婚約破棄された伯爵令嬢、王の目となる

鷹 綾

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第九話 名を与えられる前に

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第九話 名を与えられる前に

 ノイマン司教が去った後も、ミシェルはしばらく書斎を動かなかった。

 机の上には王国全図、父の遺した帳簿、そして――まだ開かれていない勅命書。どれもが重く、どれもが逃げ場を与えない。

 名を与えられる前に、理解せよ。
 王の論理を。
 そして、自分の立ち位置を。

「……二人で一つ、ですか」

 小さく呟く。
 それは権限の分担ではない。責任の分割でもない。片方が欠ければ成立しない構造だ。

 もし、武だけならどうなる。
 力で押さえつけ、反発を生み、やがて火種を残す。

 もし、知だけならどうなる。
 理屈で追い詰めても、最後の一線で逃げられる。

 だが――武と知が揃えば。

 逃げ場はない。
 抵抗もできない。

 それを理解しているからこそ、王は公爵を選ばなかった。侯爵も選ばなかった。強すぎる者は、正す側ではなく、いずれ競う側になるからだ。

「伯爵は、王に近く、王にはなれない」

 自嘲気味に言葉を落とす。
 冷酷だが、正しい。

 そして、もう一つ。

「……私は、女」

 それは欠点ではなく、条件だった。

 女であること。
 若いこと。
 婚約破棄されたばかりであること。

 それらはすべて、侮りと油断を引き出すための道具になる。怒りをぶつけられ、軽く扱われ、無礼を向けられる。その瞬間こそ、人は最も多くを漏らす。

 父は、そういう男たちを何人も見てきた。

『声を荒げる者ほど、後ろ暗い』
『礼を欠く者ほど、帳簿を整えたがる』

 幼い頃、何気なく聞いた言葉が、今になって意味を持つ。

 ミシェルは立ち上がり、窓を開けた。夕暮れの空気が流れ込む。屋敷の庭では、使用人たちが静かに動いている。何も知らない日常だ。

 ――だが、もう戻れない。

 名を与えられれば、後戻りはできない。
 裁いた瞬間から、敵が増える。
 感謝よりも、恐怖と憎悪を向けられる。

 それでも。

「……それが、伯爵位を継ぐということ」

 自分に言い聞かせるように呟いた。

 翌日、王都から正式な使者が到着した。今度は、装いも態度も違う。非公式ではない。王の意思を、そのまま伝える存在だ。

「ドミニク伯爵ミシェル様。
 陛下より、明朝の登城を命じられております」

 拒否の余地はない。

「承りました」

 短く答えると、使者は深く一礼して去っていった。

 その夜、ミシェルは初めて勅命書を開いた。

 内容は、想像通りだった。
 役職名、権限の範囲、報告義務。
 だが、一文だけ、強く目を引く箇所があった。

――ミッシ・ドミニチは、単独で存在しない。

 続く文で、その意味が明記されている。

――世俗権力を担う者と、
――霊的権威を担う者、
――二名をもって、一つの使命とする。

「……最初から、二人前提」

 ノイマン司教が、偶然ここに来たわけではないことが、完全に確定した。

 同じ頃、コンシール伯爵邸では、スキームが落ち着かない時間を過ごしていた。

 王都からの噂が、形を変えて届き始めている。

「……女伯爵が、何かの役職に就く、だと?」

「詳しくは不明ですが……“王の目”だとか」

 スキームは、顔をしかめた。

「戯言だ。そんなもの、今さら――」

 否定しながらも、胸の奥が冷える。
 “今さら”という言葉が、なぜか引っかかる。

 彼は知っている。
 帳簿を整えるという行為が、完全な安全を意味しないことを。

 外から調べられたら。
 複数の視点で突き合わされたら。

「……いや、まだだ」

 スキームは自分に言い聞かせる。

「名を与えられたわけではない。
 役職が公表されたわけでもない」

 そう。公表されていない。
 だからこそ、恐ろしい。

 いつ来るのか分からない。
 どこへ行くのか分からない。
 名乗るのかすら、分からない。

 それは監査ではない。
 待ち伏せだ。

 一方、王宮では、国王が静かに書に目を通していた。ミシェルに渡したものと同じ勅命書。その写しだ。

「……理解しているだろうな」

 誰にともなく呟く。

 彼が欲しいのは、英雄ではない。
 喝采される裁き手でもない。

「憎まれる役目を、淡々と果たす者」

 それができる者は、少ない。

 女であることも、若いことも、婚約破棄も――すべては、その覚悟を測るための“篩”だった。

 翌朝、ミシェルは再び王都へ向かう。

 名を与えられる前の、最後の一歩。
 それは、伯爵としてではなく――

 王の目になる前の、沈黙の時間だった。

 まだ、裁きは始まらない。
 だが、もはや止まることもできない。

 名を呼ばれるその瞬間を、
 王も、伯爵も、そして震え始めた者たちも――
 静かに待っていた。
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