12 / 25
第十二話 恐怖は名を持たずに広がる
しおりを挟む
第十二話 恐怖は名を持たずに広がる
メディオカ伯爵解任の報は、公式文書として発表されるよりも早く、噂として王国内を駆け巡った。
それは不思議な伝わり方をした。
名前が曖昧で、日時も曖昧で、しかし結果だけが異様に鮮明だった。
――突然現れた一行。
――女の伯爵。
――司教を伴っている。
――帳簿を見た。
――無能と断じ、その場で解任。
物語の細部は、語り手ごとに違っていた。
だが、結論だけは一致している。
逆らえば終わる。
王都から離れた地方伯爵領では、領主たちが一斉に帳簿を引っ張り出し、慌ただしく数字を確認し始めた。中には「今さら直しても遅い」と理解しながらも、手を動かさずにはいられない者もいた。
恐怖とは、理性を奪う感情だ。
そして今回の恐怖は、正体が見えない。
いつ来るのか分からない。
どこに現れるか分からない。
名を名乗るのかさえ分からない。
それは疫病に似ていた。
一方、コンシール伯爵邸では、スキームが苛立ちを隠さずにいた。
「……メディオカか」
執務机に置かれた報告書を、何度も読み返す。文字は変わらない。それでも目が離せない。
「無能として解任……?」
不正ではない。
反逆でもない。
ただ、“無能”。
その事実が、スキームを最も苛立たせた。
「馬鹿な……そんな理由で、伯爵を切れるはずが――」
言葉が途中で止まる。
切れる。
切れるのだ。
ミッシ・ドミニチならば。
スキームは、自分がどれほど綿密に不正を隠してきたかを思い出す。帳簿は二重、三重に整え、表からは決して辿れないようにしてある。自分で言うのも何だが、頭の出来には自信があった。
「帳簿を見ただけで……分かるはずがない」
だが、次の報告が、その自信を削り取る。
「司教が同行していたそうです」
「……司教?」
嫌な汗が背中を伝う。
司教は、帳簿を読まない。
だが、人を読む。
「教会修繕費が……どうとか……」
部下の言葉は歯切れが悪い。
「詳しいことは分かりません。ただ、伯爵は破門を恐れて……」
スキームは、無言で手を振った。下がれ、という合図だ。
部屋に一人になると、椅子に深く腰を落とす。
「……最悪だ」
不正を暴かれるよりも、厄介な構図が浮かび上がる。
もし――
あの女伯爵が、自分を“無能”と判断したら?
不正の証拠など要らない。
裁きは、即断で下される。
「……いや、違う」
スキームは首を振る。
「私は無能ではない」
むしろ逆だ。
だからこそ、ここまで領地を拡張できた。だからこそ、資金を動かせた。だからこそ、あの女と婚約し――
そこで、思考が止まる。
「……ミシェル」
婚約していた理由を、今さら思い出す。
彼女は、帳簿に強かった。
数字の流れを見る目があり、違和感を嗅ぎ取る嗅覚があった。
だからこそ、婚約した。
だからこそ、危険を感じた。
だからこそ、切り捨てた。
「……切り捨てた、はずだ」
証拠を掴まれる前に。
情を持たれる前に。
それなのに――
スキームは、報告書を握り潰した。
「まさか……」
最悪の可能性が、脳裏をよぎる。
彼女は、最初から自分を狙っているのではないか。
メディオカは、ただの前座ではないのか。
「……いや、落ち着け」
彼は、深く息を吸う。
「ミッシ・ドミニチは、巡察任務だ。
任地は公表されない。
偶然、あそこに行っただけだ」
そうでなければ、困る。
同じ頃、別の伯爵領では、領主が家臣に怒鳴っていた。
「帳簿を持ってこい! 今すぐだ!」
「ですが……例年どおりで問題は……」
「問題があったから、切られたんだ!」
その怒号は、どこでも似たようなものだった。
恐怖は、連鎖する。
そしてその中心には、名も姿も定まらない存在がいる。
ミシェルは、次の任地へ向かう馬車の中で、静かに外を見ていた。
「噂は、広がっていますね」
ノイマンが、書簡を読みながら言う。
「ええ。意図した以上に」
「よろしいのですか?
恐怖が先行すると、抵抗も強まります」
ミシェルは、首を横に振った。
「いいえ。恐怖が先行するからこそ、抵抗が減る」
ノイマンは、わずかに目を細める。
「……確かに。
罪人は、裁かれるよりも、待つ時間を恐れる」
「名を名乗らないのは、そのためです」
ミシェルは静かに言った。
「裁きは一瞬で終わる。
恐怖は、その前に最大化する」
それは、王の望んだやり方だった。
剣を抜く回数を減らし、
血を流させず、
それでも確実に支配する。
馬車は、次の領地へ向かって進む。
その行き先を知る者は、まだいない。
だが一人だけ、
その影が確実に自分へ近づいていると悟った男がいた。
スキーム・コンシール伯爵。
彼の夜は、
もう、安らぎとは無縁だった。
メディオカ伯爵解任の報は、公式文書として発表されるよりも早く、噂として王国内を駆け巡った。
それは不思議な伝わり方をした。
名前が曖昧で、日時も曖昧で、しかし結果だけが異様に鮮明だった。
――突然現れた一行。
――女の伯爵。
――司教を伴っている。
――帳簿を見た。
――無能と断じ、その場で解任。
物語の細部は、語り手ごとに違っていた。
だが、結論だけは一致している。
逆らえば終わる。
王都から離れた地方伯爵領では、領主たちが一斉に帳簿を引っ張り出し、慌ただしく数字を確認し始めた。中には「今さら直しても遅い」と理解しながらも、手を動かさずにはいられない者もいた。
恐怖とは、理性を奪う感情だ。
そして今回の恐怖は、正体が見えない。
いつ来るのか分からない。
どこに現れるか分からない。
名を名乗るのかさえ分からない。
それは疫病に似ていた。
一方、コンシール伯爵邸では、スキームが苛立ちを隠さずにいた。
「……メディオカか」
執務机に置かれた報告書を、何度も読み返す。文字は変わらない。それでも目が離せない。
「無能として解任……?」
不正ではない。
反逆でもない。
ただ、“無能”。
その事実が、スキームを最も苛立たせた。
「馬鹿な……そんな理由で、伯爵を切れるはずが――」
言葉が途中で止まる。
切れる。
切れるのだ。
ミッシ・ドミニチならば。
スキームは、自分がどれほど綿密に不正を隠してきたかを思い出す。帳簿は二重、三重に整え、表からは決して辿れないようにしてある。自分で言うのも何だが、頭の出来には自信があった。
「帳簿を見ただけで……分かるはずがない」
だが、次の報告が、その自信を削り取る。
「司教が同行していたそうです」
「……司教?」
嫌な汗が背中を伝う。
司教は、帳簿を読まない。
だが、人を読む。
「教会修繕費が……どうとか……」
部下の言葉は歯切れが悪い。
「詳しいことは分かりません。ただ、伯爵は破門を恐れて……」
スキームは、無言で手を振った。下がれ、という合図だ。
部屋に一人になると、椅子に深く腰を落とす。
「……最悪だ」
不正を暴かれるよりも、厄介な構図が浮かび上がる。
もし――
あの女伯爵が、自分を“無能”と判断したら?
不正の証拠など要らない。
裁きは、即断で下される。
「……いや、違う」
スキームは首を振る。
「私は無能ではない」
むしろ逆だ。
だからこそ、ここまで領地を拡張できた。だからこそ、資金を動かせた。だからこそ、あの女と婚約し――
そこで、思考が止まる。
「……ミシェル」
婚約していた理由を、今さら思い出す。
彼女は、帳簿に強かった。
数字の流れを見る目があり、違和感を嗅ぎ取る嗅覚があった。
だからこそ、婚約した。
だからこそ、危険を感じた。
だからこそ、切り捨てた。
「……切り捨てた、はずだ」
証拠を掴まれる前に。
情を持たれる前に。
それなのに――
スキームは、報告書を握り潰した。
「まさか……」
最悪の可能性が、脳裏をよぎる。
彼女は、最初から自分を狙っているのではないか。
メディオカは、ただの前座ではないのか。
「……いや、落ち着け」
彼は、深く息を吸う。
「ミッシ・ドミニチは、巡察任務だ。
任地は公表されない。
偶然、あそこに行っただけだ」
そうでなければ、困る。
同じ頃、別の伯爵領では、領主が家臣に怒鳴っていた。
「帳簿を持ってこい! 今すぐだ!」
「ですが……例年どおりで問題は……」
「問題があったから、切られたんだ!」
その怒号は、どこでも似たようなものだった。
恐怖は、連鎖する。
そしてその中心には、名も姿も定まらない存在がいる。
ミシェルは、次の任地へ向かう馬車の中で、静かに外を見ていた。
「噂は、広がっていますね」
ノイマンが、書簡を読みながら言う。
「ええ。意図した以上に」
「よろしいのですか?
恐怖が先行すると、抵抗も強まります」
ミシェルは、首を横に振った。
「いいえ。恐怖が先行するからこそ、抵抗が減る」
ノイマンは、わずかに目を細める。
「……確かに。
罪人は、裁かれるよりも、待つ時間を恐れる」
「名を名乗らないのは、そのためです」
ミシェルは静かに言った。
「裁きは一瞬で終わる。
恐怖は、その前に最大化する」
それは、王の望んだやり方だった。
剣を抜く回数を減らし、
血を流させず、
それでも確実に支配する。
馬車は、次の領地へ向かって進む。
その行き先を知る者は、まだいない。
だが一人だけ、
その影が確実に自分へ近づいていると悟った男がいた。
スキーム・コンシール伯爵。
彼の夜は、
もう、安らぎとは無縁だった。
0
あなたにおすすめの小説
四人の令嬢と公爵と
オゾン層
恋愛
「貴様らのような田舎娘は性根が腐っている」
ガルシア辺境伯の令嬢である4人の姉妹は、アミーレア国の王太子の婚約候補者として今の今まで王太子に尽くしていた。国王からも認められた有力な婚約候補者であったにも関わらず、無知なロズワート王太子にある日婚約解消を一方的に告げられ、挙げ句の果てに同じく婚約候補者であったクラシウス男爵の令嬢であるアレッサ嬢の企みによって冤罪をかけられ、隣国を治める『化物公爵』の婚約者として輿入という名目の国外追放を受けてしまう。
人間以外の種族で溢れた隣国ベルフェナールにいるとされる化物公爵ことラヴェルト公爵の兄弟はその恐ろしい容姿から他国からも黒い噂が絶えず、ガルシア姉妹は怯えながらも覚悟を決めてベルフェナール国へと足を踏み入れるが……
「おはよう。よく眠れたかな」
「お前すごく可愛いな!!」
「花がよく似合うね」
「どうか今日も共に過ごしてほしい」
彼らは見た目に反し、誠実で純愛な兄弟だった。
一方追放を告げられたアミーレア王国では、ガルシア辺境伯令嬢との婚約解消を聞きつけた国王がロズワート王太子に対して右ストレートをかましていた。
※初ジャンルの小説なので不自然な点が多いかもしれませんがご了承ください
今さら遅いと言われる側になったのは、あなたです
有賀冬馬
恋愛
夜会で婚約破棄された私は、すべてを失った――はずだった。
けれど、人生は思いもよらない方向へ転がる。
助けた騎士は、王の右腕。
見下されてきた私の中にある価値を、彼だけが見抜いた。
王城で評価され、居場所を得ていく私。
その頃、私を捨てた元婚約者は、転落の一途をたどる。
「間違いだった」と言われても、もう心は揺れない。
選ばれるのを待つ時代は、終わった。
【完結】捨てられた悪役令嬢は大公殿下との新たな恋に夢を見る
花草青依
恋愛
卒業パーティで婚約破棄を言い渡されたエレノア。それから間もなく、アーサー大公から縁談の申込みが来たことを知る。新たな恋の始まりにエレノアは戸惑いを隠せないものの、少しずつ二人の距離は縮まって行く。 ■《夢見る乙女のメモリアルシリーズ》1作目 ■王道の恋愛物
あなたのことなんて、もうどうでもいいです
もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。
元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。
不実なあなたに感謝を
黒木メイ
恋愛
王太子妃であるベアトリーチェと踊るのは最初のダンスのみ。落ち人のアンナとは望まれるまま何度も踊るのに。王太子であるマルコが誰に好意を寄せているかははたから見れば一目瞭然だ。けれど、マルコが心から愛しているのはベアトリーチェだけだった。そのことに気づいていながらも受け入れられないベアトリーチェ。そんな時、マルコとアンナがとうとう一線を越えたことを知る。――――不実なあなたを恨んだ回数は数知れず。けれど、今では感謝すらしている。愚かなあなたのおかげで『幸せ』を取り戻すことができたのだから。
※異世界転移をしている登場人物がいますが主人公ではないためタグを外しています。
※曖昧設定。
※一旦完結。
※性描写は匂わせ程度。
※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載予定。
【完結】✴︎私と結婚しない王太子(あなた)に存在価値はありませんのよ?
綾雅(りょうが)要らない悪役令嬢
恋愛
「エステファニア・サラ・メレンデス――お前との婚約を破棄する」
婚約者であるクラウディオ王太子に、王妃の生誕祝いの夜会で言い渡された私。愛しているわけでもない男に婚約破棄され、断罪されるが……残念ですけど、私と結婚しない王太子殿下に価値はありませんのよ? 何を勘違いしたのか、淫らな恰好の女を伴った元婚約者の暴挙は彼自身へ跳ね返った。
ざまぁ要素あり。溺愛される主人公が無事婚約破棄を乗り越えて幸せを掴むお話。
表紙イラスト:リルドア様(https://coconala.com/users/791723)
【完結】本編63話+外伝11話、2021/01/19
【複数掲載】アルファポリス、小説家になろう、エブリスタ、カクヨム、ノベルアップ+
2021/12 異世界恋愛小説コンテスト 一次審査通過
2021/08/16、「HJ小説大賞2021前期『小説家になろう』部門」一次選考通過
白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』
鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」
華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。
王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。
そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。
レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。
「お願いだ……戻ってきてくれ……」
王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。
「もう遅いわ」
愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。
裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。
これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。
【完結】前代未聞の婚約破棄~なぜあなたが言うの?~【長編】
暖夢 由
恋愛
「サリー・ナシェルカ伯爵令嬢、あなたの婚約は破棄いたします!」
高らかに宣言された婚約破棄の言葉。
ドルマン侯爵主催のガーデンパーティーの庭にその声は響き渡った。
でもその婚約破棄、どうしてあなたが言うのですか?
*********
以前投稿した小説を長編版にリメイクして投稿しております。
内容も少し変わっておりますので、お楽し頂ければ嬉しいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる