37 / 40
第37話 揺れる正しさ
しおりを挟む
第37話 揺れる正しさ
初めての現場から戻って数日、ウェイフの頭は休まらなかった。
書庫にこもり、帳簿と報告書を何度も読み返す。
数字は動かない。だが、数字の裏にある事情は、読むたびに形を変えて見えた。
(……正しいこと、とは)
施療院の院長の顔が、何度も脳裏に浮かぶ。
疲労の色を隠そうとする目。
違法と知りつつも、そうせざるを得ない事情。
善意だけでは回らない。
だが、不正を見過ごせば、別の誰かが傷つく。
朝、アバルトが書斎に顔を出した。
「随分、考え込んでいるな」
「……はい」
正直に答える。
「答えが、すぐに出ない問題です」
「それでいい」
彼は、椅子に腰を下ろす。
「簡単に答えが出るなら、
誰かがすでにやっている」
その言葉に、少し肩の力が抜けた。
「今回の件について、
中央からも意見が来ている」
「……どんな?」
「“違法の可能性がある以上、
是正を求めるべき”」
予想通りの反応だ。
「ですが」
アバルトは、続ける。
「即時停止すれば、
施療院は半年ももたない」
ウェイフは、静かに目を伏せた。
(……切り捨てるのは、簡単)
だが、それは“正しさ”なのか。
昼前、影武者の老人も交えて、簡単な会合が開かれた。
「選択肢は、三つだ」
老人が、指を折る。
「一つ、
不正を告発し、是正を命じる。
施療院は潰れる」
「二つ、
黙認し、現状維持。
いずれ、もっと大きな問題になる」
「三つ」
一瞬、言葉を切る。
「仕組みを変える。
だが、時間も金もかかる」
ウェイフは、黙って聞いていた。
「……私は」
やがて、口を開く。
「三つ目を、選びたいです」
老人が、苦笑する。
「一番、厄介な道だな」
「分かっています」
それでも、目は逸らさない。
「でも……
現場を見てしまった以上、
他の選択肢は、
私には取れません」
アバルトが、静かに言った。
「理由を、聞こう」
「不正は、確かに間違いです」
言葉を選びながら、続ける。
「でも……
あの人たちは、
贅沢のためにやっているわけではない」
「だからといって、
許されるわけではない」
「はい」
即座に頷く。
「だからこそ、
“やらなくて済む状況”を
作る必要があります」
沈黙。
やがて、影武者の老人がため息をついた。
「……理想論だ」
「そうかもしれません」
ウェイフは、静かに返す。
「でも、
誰かが始めなければ、
ずっと同じです」
老人は、しばらく黙ってから言った。
「……覚悟はあるか」
「あります」
迷いはなかった。
午後、ウェイフは再び資料に向かった。
施療院単体では、立ち行かない。
だが、複数を束ねれば、交渉力が生まれる。
(……共同調達)
医薬品を一括で仕入れ、
価格を抑える。
横流しに頼らずに済む。
(……監査と支援を、同時に)
締め付けるだけでは、人は逃げる。
支える仕組みと、確認する仕組みを、同時に。
夜、書庫の灯りが遅くまで消えなかった。
「……まだ起きているのか」
アバルトが、静かに声をかける。
「はい。
少し……形が見えてきました」
机の上には、走り書きの案が広がっている。
「完璧ではありません」
ウェイフは、正直に言った。
「穴も、あります」
「それでいい」
アバルトは、紙に目を落とす。
「完璧な制度は、
現場を知らない者が作る」
その言葉に、胸が熱くなる。
「……揺れています」
ウェイフは、ぽつりと告げた。
「正しさ、が」
アバルトは、少し考えてから答えた。
「揺れるのは、
見ている証拠だ」
断言ではなく、静かな事実。
「揺れなくなったら、
それは“判断”ではなく、
“決めつけ”になる」
ウェイフは、深く息を吐いた。
(……揺れていい)
迷っていい。
悩んでいい。
それは、
逃げていない証だから。
灯りを落とす前、
帳面に一行だけ書き留める。
――正しさは、一つではない。
だが、目を逸らさなければ、
近づくことはできる。
ウェイフは、静かに目を閉じた。
揺れる正しさの中で、
それでも一歩、前へ進む覚悟を、
確かに胸に抱きながら。
初めての現場から戻って数日、ウェイフの頭は休まらなかった。
書庫にこもり、帳簿と報告書を何度も読み返す。
数字は動かない。だが、数字の裏にある事情は、読むたびに形を変えて見えた。
(……正しいこと、とは)
施療院の院長の顔が、何度も脳裏に浮かぶ。
疲労の色を隠そうとする目。
違法と知りつつも、そうせざるを得ない事情。
善意だけでは回らない。
だが、不正を見過ごせば、別の誰かが傷つく。
朝、アバルトが書斎に顔を出した。
「随分、考え込んでいるな」
「……はい」
正直に答える。
「答えが、すぐに出ない問題です」
「それでいい」
彼は、椅子に腰を下ろす。
「簡単に答えが出るなら、
誰かがすでにやっている」
その言葉に、少し肩の力が抜けた。
「今回の件について、
中央からも意見が来ている」
「……どんな?」
「“違法の可能性がある以上、
是正を求めるべき”」
予想通りの反応だ。
「ですが」
アバルトは、続ける。
「即時停止すれば、
施療院は半年ももたない」
ウェイフは、静かに目を伏せた。
(……切り捨てるのは、簡単)
だが、それは“正しさ”なのか。
昼前、影武者の老人も交えて、簡単な会合が開かれた。
「選択肢は、三つだ」
老人が、指を折る。
「一つ、
不正を告発し、是正を命じる。
施療院は潰れる」
「二つ、
黙認し、現状維持。
いずれ、もっと大きな問題になる」
「三つ」
一瞬、言葉を切る。
「仕組みを変える。
だが、時間も金もかかる」
ウェイフは、黙って聞いていた。
「……私は」
やがて、口を開く。
「三つ目を、選びたいです」
老人が、苦笑する。
「一番、厄介な道だな」
「分かっています」
それでも、目は逸らさない。
「でも……
現場を見てしまった以上、
他の選択肢は、
私には取れません」
アバルトが、静かに言った。
「理由を、聞こう」
「不正は、確かに間違いです」
言葉を選びながら、続ける。
「でも……
あの人たちは、
贅沢のためにやっているわけではない」
「だからといって、
許されるわけではない」
「はい」
即座に頷く。
「だからこそ、
“やらなくて済む状況”を
作る必要があります」
沈黙。
やがて、影武者の老人がため息をついた。
「……理想論だ」
「そうかもしれません」
ウェイフは、静かに返す。
「でも、
誰かが始めなければ、
ずっと同じです」
老人は、しばらく黙ってから言った。
「……覚悟はあるか」
「あります」
迷いはなかった。
午後、ウェイフは再び資料に向かった。
施療院単体では、立ち行かない。
だが、複数を束ねれば、交渉力が生まれる。
(……共同調達)
医薬品を一括で仕入れ、
価格を抑える。
横流しに頼らずに済む。
(……監査と支援を、同時に)
締め付けるだけでは、人は逃げる。
支える仕組みと、確認する仕組みを、同時に。
夜、書庫の灯りが遅くまで消えなかった。
「……まだ起きているのか」
アバルトが、静かに声をかける。
「はい。
少し……形が見えてきました」
机の上には、走り書きの案が広がっている。
「完璧ではありません」
ウェイフは、正直に言った。
「穴も、あります」
「それでいい」
アバルトは、紙に目を落とす。
「完璧な制度は、
現場を知らない者が作る」
その言葉に、胸が熱くなる。
「……揺れています」
ウェイフは、ぽつりと告げた。
「正しさ、が」
アバルトは、少し考えてから答えた。
「揺れるのは、
見ている証拠だ」
断言ではなく、静かな事実。
「揺れなくなったら、
それは“判断”ではなく、
“決めつけ”になる」
ウェイフは、深く息を吐いた。
(……揺れていい)
迷っていい。
悩んでいい。
それは、
逃げていない証だから。
灯りを落とす前、
帳面に一行だけ書き留める。
――正しさは、一つではない。
だが、目を逸らさなければ、
近づくことはできる。
ウェイフは、静かに目を閉じた。
揺れる正しさの中で、
それでも一歩、前へ進む覚悟を、
確かに胸に抱きながら。
4
あなたにおすすめの小説
地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに
有賀冬馬
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。
選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。
地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。
失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。
「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」
彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。
そして、私は彼の正妃として王都へ……
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
新婚初夜に『白い結婚にしてほしい』と言われたので論理的に詰めたら夫が泣きました
ささい
恋愛
「愛人がいるから、白い結婚にしてほしい」
政略結婚の初夜にそう告げた夫ルーファス。
妻カレンの反応は——
「それ、契約不履行ですよね?」
「あなたの感情論、論理的に破綻してますよ?」
泣き落としは通じない。
そして初夜の翌朝、夫は泣いていた。
逃げ道は全部塞がれ、気づけば毎日論破されていた。
これは、論破され続けた夫がなぜか幸せになる話。
【完結】好きでもない私とは婚約解消してください
里音
恋愛
騎士団にいる彼はとても一途で誠実な人物だ。初恋で恋人だった幼なじみが家のために他家へ嫁いで行ってもまだ彼女を思い新たな恋人を作ることをしないと有名だ。私も憧れていた1人だった。
そんな彼との婚約が成立した。それは彼の行動で私が傷を負ったからだ。傷は残らないのに責任感からの婚約ではあるが、彼はプロポーズをしてくれた。その瞬間憧れが好きになっていた。
婚約して6ヶ月、接点のほとんどない2人だが少しずつ距離も縮まり幸せな日々を送っていた。と思っていたのに、彼の元恋人が離婚をして帰ってくる話を聞いて彼が私との婚約を「最悪だ」と後悔しているのを聞いてしまった。
私ってわがまま傲慢令嬢なんですか?
山科ひさき
恋愛
政略的に結ばれた婚約とはいえ、婚約者のアランとはそれなりにうまくやれていると思っていた。けれどある日、メアリはアランが自分のことを「わがままで傲慢」だと友人に話している場面に居合わせてしまう。話を聞いていると、なぜかアランはこの婚約がメアリのわがままで結ばれたものだと誤解しているようで……。
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる