正解を出さない私たちが、それでも前に進めた理由

鷹 綾

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第36話 踏み出したあとの静けさ

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第36話 踏み出したあとの静けさ

 朝の王宮は、不思議なほど静かだった。

 昨日まで感じていた緊張は、確かにあったはずなのに、
 それが音を立てて消えたわけでもない。
 ただ、騒がしさに変わらなかっただけだ。

「……もう、
 踏み出しているんですね」

 クロエは、回廊の窓から中庭を眺めながら、
 小さく息を吐いた。

 昨日、合意がなされた。
 結論ではなく、進み方についての合意。
 それは一見、何も変わっていないように見える。

 けれど、
 踏み出したあとの世界は、
 思っていたよりも静かだった。

     *

 午前、最初の動きはごく控えめだった。

 各部署から提出されたのは、
 「方針案」ではなく、
 「確認事項」の一覧。

 ・この判断は、どこまで現地裁量か
 ・変更が生じた場合の共有手順
 ・想定外が起きた時の連絡経路

 どれも地味で、
 華やかさとは程遠い。

 だが、
 誰もそれを軽んじていなかった。

     *

「……これで、
 いいんでしょうか」

 若手の文官が、
 クロエの近くでぽつりと漏らした。

「何か、大きな決断を
 した気がしなくて……」

 クロエは、少し考えてから答える。

「大きな決断をしたあとほど、
 世界は静かになります」

 彼は、
 きょとんとした表情を浮かべた。

     *

「決断というのは、
 音がするものではありません」

 クロエは、
 穏やかに言葉を続ける。

「騒がしくなるのは、
 決断を避けている時か、
 押し付けている時です」

 若手の文官は、
 しばらく黙り込んだあと、
 小さく頷いた。

「……今は、
 逃げていない、
 ということですね」

「はい」

     *

 昼前、
 地方側から最初の報告が届いた。

 支援の要請ではない。
 提案でもない。

 「現地で、
 こう動いてみた」という
 途中経過の共有だった。

 数行の簡潔な文章。
 だが、その末尾には、
 こう書かれている。

 ——問題があれば、修正したい

「……委ねられている」

 クロエは、
 その一文を何度か読み返した。

     *

 以前なら、
 この時点で指示が飛んでいた。

 もっとこうしろ。
 それは違う。
 判断が甘い。

 だが今日は、
 そうはならない。

 文官たちは、
 まず内容を共有し、
 確認し、
 質問を整理した。

     *

「……意外と、
 落ち着いていますね」

 中堅の文官が、
 クロエにそう声をかける。

「もっと混乱するかと、
 思っていました」

「踏み出す前に、
 合意がありましたから」

 クロエは、
 短く答えた。

「混乱は、
 未知から生まれます」

「今は、
 未知が共有されています」

     *

 午後、
 クロエは中庭を歩いていた。

 噴水の水音は、
 昨日と変わらない。

 人の数も、
 変わっていない。

 それでも、
 どこか違う。

「……静けさが、
 怖くない」

 それが、
 一番の変化だった。

     *

 夕刻、
 アストールが隣に立つ。

「踏み出したな」

「……はい」

「感想は」

 クロエは、
 少し考えてから答える。

「……静かです」

「物足りないか」

「いいえ」

 首を振る。

「この静けさは、
 考える余白です」

 アストールは、
 短く息を吐いた。

「嵐の前ではないな」

「ええ」

「嵐のあと、
 でもありません」

     *

「では、何だ」

「……歩き始めた直後です」

 アストールは、
 その答えに、
 小さく笑った。

     *

 夜。

 クロエは自室で、
 今日の記録を整理していた。

 決定事項は、
 ほとんどない。

 代わりに、
 動きの痕跡が残っている。

 ——確認
 ——共有
 ——問い返し
 ——修正の余地

「……踏み出したあとは、
 静かでいい」

 声高に宣言する必要はない。
 誰かを急かす必要もない。

 踏み出したという事実は、
 もう、
 足元にある。

 クロエは、
 灯りを落とした。

 静けさは、
 停滞ではない。

 それは、
 前に進んでいる最中にだけ
 現れる、
 深い呼吸のようなものだった。
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