正解を出さない私たちが、それでも前に進めた理由

鷹 綾

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第16話 信頼の重さ

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第16話 信頼の重さ

 倉庫視察の件が終わってから、王宮の空気はわずかに変わった。

 劇的な変化ではない。
 疑念が消えたわけでも、歓迎に転じたわけでもない。

 だが——。

 ——「使われなくなった」。

 その感覚を、クロエは確かに感じていた。

 廊下ですれ違う文官たちの視線は、以前のような期待や探る色を帯びていない。
 代わりに、慎重さと距離感がある。

 それは、信用ではない。
 だが、警戒一色でもない。

「……信頼って、重たいんだね」

 朝の回廊を歩きながら、クロエは小さく呟いた。

 与えられるものではなく、
 求めるものでもなく、
 積み上げ続けなければならないもの。

 そして、一度背負えば、簡単には降ろせない。

     *

 午前、クロエは王宮内の執務補助室に呼ばれていた。

 正式な役職ではない。
 だが、文官たちの議論に同席し、意見を求められる場だ。

 部屋に入ると、数名の文官がすでに集まっていた。
 その中に、マルセルの姿もある。

「おはようございます」

 クロエが挨拶すると、彼らは一斉に立ち上がり、慌てて頭を下げた。

「……どうぞ、そのままで」

 クロエは、少し困ったように言う。

 以前なら、ここまでの対応はなかった。
 それが、良いことなのか、悪いことなのか——まだ判断がつかない。

「本日は、王宮外への物資供給についての確認です」

 マルセルが、話を進める。

「地方への支援物資の流れに、
 わずかな遅延が出ています」

 クロエは、資料に目を落とした。

 数字は整っている。
 表向きは、問題ない。

「……意見を、伺っても?」

 若い文官が、恐る恐る声をかけてきた。

 その態度に、クロエは胸の奥が少しだけ痛んだ。

「……私ですか」

「はい。
 その……違和感などがあれば」

 期待と遠慮が、入り混じった視線。

 ——これが、信頼の重さ。

 クロエは、ゆっくりと首を振った。

「申し訳ありません。
 この件については、
 私から言えることはありません」

 一瞬、場が静まり返る。

「帳簿上の流れは、妥当です。
 遅延があるなら、
 まずは輸送経路や人員配置を確認するべきです」

 ごく、当たり前の意見。

 だが、それを聞いた文官たちは、
 どこか拍子抜けしたような表情を浮かべた。

「……そう、ですね」

 マルセルが、少し苦笑して頷く。

「我々が、先に見るべき点でした」

 クロエは、胸の奥で息を吐いた。

 ——期待されすぎるのも、
 決して楽ではない。

     *

 昼過ぎ。

 執務補助室を出たクロエは、庭園の端で立ち止まっていた。

 風に揺れる木々を見ながら、頭を整理する。

「……役に立たなかった、かな」

 そう思った瞬間、背後から声がした。

「むしろ、正しい」

 アストールだった。

「……聞いていたんですか」

「廊下までな」

 彼は、腕を組む。

「皆、君に“近道”を求めている」

「近道……」

「面倒な調査を飛ばし、
 答えだけを得ようとする」

 クロエは、少し眉を寄せた。

「……それって」

「信頼ではない」

 アストールは、きっぱりと言った。

「依存だ」

 その言葉に、クロエは息を呑んだ。

「君が、今日それを拒んだのは……」

 一瞬、言葉を選ぶ。

「正しい」

 その一言が、胸に静かに落ちた。

     *

 その日の夕刻、別の出来事が起きた。

 地方から戻った使者が、王宮で倒れたのだ。
 過労と脱水が原因で、命に別状はない。

 だが、すぐに囁きが広がる。

 ——鏡の王妃は、知っていたのではないか。
 ——だから、何も言わなかったのでは。

 クロエは、その噂を耳にした瞬間、立ち止まった。

「……また、か」

 力を使わない。
 断罪しない。

 そう決めたはずなのに、
 沈黙すら、意味を持ってしまう。

 その夜、クロエは一人、アストールのもとを訪ねた。

「……相談しても、いいですか」

 珍しく、弱い声だった。

「構わない」

 短い返事。

「私……」

 言葉を探す。

「何もしていなくても、
 意味を与えられてしまいます」

 アストールは、黙って聞いていた。

「……それが、影響力だ」

 やがて、低く言う。

「力を持つ者が、
 何もせずにいることすら、
 周囲は勝手に解釈する」

 クロエは、視線を落とす。

「……怖いです」

「当然だ」

 彼は、はっきり言った。

「だが」

 一歩、近づく。

「君は、
 “使われる存在”から、
 “選ぶ存在”になった」

 クロエは、顔を上げた。

「……それは」

「楽ではない」

 即答。

「だが、
 君自身が選ばなければ、
 他人が選ぶ」

 その言葉は、重かった。

     *

 夜。

 クロエは、自室で鏡の前に立っていた。

 今日も、覗き込まない。
 ただ、映る自分を見る。

「……信頼って」

 静かに呟く。

「与えられた瞬間から、
 重荷になるんだね」

 鏡は、黙ったままだ。

 だが、その沈黙は、
 もう彼女を不安にはさせなかった。

 今日、クロエは知った。

 信頼は、
 「期待に応えること」ではない。

 「期待を選び取ること」だ。

 応えられない期待には、
 応えないと決めること。

 それもまた、
 信頼を壊さないための選択なのだと。

 クロエは、そっと灯りを落とす。

 信頼の重さは、まだ肩にある。
 だが、それを背負ったまま立てるだけの
 覚悟が、少しずつ育っている。

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