婚約破棄された伯爵令嬢、王の目となる

鷹 綾

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第十二話 恐怖は名を持たずに広がる

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第十二話 恐怖は名を持たずに広がる

 メディオカ伯爵解任の報は、公式文書として発表されるよりも早く、噂として王国内を駆け巡った。

 それは不思議な伝わり方をした。

 名前が曖昧で、日時も曖昧で、しかし結果だけが異様に鮮明だった。

――突然現れた一行。
――女の伯爵。
――司教を伴っている。
――帳簿を見た。
――無能と断じ、その場で解任。

 物語の細部は、語り手ごとに違っていた。
 だが、結論だけは一致している。

 逆らえば終わる。

 王都から離れた地方伯爵領では、領主たちが一斉に帳簿を引っ張り出し、慌ただしく数字を確認し始めた。中には「今さら直しても遅い」と理解しながらも、手を動かさずにはいられない者もいた。

 恐怖とは、理性を奪う感情だ。
 そして今回の恐怖は、正体が見えない。

 いつ来るのか分からない。
 どこに現れるか分からない。
 名を名乗るのかさえ分からない。

 それは疫病に似ていた。

 一方、コンシール伯爵邸では、スキームが苛立ちを隠さずにいた。

「……メディオカか」

 執務机に置かれた報告書を、何度も読み返す。文字は変わらない。それでも目が離せない。

「無能として解任……?」

 不正ではない。
 反逆でもない。
 ただ、“無能”。

 その事実が、スキームを最も苛立たせた。

「馬鹿な……そんな理由で、伯爵を切れるはずが――」

 言葉が途中で止まる。

 切れる。
 切れるのだ。

 ミッシ・ドミニチならば。

 スキームは、自分がどれほど綿密に不正を隠してきたかを思い出す。帳簿は二重、三重に整え、表からは決して辿れないようにしてある。自分で言うのも何だが、頭の出来には自信があった。

「帳簿を見ただけで……分かるはずがない」

 だが、次の報告が、その自信を削り取る。

「司教が同行していたそうです」

「……司教?」

 嫌な汗が背中を伝う。

 司教は、帳簿を読まない。
 だが、人を読む。

「教会修繕費が……どうとか……」

 部下の言葉は歯切れが悪い。

「詳しいことは分かりません。ただ、伯爵は破門を恐れて……」

 スキームは、無言で手を振った。下がれ、という合図だ。

 部屋に一人になると、椅子に深く腰を落とす。

「……最悪だ」

 不正を暴かれるよりも、厄介な構図が浮かび上がる。

 もし――
 あの女伯爵が、自分を“無能”と判断したら?

 不正の証拠など要らない。
 裁きは、即断で下される。

「……いや、違う」

 スキームは首を振る。

「私は無能ではない」

 むしろ逆だ。
 だからこそ、ここまで領地を拡張できた。だからこそ、資金を動かせた。だからこそ、あの女と婚約し――

 そこで、思考が止まる。

「……ミシェル」

 婚約していた理由を、今さら思い出す。

 彼女は、帳簿に強かった。
 数字の流れを見る目があり、違和感を嗅ぎ取る嗅覚があった。

 だからこそ、婚約した。
 だからこそ、危険を感じた。
 だからこそ、切り捨てた。

「……切り捨てた、はずだ」

 証拠を掴まれる前に。
 情を持たれる前に。

 それなのに――

 スキームは、報告書を握り潰した。

「まさか……」

 最悪の可能性が、脳裏をよぎる。

 彼女は、最初から自分を狙っているのではないか。
 メディオカは、ただの前座ではないのか。

「……いや、落ち着け」

 彼は、深く息を吸う。

「ミッシ・ドミニチは、巡察任務だ。
 任地は公表されない。
 偶然、あそこに行っただけだ」

 そうでなければ、困る。

 同じ頃、別の伯爵領では、領主が家臣に怒鳴っていた。

「帳簿を持ってこい! 今すぐだ!」

「ですが……例年どおりで問題は……」

「問題があったから、切られたんだ!」

 その怒号は、どこでも似たようなものだった。

 恐怖は、連鎖する。

 そしてその中心には、名も姿も定まらない存在がいる。

 ミシェルは、次の任地へ向かう馬車の中で、静かに外を見ていた。

「噂は、広がっていますね」

 ノイマンが、書簡を読みながら言う。

「ええ。意図した以上に」

「よろしいのですか?
 恐怖が先行すると、抵抗も強まります」

 ミシェルは、首を横に振った。

「いいえ。恐怖が先行するからこそ、抵抗が減る」

 ノイマンは、わずかに目を細める。

「……確かに。
 罪人は、裁かれるよりも、待つ時間を恐れる」

「名を名乗らないのは、そのためです」

 ミシェルは静かに言った。

「裁きは一瞬で終わる。
 恐怖は、その前に最大化する」

 それは、王の望んだやり方だった。

 剣を抜く回数を減らし、
 血を流させず、
 それでも確実に支配する。

 馬車は、次の領地へ向かって進む。

 その行き先を知る者は、まだいない。

 だが一人だけ、
 その影が確実に自分へ近づいていると悟った男がいた。

 スキーム・コンシール伯爵。

 彼の夜は、
 もう、安らぎとは無縁だった。
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