36 / 40
第36話 踏み出したあとの静けさ
しおりを挟む
第36話 踏み出したあとの静けさ
朝の王宮は、不思議なほど静かだった。
昨日まで感じていた緊張は、確かにあったはずなのに、
それが音を立てて消えたわけでもない。
ただ、騒がしさに変わらなかっただけだ。
「……もう、
踏み出しているんですね」
クロエは、回廊の窓から中庭を眺めながら、
小さく息を吐いた。
昨日、合意がなされた。
結論ではなく、進み方についての合意。
それは一見、何も変わっていないように見える。
けれど、
踏み出したあとの世界は、
思っていたよりも静かだった。
*
午前、最初の動きはごく控えめだった。
各部署から提出されたのは、
「方針案」ではなく、
「確認事項」の一覧。
・この判断は、どこまで現地裁量か
・変更が生じた場合の共有手順
・想定外が起きた時の連絡経路
どれも地味で、
華やかさとは程遠い。
だが、
誰もそれを軽んじていなかった。
*
「……これで、
いいんでしょうか」
若手の文官が、
クロエの近くでぽつりと漏らした。
「何か、大きな決断を
した気がしなくて……」
クロエは、少し考えてから答える。
「大きな決断をしたあとほど、
世界は静かになります」
彼は、
きょとんとした表情を浮かべた。
*
「決断というのは、
音がするものではありません」
クロエは、
穏やかに言葉を続ける。
「騒がしくなるのは、
決断を避けている時か、
押し付けている時です」
若手の文官は、
しばらく黙り込んだあと、
小さく頷いた。
「……今は、
逃げていない、
ということですね」
「はい」
*
昼前、
地方側から最初の報告が届いた。
支援の要請ではない。
提案でもない。
「現地で、
こう動いてみた」という
途中経過の共有だった。
数行の簡潔な文章。
だが、その末尾には、
こう書かれている。
——問題があれば、修正したい
「……委ねられている」
クロエは、
その一文を何度か読み返した。
*
以前なら、
この時点で指示が飛んでいた。
もっとこうしろ。
それは違う。
判断が甘い。
だが今日は、
そうはならない。
文官たちは、
まず内容を共有し、
確認し、
質問を整理した。
*
「……意外と、
落ち着いていますね」
中堅の文官が、
クロエにそう声をかける。
「もっと混乱するかと、
思っていました」
「踏み出す前に、
合意がありましたから」
クロエは、
短く答えた。
「混乱は、
未知から生まれます」
「今は、
未知が共有されています」
*
午後、
クロエは中庭を歩いていた。
噴水の水音は、
昨日と変わらない。
人の数も、
変わっていない。
それでも、
どこか違う。
「……静けさが、
怖くない」
それが、
一番の変化だった。
*
夕刻、
アストールが隣に立つ。
「踏み出したな」
「……はい」
「感想は」
クロエは、
少し考えてから答える。
「……静かです」
「物足りないか」
「いいえ」
首を振る。
「この静けさは、
考える余白です」
アストールは、
短く息を吐いた。
「嵐の前ではないな」
「ええ」
「嵐のあと、
でもありません」
*
「では、何だ」
「……歩き始めた直後です」
アストールは、
その答えに、
小さく笑った。
*
夜。
クロエは自室で、
今日の記録を整理していた。
決定事項は、
ほとんどない。
代わりに、
動きの痕跡が残っている。
——確認
——共有
——問い返し
——修正の余地
「……踏み出したあとは、
静かでいい」
声高に宣言する必要はない。
誰かを急かす必要もない。
踏み出したという事実は、
もう、
足元にある。
クロエは、
灯りを落とした。
静けさは、
停滞ではない。
それは、
前に進んでいる最中にだけ
現れる、
深い呼吸のようなものだった。
朝の王宮は、不思議なほど静かだった。
昨日まで感じていた緊張は、確かにあったはずなのに、
それが音を立てて消えたわけでもない。
ただ、騒がしさに変わらなかっただけだ。
「……もう、
踏み出しているんですね」
クロエは、回廊の窓から中庭を眺めながら、
小さく息を吐いた。
昨日、合意がなされた。
結論ではなく、進み方についての合意。
それは一見、何も変わっていないように見える。
けれど、
踏み出したあとの世界は、
思っていたよりも静かだった。
*
午前、最初の動きはごく控えめだった。
各部署から提出されたのは、
「方針案」ではなく、
「確認事項」の一覧。
・この判断は、どこまで現地裁量か
・変更が生じた場合の共有手順
・想定外が起きた時の連絡経路
どれも地味で、
華やかさとは程遠い。
だが、
誰もそれを軽んじていなかった。
*
「……これで、
いいんでしょうか」
若手の文官が、
クロエの近くでぽつりと漏らした。
「何か、大きな決断を
した気がしなくて……」
クロエは、少し考えてから答える。
「大きな決断をしたあとほど、
世界は静かになります」
彼は、
きょとんとした表情を浮かべた。
*
「決断というのは、
音がするものではありません」
クロエは、
穏やかに言葉を続ける。
「騒がしくなるのは、
決断を避けている時か、
押し付けている時です」
若手の文官は、
しばらく黙り込んだあと、
小さく頷いた。
「……今は、
逃げていない、
ということですね」
「はい」
*
昼前、
地方側から最初の報告が届いた。
支援の要請ではない。
提案でもない。
「現地で、
こう動いてみた」という
途中経過の共有だった。
数行の簡潔な文章。
だが、その末尾には、
こう書かれている。
——問題があれば、修正したい
「……委ねられている」
クロエは、
その一文を何度か読み返した。
*
以前なら、
この時点で指示が飛んでいた。
もっとこうしろ。
それは違う。
判断が甘い。
だが今日は、
そうはならない。
文官たちは、
まず内容を共有し、
確認し、
質問を整理した。
*
「……意外と、
落ち着いていますね」
中堅の文官が、
クロエにそう声をかける。
「もっと混乱するかと、
思っていました」
「踏み出す前に、
合意がありましたから」
クロエは、
短く答えた。
「混乱は、
未知から生まれます」
「今は、
未知が共有されています」
*
午後、
クロエは中庭を歩いていた。
噴水の水音は、
昨日と変わらない。
人の数も、
変わっていない。
それでも、
どこか違う。
「……静けさが、
怖くない」
それが、
一番の変化だった。
*
夕刻、
アストールが隣に立つ。
「踏み出したな」
「……はい」
「感想は」
クロエは、
少し考えてから答える。
「……静かです」
「物足りないか」
「いいえ」
首を振る。
「この静けさは、
考える余白です」
アストールは、
短く息を吐いた。
「嵐の前ではないな」
「ええ」
「嵐のあと、
でもありません」
*
「では、何だ」
「……歩き始めた直後です」
アストールは、
その答えに、
小さく笑った。
*
夜。
クロエは自室で、
今日の記録を整理していた。
決定事項は、
ほとんどない。
代わりに、
動きの痕跡が残っている。
——確認
——共有
——問い返し
——修正の余地
「……踏み出したあとは、
静かでいい」
声高に宣言する必要はない。
誰かを急かす必要もない。
踏み出したという事実は、
もう、
足元にある。
クロエは、
灯りを落とした。
静けさは、
停滞ではない。
それは、
前に進んでいる最中にだけ
現れる、
深い呼吸のようなものだった。
0
あなたにおすすめの小説
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
虐げられた皇女は父の愛人とその娘に復讐する
ましゅぺちーの
恋愛
大陸一の大国ライドーン帝国の皇帝が崩御した。
その皇帝の子供である第一皇女シャーロットはこの時をずっと待っていた。
シャーロットの母親は今は亡き皇后陛下で皇帝とは政略結婚だった。
皇帝は皇后を蔑ろにし身分の低い女を愛妾として囲った。
やがてその愛妾には子供が生まれた。それが第二皇女プリシラである。
愛妾は皇帝の寵愛を笠に着てやりたい放題でプリシラも両親に甘やかされて我儘に育った。
今までは皇帝の寵愛があったからこそ好きにさせていたが、これからはそうもいかない。
シャーロットは愛妾とプリシラに対する復讐を実行に移す―
一部タイトルを変更しました。
王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
旦那様には愛人がいますが気にしません。
りつ
恋愛
イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。
※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。
あなただけが私を信じてくれたから
樹里
恋愛
王太子殿下の婚約者であるアリシア・トラヴィス侯爵令嬢は、茶会において王女殺害を企てたとして冤罪で投獄される。それは王太子殿下と恋仲であるアリシアの妹が彼女を排除するために計画した犯行だと思われた。
一方、自分を信じてくれるシメオン・バーナード卿の調査の甲斐もなく、アリシアは結局そのまま断罪されてしまう。
しかし彼女が次に目を覚ますと、茶会の日に戻っていた。その日を境に、冤罪をかけられ、断罪されるたびに茶会前に回帰するようになってしまった。
処刑を免れようとそのたびに違った行動を起こしてきたアリシアが、最後に下した決断は。
君といるのは疲れると言われたので、婚約者を追いかけるのはやめてみました
水谷繭
恋愛
メイベル・ホワイトは目立たない平凡な少女で、美人な姉といつも比べられてきた。
求婚者の殺到する姉とは反対に、全く縁談のなかったメイベル。
そんなある日、ブラッドという美少年が婚約を持ちかけてくる。姉より自分を選んでくれたブラッドに感謝したメイベルは、彼のために何でもしようとひたすら努力する。
しかしそんな態度を重いと告げられ、君といると疲れると言われてしまう。
ショックを受けたメイベルは、ブラッドばかりの生活を改め、好きだった魔法に打ち込むために魔術院に入ることを決意するが……
◆なろうにも掲載しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる