『婚約破棄され追放されましたが、隣国の氷の公爵様に“白い結婚”を提案されましたので、心穏やかに幸せになりますわ

鷹 綾

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1-3 氷の公爵との出会い

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第1章 1-3 氷の公爵との出会い

 意識が沈み込むように薄れていく中で、セレナはかすかに誰かの声を聞いていた。

「……しっかりしろ。まだ息はある」

 冷静で落ち着いた声。
 けれど不思議と、責める気配も、軽蔑も混じっていない。

(だれ……?)

 瞼を開けようとしても、重くて開けられなかった。
 身体は冷えているのに、その腕の中はあたたかかった。

「今運ぶ。安心しろ」

 その言葉を最後に、セレナは深い眠りに落ちていった。

     ◇

 どれほど時間が経ったのか分からない。
 まぶたを開くと、そこには見慣れぬ天井があった。

 外は……冬のように冷たい空気が流れている。
 だが部屋の中は暖炉が焚かれていて、柔らかな温もりが漂っていた。

「目を覚ましたか」

 低い声に振り向くと、椅子に腰掛けて本を読んでいる男がいた。

 長い黒髪を後ろで束ね、鋭い氷色の瞳。
 端正な顔立ちに、冷徹とも見える落ち着いた雰囲気。

 黒い外套のまま読書をしているその姿は、どこか近寄りがたいのに……不思議と視線を引き寄せられる。

「あ、あの……」

「動かないほうがいい。昨夜は倒れていた。相当疲れていたようだ」

 男は本を閉じて立ち上がり、ベッドのそばに来た。

(……この人が、私を助けてくれた……?)

 セレナは礼を述べようとしたが、喉がまだ乾いていて声が出なかった。
 すると彼はすぐに水差しからコップに水を注ぎ、セレナの手にそっと渡す。

「ゆっくり飲め」

「……ありがとうございます」

 水を飲むと、ようやく喉が楽になった。

「あなたは……どなたですか?」

「名乗っていなかったな」

 男は静かに名乗った。

「私は――アーヴィング・グレイス。隣国グレイス領を治める“氷の公爵”だ」

 セレナは驚いて息を呑んだ。

「こ、公爵様……」

 王国でも名を轟かせる“氷の公爵”。
 氷魔法の使い手としても、政治的手腕でも知られる。
 今ここにいるのは、そんな大人物なのだ。

「こんな森の外れで倒れている貴族風の女性がいれば、助けるのは当然だ。
 それに――王都からここまで歩いてくる者など、普通はいない」

 アーヴィングはセレナを観察するように視線を向けた。

「何があった?」

 問いは鋭い。だが優しさの裏返しでもあった。

 セレナは一瞬迷う。
 自分が王太子に婚約破棄され、家から追放され、夜の街をさまよったことを、この人に話していいのか。

 だが、その氷のような瞳は、嘘を許さない透明さを持っていた。

「……王太子殿下に婚約破棄されました」

 アーヴィングの表情は動かない。

「それだけでは夜の街をさまよう理由にはならないだろう」

「家からも追放されたのです。
 ……居場所を失いました」

 静まり返った室内で、暖炉の火がぱちりと音を立てた。

 アーヴィングは腕を組み、しばし沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。

「聞いた話によれば、王国の王太子ユリウス・ローレントは……軽率で愚かな男らしいな」

「えっ……」

「――すまない。私情ではない。ただの評価だ。
 君のような者を捨てるとは、国の損失だ」

 セレナは驚いた。
 ユリウスを非難する者など、王都では一人もいなかったからだ。

(この人は……違う世界の人みたい)

 アーヴィングは続けた。

「君を追放したのは、王家への恐怖から動いた家の判断か。
 だが、その結果こんな危険な場所を一人歩かせるとは、家としても落第だな」

 なぜか胸が温かくなる。
 誰も味方になってくれなかった中で、ただ一人、この男だけが正面から自分を肯定した。

「……ありがとうございます」

 するとアーヴィングは、ふっと視線をそらした。
 照れているようにも見える。

「礼には及ばない。だが――問題がある」

「問題、ですか?」

「君はもう帰る場所がない。かといって、この国の領民として登録されているわけでもない。
 身分のない者を野に放つわけにはいかん」

 セレナは息を呑む。

(身分がなければ……私はどこにも存在できない)

 するとアーヴィングは静かに告げた。

「だから提案がある」

「提案……?」

「――私と“白い結婚”をしないか?」

 時間が止まったように、セレナは目を瞬いた。

「白い……結婚……?」

 アーヴィングは頷いた。

「恋愛感情は不要。互いに干渉しない。生活の自由は保証する。
 君に求めるものは何もない。……ただ、“保護”だけだ」

 セレナは驚きのあまり言葉を失った。

 結婚――しかし恋愛は不要。
 干渉もなし。
 ただの“契約”としての結婚。

「どうして、そのような提案を……?」

「君を保護する正当な理由が必要だからだ。
 身分を保証し、屋敷で安全に暮らせるようにするには、“名目”がいる」

 その冷静さに、セレナは胸がざわつくのを感じた。

(この人は本当に、自分の利益ではなく……私を守るために?)

 アーヴィングは淡々と言葉を重ねた。

「もし嫌なら断ってもいい。だが――君をこのまま行かせれば、また倒れるか、誰かに襲われるかもしれない」

 セレナは思い出した。
 王太子の冷たい視線。
 家族の怒声。
 居場所を失った夜の冷たさ。

 そして今、自分を助けてくれたこの人の手の温もり。

(……白い結婚。
 恋愛がないなら、しがらみも、束縛もない)

 自由を失い、追放されたセレナにとって――
 それは思いもよらない救いの手だった。

 セレナはゆっくりと顔を上げた。

「……私でよろしければ。
 白い結婚をお受けいたします、公爵様」

 アーヴィングの瞳が、わずかに揺れた。
 彼の心が動いたことを、セレナは知らない。

「そうか。では、契約は後ほど文書にまとめよう」

 彼は背を向け、侍従を呼ぶために扉へ向かう。

 その背中に、セレナは小さく微笑んだ。

(不思議な方……冷たいようで、優しい)

 こうして――
 追放された令嬢セレナは、隣国の“氷の公爵”アーヴィングと出会い、
 新たな運命の扉を静かに開くこととなった。

 そしてこの“白い結婚”が、後に王国全土を巻き込む大逆転劇の始まりになるとは、
 まだ誰も知らなかった。


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