正解を出さない私たちが、それでも前に進めた理由

鷹 綾

文字の大きさ
10 / 40

第10話 言葉を選ぶ勇気

しおりを挟む
第10話 言葉を選ぶ勇気

 決意は、した。

 けれど——決意したからといって、すぐに何かが変わるわけではない。

 クロエは翌朝、自室の椅子に腰掛けたまま、しばらく動けずにいた。
 窓から差し込む光は穏やかで、王宮の一日はいつも通り始まっている。

 けれど、胸の奥だけが落ち着かなかった。

「……橋をかける、か」

 昨夜、鏡に映った言葉。
 恐怖と誤解のあいだに立つ存在。

 簡単に言えば、聞こえはいい。
 だが実際にそれをやろうとすれば——人の感情の渦中に、身を置くことになる。

 守られる側にいる限り、矢面に立つ必要はない。
 沈黙していれば、誰かが代わりに判断してくれる。

 それでも。

「……逃げたままじゃ、意味がない」

 クロエは、静かに立ち上がった。

     *

 最初に向かったのは、図書室だった。

 知識を得るため、というよりも、考えを整理するためだ。
 人の少ない時間帯を選び、奥の席に腰を下ろす。

 分厚い本を開くが、文字が頭に入ってこない。

 ——言葉。

 自分が使える、唯一の武器。

 剣も、権力も、強制力もない。
 あるのは、「見えてしまうこと」と、「考えてしまうこと」だけ。

「……それでも、やるなら」

 呟きながら、クロエは本を閉じた。

 知識を振りかざすのではなく。
 力を示すのでもなく。

 ——言葉を選ぶ。

 それが、自分にできることだ。

     *

 昼前、クロエはセリアに声をかけた。

「セリア。お願いがあるんです」

「はい?」

「小さな集まりを、開けませんか」

 セリアは、一瞬目を瞬かせる。

「……集まり、ですか?」

「形式ばったものじゃなくていいんです。
 お茶を飲みながら話すだけで」

「どなたを?」

「……王宮で働く人たちを、数人だけ」

 セリアの表情が、少し引き締まった。

「それは……噂のことと、関係がありますか」

 クロエは、頷いた。

「逃げ続けるより、
 誤解されたままでいるより……」

 少しだけ、息を吸う。

「ちゃんと、話したいんです」

 セリアは、しばらく黙っていたが、やがて静かに言った。

「……わかりました。
 無理のない範囲で、声をかけてみます」

「ありがとうございます」

 クロエは、深く頭を下げた。

     *

 その話は、思ったよりも早く伝わった。

 午後、回廊を歩いていると、アストールに呼び止められる。

「……何をするつもりだ」

 低い声。
 だが、責める色はない。

「お茶会、です」

 クロエは、正直に答えた。

「王宮で働く方々と、少し話をしたくて」

 アストールの眉が、わずかに寄る。

「危険だ」

「わかっています」

 即答だった。

「でも、黙っているほうが……
 もっと危険だと思いました」

 彼は、しばらくクロエを見つめていた。

 その視線は、評価とも警戒ともつかない。

「……噂を、否定するつもりか」

「いいえ」

 クロエは、首を振る。

「否定しても、信じてもらえません」

 アストールの目が、わずかに揺れた。

「だから、説明します」

「……説明?」

「私にできることと、できないことを。
 それから……私が、何を怖がっているのかを」

 一瞬、沈黙。

「……脆いな」

 アストールが、低く言った。

「そのやり方は」

「はい」

 クロエは、微笑む。

「でも、脆いからこそ、
 伝わることもあると思うんです」

 アストールは、ため息をついた。

「……止めはしない」

 クロエの胸が、少し跳ねる。

「だが」

 一歩近づき、低い声で続ける。

「必ず、私の目の届く場所でやれ」

「……それは」

「忠告だ」

 また、その言い方。

 クロエは、静かに頷いた。

「ありがとうございます」

     *

 夕刻。

 小さな応接室に、数人の使用人と下級官吏が集まっていた。
 人数は多くない。だが、緊張が漂っている。

 クロエは、皆と同じ椅子に腰を下ろした。
 上座には、座らない。

「今日は、来てくださってありがとうございます」

 そう切り出すと、数人が驚いたように顔を上げた。

「……えっと」

 クロエは、一度言葉を止める。

 ——言葉を、選ぶ。

「私は、皆さんが私を怖がっていることを、知っています」

 空気が、ぴんと張り詰める。

「噂のことも。
 鏡のことも」

 誰かが、息を呑む音がした。

「……全部、事実ではありません」

 そう言い切らず、続ける。

「でも、全部が嘘だとも言えません」

 ざわめきが起きる。

 クロエは、慌てずに言葉を重ねた。

「私は、人の心が“見えてしまうこと”があります。
 でも、それは——」

 一人ひとりを、ゆっくりと見渡す。

「知りたいと思わなければ、見えません。
 そして、見えたからといって、
 それを利用する力も、権利も、ありません」

 沈黙。

「……私は」

 声が、少しだけ震える。

「ここに来てから、ずっと怖かったです。
 見られることも、疑われることも」

 正直な言葉。

「だから……皆さんが怖がる気持ちも、
 少しだけ、わかります」

 応接室の空気が、わずかに変わった。

 警戒の中に、戸惑いが混じる。

「お願いがあります」

 クロエは、頭を下げた。

「完璧に理解してほしいとは、思いません。
 ただ……噂だけで、私を決めないでください」

 しばらくして、年配の使用人が口を開いた。

「……怖くない、と言われても」

「はい」

 クロエは、頷く。

「怖いままで、構いません。
 でも、話す機会だけは……奪わないでください」

 その言葉に、誰かが小さく息を吐いた。

     *

 お茶会が終わった後。

 クロエは、深く息をついていた。

 成功とは言えない。
 けれど、拒絶一色でもなかった。

「……疲れたな」

 小さく呟く。

「当然だ」

 背後から、低い声。

 振り返ると、アストールが立っていた。

「無謀だが……」

 一拍置いて、続ける。

「逃げなかったのは、評価する」

 その言葉に、クロエは少しだけ笑った。

「ありがとうございます」

 アストールは、視線を逸らす。

「……言葉を選ぶのは、剣を振るうより難しい」

「はい」

 クロエは、静かに頷いた。

「でも……選ばないよりは、いいと思います」

 彼は、何も言わなかった。

 ただ、クロエの歩幅に合わせて、隣を歩く。

 守られる側の決意は、
 今日、初めて“行動”になった。

 まだ小さく、不安定で、
 すぐに折れてしまいそうな決意。

 それでも。

 クロエは知っていた。

 ——言葉を選ぶ勇気こそが、
 この場所で生きるための、最初の一歩なのだと。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?

水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。 日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。 そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。 一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。 ◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です! ◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

虐げられた皇女は父の愛人とその娘に復讐する

ましゅぺちーの
恋愛
大陸一の大国ライドーン帝国の皇帝が崩御した。 その皇帝の子供である第一皇女シャーロットはこの時をずっと待っていた。 シャーロットの母親は今は亡き皇后陛下で皇帝とは政略結婚だった。 皇帝は皇后を蔑ろにし身分の低い女を愛妾として囲った。 やがてその愛妾には子供が生まれた。それが第二皇女プリシラである。 愛妾は皇帝の寵愛を笠に着てやりたい放題でプリシラも両親に甘やかされて我儘に育った。 今までは皇帝の寵愛があったからこそ好きにさせていたが、これからはそうもいかない。 シャーロットは愛妾とプリシラに対する復讐を実行に移す― 一部タイトルを変更しました。

王太子妃専属侍女の結婚事情

蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。 未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。 相手は王太子の側近セドリック。 ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。 そんな二人の行く末は......。 ☆恋愛色は薄めです。 ☆完結、予約投稿済み。 新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。 ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。 そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。 よろしくお願いいたします。

旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ
恋愛
 イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。 ※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

あなただけが私を信じてくれたから

樹里
恋愛
王太子殿下の婚約者であるアリシア・トラヴィス侯爵令嬢は、茶会において王女殺害を企てたとして冤罪で投獄される。それは王太子殿下と恋仲であるアリシアの妹が彼女を排除するために計画した犯行だと思われた。 一方、自分を信じてくれるシメオン・バーナード卿の調査の甲斐もなく、アリシアは結局そのまま断罪されてしまう。 しかし彼女が次に目を覚ますと、茶会の日に戻っていた。その日を境に、冤罪をかけられ、断罪されるたびに茶会前に回帰するようになってしまった。 処刑を免れようとそのたびに違った行動を起こしてきたアリシアが、最後に下した決断は。

君といるのは疲れると言われたので、婚約者を追いかけるのはやめてみました

水谷繭
恋愛
メイベル・ホワイトは目立たない平凡な少女で、美人な姉といつも比べられてきた。 求婚者の殺到する姉とは反対に、全く縁談のなかったメイベル。 そんなある日、ブラッドという美少年が婚約を持ちかけてくる。姉より自分を選んでくれたブラッドに感謝したメイベルは、彼のために何でもしようとひたすら努力する。 しかしそんな態度を重いと告げられ、君といると疲れると言われてしまう。 ショックを受けたメイベルは、ブラッドばかりの生活を改め、好きだった魔法に打ち込むために魔術院に入ることを決意するが…… ◆なろうにも掲載しています

処理中です...