正解を出さない私たちが、それでも前に進めた理由

鷹 綾

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第12話 揺れる信頼と試される沈黙

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第12話 揺れる信頼と試される沈黙

 王宮に、目に見えない緊張が広がっていた。

 それは刃のように鋭いものではない。
 むしろ、水面下でゆっくりと形を変える霧のような、不安定さだった。

 クロエは朝の回廊を歩きながら、その変化を肌で感じていた。

 挨拶は変わらず丁寧だ。
 視線も、あからさまな敵意はない。

 けれど——。

 ——探られている。

 言葉の端、沈黙の間。
 何を話し、何を話さないかを、周囲が測っている。

「……試されてるんだ」

 小さく呟いた声は、石の壁に吸い込まれた。

     *

 午前、クロエは国王付きの文官・マルセルに呼ばれた。

 小さな執務室。
 書類が整然と積まれ、余計な装飾はない。

「お時間をいただき、感謝します」

 マルセルは、丁寧に頭を下げた。

「こちらこそ」

 クロエは椅子に腰掛け、静かに背筋を伸ばす。

「……率直に申し上げます」

 マルセルは、少し言いにくそうに切り出した。

「最近、王宮内で“確認”の声が増えています」

「確認、ですか」

「ええ。
 あなたが、どこまで“見ているのか”」

 その言葉に、クロエは小さく息を吸った。

「……やはり」

「恐怖が、別の形に変わっただけです」

 マルセルは、苦笑気味に言う。

「排除するには、まだ早い。
 ならば、利用できるかどうかを測る」

 現実的で、冷たい判断。

「私は……」

 クロエは、慎重に言葉を選ぶ。

「誰かの秘密を暴くために、ここにいるわけではありません」

「承知しています」

 マルセルは、即座に頷いた。

「ですが、それを“信じる”かどうかは、
 理屈ではありません」

 クロエは、視線を落とした。

 ——信頼は、積み上げるもの。
 言葉だけでは、足りない。

「……一つ、お願いがあります」

 マルセルが、声を低くする。

「今後しばらく、
 あなたの発言や行動は、より注目されます」

「はい」

「ですから……」

 一瞬、言葉を区切る。

「“見える”ことを、
 自ら証明しないでいただきたい」

 クロエは、ゆっくりと顔を上げた。

「……それは」

「沈黙を、選んでほしい、という意味です」

     *

 執務室を出た後、クロエは中庭で立ち止まっていた。

 噴水の音が、いつもより遠く感じる。

「……沈黙を、選ぶ」

 第11話で自分が考えた言葉が、重くのしかかる。

 言葉を使わない勇気。
 けれど、それは——誤解を放置する勇気でもある。

「……難しすぎるよ」

 小さく笑ってみるが、心は晴れない。

 その時、背後から足音がした。

「考え込むと、顔に出るぞ」

 アストールだった。

「……そんなに、わかりやすいですか」

「君ほどではない」

 皮肉とも冗談ともつかない言い方。

「……何があった」

 クロエは、少し迷ってから話した。

 文官の言葉。
 沈黙を求められたこと。

 アストールは、最後まで黙って聞いていた。

「……妥当な判断だ」

 やがて、低く言う。

「今は、動けば動くほど疑われる」

「……ですよね」

「だが」

 彼は、クロエを見る。

「沈黙は、守りでもあるが……
 同時に、刃にもなる」

 クロエは、はっとした。

「何も言わないことで、
 相手の想像を肥大させることもある」

「……はい」

 わかっている。
 だから、苦しい。

「君は、どうしたい」

 不意に、そう問われた。

 命令ではない。
 評価でもない。

 ——個人としての問い。

「……正直に言えば」

 クロエは、ゆっくり答える。

「黙っていたいです。
 これ以上、怖い思いはしたくない」

「……だろうな」

「でも」

 言葉を続ける。

「黙ることで、誰かが傷つくなら……
 それも、嫌です」

 アストールは、短く息を吐いた。

「……相変わらず、厄介だ」

 だが、その声は柔らかかった。

     *

 その日の午後、小さな事件が起きた。

 王宮の倉庫で、書類の一部が紛失したのだ。
 重要度は高くないが、管理体制を問われる内容だった。

 すぐに、噂が立つ。

 ——鏡の王妃が、何かを“見た”のではないか。

 クロエは、回廊でその囁きを耳にした。

 胸が、きゅっと締め付けられる。

「……違う」

 小さく呟く。

 だが、否定の声は、誰にも届かない。

 その時、クロエの前に、若い下級官吏が現れた。

「……クロエ様」

 彼は、緊張した面持ちで言った。

「もし……もし、何かお気づきのことがあれば……」

 期待と恐怖が、入り混じった視線。

 ——これが、試されている、ということ。

 クロエは、深く息を吸った。

 ここで言えば、疑いは晴れるかもしれない。
 だが同時に、“見える存在”として確定される。

 マルセルの言葉。
 アストールの忠告。

 そして、自分の決意。

「……ごめんなさい」

 クロエは、静かに言った。

「私は、その件について、何も知りません」

 官吏の顔に、一瞬だけ落胆が浮かぶ。

「……そう、ですか」

 彼は頭を下げ、去っていった。

 クロエは、その背中を見つめる。

 胸の奥が、痛む。

     *

 夜。

 クロエは、鏡の前に立っていた。

 今日は、見ようと思えば見えた。
 書類の行方も、誰が関わったかも。

 けれど——。

「……沈黙を、選ぶって」

 こんなにも、苦しい。

 鏡は、静かに彼女を映すだけだった。

 その沈黙は、責めでも慰めでもない。

 ただ、選択の結果を、受け止めるように。

 クロエは、そっと手を握る。

 今日、彼女は“言わない”ことを選んだ。
 それは逃げではない。

 ——信頼が育つ前に、
 力を示さない、という選択。

 正しいかどうかは、まだわからない。

 けれど。

 その重さを引き受ける覚悟だけは、
 確かに、胸の中にあった。

 揺れる信頼。
 試される沈黙。

 クロエは、その中心で、
 静かに立ち続けていた。
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