婚約破棄された伯爵令嬢、王の目となる

鷹 綾

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第二十一話 善政の仮面

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第二十一話 善政の仮面

 エルンスト伯爵領を発った翌朝、王都では一通の書簡が密やかに回覧されていた。

 内容は簡潔だ。

――東方伯爵領、代官制度に是正命令。
――免責対象者あり。
――即時処断なし。

 それだけで、十分だった。

 王都の貴族たちは、行間を読む。
 処断がないことに安堵する者。
 免責という言葉に眉をひそめる者。
 そして何より――

 「善政家」と呼ばれていた伯爵が、是正対象になった
 その一点に、ざわめきが広がった。

「善政でも、裁かれるのか……」

 誰かが、ぽつりと呟いた。

 それは、恐怖というより、価値観の崩壊だった。

 善くあろうとする姿勢ではなく、
 実際に何をしているかが問われる。

 王国の基準が、明確に一段上がったのだ。

 一方、エルンスト伯爵は、執務室で独り、深く息を吐いていた。

 罷免されなかった。
 拘束もされなかった。
 だが、安堵はない。

「……見抜かれた、か」

 帳簿は完璧だった。
 だが、人は完璧ではなかった。

 彼は、善政を行っていると信じていた。
 多少の負担は、領地の安定のため。
 多少の強制は、秩序のため。

 だが、それは上から見た論理だった。

「匿名の声、か……」

 机の上に置かれた是正命令書を、指でなぞる。

 一か月。
 短い。

 だが、やるしかない。

 代官たちを集め、制度の洗い直しが始まった。
 免責された若い代官は、最前列に座っている。

 視線が合った瞬間、エルンスト伯爵は、わずかに目を伏せた。

 それは、謝罪ではない。
 自覚だった。

 同じ頃、街道を進む馬車の中で、ミシェルは新たな報告書に目を通していた。

「各地で、匿名の訴えが増えています」

 ノイマンが言う。

「名前は?」

「ありません。
 ですが、内容は具体的です」

 ミシェルは、頷いた。

「声を上げる“型”が、でき始めていますね」

 恐怖だけの巡察なら、声は出ない。
 だが、救われる前例があれば、人は話す。

「……それでも、危うい」

 ノイマンが、低く言った。

「訴えを装った、
 私怨や虚偽も、必ず混じります」

「ええ」

 ミシェルは、視線を上げる。

「だからこそ、
 すべてを信じない」

 書簡を机に置き、指を組む。

「帳簿も、人も、声も。
 信じる前に、照合する」

 それが、ミッシ・ドミニチのやり方だった。

 次の書類には、見慣れた爵位が記されている。

 侯爵。

 評価は、高い。
 軍事、外交、治安。
 どれも優秀。

 だが、備考欄に、短い注釈がある。

――「教会からの、照会あり」

 ミシェルの指が、止まった。

「……司教側から、先に来ましたか」

 ノイマンは、静かに頷く。

「精神面の歪みは、
 数字より先に、祈りに現れます」

 侯爵。

 伯爵位までなら独断で処断できる。
 だが、侯爵は違う。

 即断はできない。
 王都での裁きが必要になる。

「それでも――」

 ミシェルは、静かに言った。

「逃げ道は、ありません」

 侯爵は、国境を守る。
 任地を離れられない。
 巡察を避けることは、できない。

 武が強すぎる者。
 地位が高すぎる者。

 だからこそ、
 知が先に入る。

 ノイマンが、外套を整えた。

「次は、私の出番が多くなりそうですね」

「ええ」

 ミシェルは、わずかに微笑んだ。

「あなたの言葉は、
 剣より深く刺さる」

 馬車は、進路を変える。

 次の相手は、
 剣では倒れない。

 善政の仮面を被った、
 高位の存在だった。
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