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第6話 婚約という名の防波堤
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第6話 婚約という名の防波堤
その日の午後、公爵邸の執務室には、珍しく三人の子どもたちが揃っていた。
重厚な机の向こうに座るグレイ・ローマン公爵は、書類から視線を上げ、向かいに並ぶジョー、ナンシー、アルフレッド、そして少し離れた位置に立つミントを見渡す。
「……集めた理由は、分かっているな」
低く、落ち着いた声。
ジョーが一歩前に出て、頷いた。
「噂の件ですね」
「ええ」
ナンシーも続ける。
「父上とミントの婚約について……」
アルフレッドは腕を組み、少し不満げに唇を尖らせていた。
「正直、外の連中が勝手なこと言いすぎだと思う」
その言葉に、ミントは小さく首を振った。
「責める必要はありません」
全員の視線が、彼女に集まる。
「貴族社会では、理解しづらい事柄ほど、
悪意のある形で解釈されやすいものですから」
その口調は、十歳の少女とは思えないほど冷静だった。
グレイは、深く息を吐く。
「……本来なら、ここまで説明する必要はない」
「だが」
机に手を置く。
「この屋敷で暮らす以上、
お前たちには知っておいてもらうべきだろう」
ジョーは、真剣な表情で頷いた。
「父上」
「どうして……」
一瞬、言葉を選びながら続ける。
「どうして、
ただ保護するだけでは駄目だったんですか」
その問いは、誰もが心のどこかで抱いていた疑問だった。
グレイは、視線をミントに向ける。
「……君から説明するか?」
ミントは、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに頷いた。
「はい」
一歩、前に出る。
「結論から申し上げます」
背筋を伸ばし、はっきりと言った。
「私は、ただの“保護対象”では不十分だったのです」
アルフレッドが眉をひそめる。
「……どういう意味?」
ミントは、落ち着いた声で続ける。
「王太子殿下との婚約が破棄されたことで、
私は“扱いづらい存在”になりました」
「才能がありすぎる」
「年齢が若すぎる」
「将来、どの派閥に付くか分からない」
一つひとつ、淡々と挙げていく。
「そのような存在を、
王家が野放しにすることはありません」
ナンシーが、息を呑んだ。
「……だから」
「はい」
ミントは頷く。
「確実に、手の届く場所に置く必要がありました」
ジョーが、歯を噛みしめる。
「……保護、というより」
「管理、ですね」
ミントは否定しなかった。
「ですが」
視線をグレイへ向ける。
「“婚約”という形を取ったことで、
それは“管理”ではなく、“責任”に変わります」
グレイが、低く言葉を継いだ。
「貴族社会では、
“婚約者”に手を出すことは、
即ち私に喧嘩を売ることと同義だ」
「私個人への干渉ではなく、
公爵家への干渉になる」
アルフレッドが、ぽかんと口を開ける。
「……つまり」
「つまり」
ミントは、はっきりと結論づけた。
「この婚約は、防波堤です」
「私を守るための、
最も強く、最も分かりやすい壁」
室内に、静寂が落ちる。
ナンシーは、しばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……ただ屋敷に置くだけなら」
「“囲われている”と思われるだけ」
「でも、婚約者なら」
「正式な立場がある」
ミントは、頷いた。
「その通りです」
ジョーは、深く息を吐いた。
「……だから」
「“年上すぎる婚約”でも、成立する」
「はい」
ミントの答えは、迷いがなかった。
アルフレッドが、ぽつりと呟く。
「……それ」
「子どもが背負うには、重すぎない?」
ミントは、少しだけ考えてから答えた。
「重いです」
即答だった。
「ですが」
視線を逸らさない。
「誰かに決められるよりは、
自分で選びたかった」
その言葉に、三人は言葉を失う。
グレイは、腕を組み、低く言った。
「……だから私は、
彼女を“妻として迎えない”と宣言した」
「婚約は制度」
「だが」
一拍置く。
「彼女の人生を縛るつもりはない」
ミントは、その言葉に、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
その様子を見ていたアルフレッドが、ふと視線を窓の外へ向ける。
「……なあ」
「ミント」
「はい?」
「そこまで考えてるならさ」
少し、言いづらそうに続ける。
「なんで、
“マリーベル伯爵家にいる”だけじゃ駄目だったんだ?」
ミントは、少しだけ目を伏せた。
「それでは」
静かに、しかしはっきりと答える。
「“誰の庇護下にいるのか”が、曖昧になります」
「伯爵家は、確かに名門です」
「ですが」
「王家と正面から張り合えるほどの盾ではありません」
ジョーが、理解したように頷いた。
「……だから、公爵家」
「はい」
ミントは、淡々と答える。
「力の差は、時に言葉より雄弁です」
沈黙。
誰も反論できなかった。
そのとき。
窓の外から、「ヒヒン」という声が聞こえてきた。
全員が、思わず視線を向ける。
庭の端で、ロシナンテがのんびりと草を食んでいた。
アルフレッドが、小さく笑う。
「……あのロバも」
「盾、みたいなもの?」
ミントは、一瞬考え――
少しだけ、柔らかく微笑んだ。
「そうかもしれません」
「目立たず」
「でも、確実に、そばにいる」
グレイは、窓の外を見ながら、静かに言った。
「……似ているな」
「この婚約と」
その言葉に、ミントは何も返さなかった。
だが、その沈黙は、否定ではなかった。
こうして。
ローマン公爵家では、
“婚約”の意味が、はっきりと共有された。
それは恋ではなく、
庇護でもなく、
ましてや誤解されるような関係でもない。
――選び取った、防波堤。
そしてその内側で、
ミントは静かに力を蓄えていく。
嵐が来たとき、
誰よりも冷静に、
誰よりも前に立つために。
その日の午後、公爵邸の執務室には、珍しく三人の子どもたちが揃っていた。
重厚な机の向こうに座るグレイ・ローマン公爵は、書類から視線を上げ、向かいに並ぶジョー、ナンシー、アルフレッド、そして少し離れた位置に立つミントを見渡す。
「……集めた理由は、分かっているな」
低く、落ち着いた声。
ジョーが一歩前に出て、頷いた。
「噂の件ですね」
「ええ」
ナンシーも続ける。
「父上とミントの婚約について……」
アルフレッドは腕を組み、少し不満げに唇を尖らせていた。
「正直、外の連中が勝手なこと言いすぎだと思う」
その言葉に、ミントは小さく首を振った。
「責める必要はありません」
全員の視線が、彼女に集まる。
「貴族社会では、理解しづらい事柄ほど、
悪意のある形で解釈されやすいものですから」
その口調は、十歳の少女とは思えないほど冷静だった。
グレイは、深く息を吐く。
「……本来なら、ここまで説明する必要はない」
「だが」
机に手を置く。
「この屋敷で暮らす以上、
お前たちには知っておいてもらうべきだろう」
ジョーは、真剣な表情で頷いた。
「父上」
「どうして……」
一瞬、言葉を選びながら続ける。
「どうして、
ただ保護するだけでは駄目だったんですか」
その問いは、誰もが心のどこかで抱いていた疑問だった。
グレイは、視線をミントに向ける。
「……君から説明するか?」
ミントは、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに頷いた。
「はい」
一歩、前に出る。
「結論から申し上げます」
背筋を伸ばし、はっきりと言った。
「私は、ただの“保護対象”では不十分だったのです」
アルフレッドが眉をひそめる。
「……どういう意味?」
ミントは、落ち着いた声で続ける。
「王太子殿下との婚約が破棄されたことで、
私は“扱いづらい存在”になりました」
「才能がありすぎる」
「年齢が若すぎる」
「将来、どの派閥に付くか分からない」
一つひとつ、淡々と挙げていく。
「そのような存在を、
王家が野放しにすることはありません」
ナンシーが、息を呑んだ。
「……だから」
「はい」
ミントは頷く。
「確実に、手の届く場所に置く必要がありました」
ジョーが、歯を噛みしめる。
「……保護、というより」
「管理、ですね」
ミントは否定しなかった。
「ですが」
視線をグレイへ向ける。
「“婚約”という形を取ったことで、
それは“管理”ではなく、“責任”に変わります」
グレイが、低く言葉を継いだ。
「貴族社会では、
“婚約者”に手を出すことは、
即ち私に喧嘩を売ることと同義だ」
「私個人への干渉ではなく、
公爵家への干渉になる」
アルフレッドが、ぽかんと口を開ける。
「……つまり」
「つまり」
ミントは、はっきりと結論づけた。
「この婚約は、防波堤です」
「私を守るための、
最も強く、最も分かりやすい壁」
室内に、静寂が落ちる。
ナンシーは、しばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……ただ屋敷に置くだけなら」
「“囲われている”と思われるだけ」
「でも、婚約者なら」
「正式な立場がある」
ミントは、頷いた。
「その通りです」
ジョーは、深く息を吐いた。
「……だから」
「“年上すぎる婚約”でも、成立する」
「はい」
ミントの答えは、迷いがなかった。
アルフレッドが、ぽつりと呟く。
「……それ」
「子どもが背負うには、重すぎない?」
ミントは、少しだけ考えてから答えた。
「重いです」
即答だった。
「ですが」
視線を逸らさない。
「誰かに決められるよりは、
自分で選びたかった」
その言葉に、三人は言葉を失う。
グレイは、腕を組み、低く言った。
「……だから私は、
彼女を“妻として迎えない”と宣言した」
「婚約は制度」
「だが」
一拍置く。
「彼女の人生を縛るつもりはない」
ミントは、その言葉に、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
その様子を見ていたアルフレッドが、ふと視線を窓の外へ向ける。
「……なあ」
「ミント」
「はい?」
「そこまで考えてるならさ」
少し、言いづらそうに続ける。
「なんで、
“マリーベル伯爵家にいる”だけじゃ駄目だったんだ?」
ミントは、少しだけ目を伏せた。
「それでは」
静かに、しかしはっきりと答える。
「“誰の庇護下にいるのか”が、曖昧になります」
「伯爵家は、確かに名門です」
「ですが」
「王家と正面から張り合えるほどの盾ではありません」
ジョーが、理解したように頷いた。
「……だから、公爵家」
「はい」
ミントは、淡々と答える。
「力の差は、時に言葉より雄弁です」
沈黙。
誰も反論できなかった。
そのとき。
窓の外から、「ヒヒン」という声が聞こえてきた。
全員が、思わず視線を向ける。
庭の端で、ロシナンテがのんびりと草を食んでいた。
アルフレッドが、小さく笑う。
「……あのロバも」
「盾、みたいなもの?」
ミントは、一瞬考え――
少しだけ、柔らかく微笑んだ。
「そうかもしれません」
「目立たず」
「でも、確実に、そばにいる」
グレイは、窓の外を見ながら、静かに言った。
「……似ているな」
「この婚約と」
その言葉に、ミントは何も返さなかった。
だが、その沈黙は、否定ではなかった。
こうして。
ローマン公爵家では、
“婚約”の意味が、はっきりと共有された。
それは恋ではなく、
庇護でもなく、
ましてや誤解されるような関係でもない。
――選び取った、防波堤。
そしてその内側で、
ミントは静かに力を蓄えていく。
嵐が来たとき、
誰よりも冷静に、
誰よりも前に立つために。
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