かい。
「私は働きたくないと、申し上げましたでしょう」
静かな声。
皮肉ではない。
宣言でもない。
ただの事実。
「裏で全て処理し、功績は奪われ、確認は拒まれる」
「それを続ける義理はございません」
風が止む。
庭は静寂に包まれる。
遠くで鐘が鳴る。
正午だ。
レイナは立ち上がる。
「午後は図書室におります」
「誰も通さないで」
侍女が深く頭を下げる。
「かしこまりました」
レイナは歩き出す。
石畳を踏む音は軽い。
責任は果たした。
契約は履行した。
あとは、彼自身の選択の結果だ。
橋の下で凍える男と。
王宮の庭で紅茶を飲む令嬢。
交わることはない。
レイナは振り返らない。
空は澄んでいる。
彼女の歩みも、迷いがない。
「働きたくないと申しましたでしょう」
その言葉は、もう誰に向けるものでもない。
ただ、自分のための確認だ。
完。
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