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第一話 母のいない家
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第一話 母のいない家
公爵家の朝は、いつも静かだ。
静かすぎて、時折、息が詰まりそうになるほどに。
「お嬢様、本日の帳簿でございます」
控えめに差し出された書類を受け取りながら、セリシア・ルヴァリエは小さく頷いた。
「ありがとう。食糧庫の在庫は?」
「北の領地からの小麦が予定より少なく……」
「では南の商会に回しますわ。価格は据え置きで。信用を失うほうが高くつきますもの」
淡々と指示を出し、ペンを走らせる。
公爵家の収支、商会との取引、領地の人員配置。すべての決裁は、いまや彼女の机を通っていた。
――もっとも、それを知る者は少ない。
「まあ、お姉様ったら。また難しいお顔をなさって」
軽やかな声が、重い空気を切り裂いた。
振り向かなくても分かる。
ミレイナ・ルヴァリエ。
継母が連れてきた、血の繋がらない妹。
ふわりとした桃色のドレスに身を包み、まるで絵画から抜け出したような愛らしさを振りまいている。
「そんな怖いお顔をしていると、使用人たちが萎縮してしまいますわ」
くすくす、と可憐に笑う。
セリシアはゆっくりと顔を上げた。
「怖い、かしら」
「ええ。氷の令嬢、ですって。ご存じ?」
楽しげな声音。
悪意を隠そうともしない無邪気さ。
セリシアは微笑んだ。
「そう。便利な呼び名ですこと」
氷の令嬢。
感情のない女。
冷酷な公爵令嬢。
どれも、好きに呼べばいい。
泣きもせず、怒鳴りもせず、黙々と働いていれば、そう見えるのだろう。
「ミレイナ」
静かに名を呼ぶ。
「王宮からの招待状は?」
「あら、それなら昨日届いておりますわ。舞踏会ですって。レオンハルト殿下も出席なさるとか」
わざとらしく頬を染める。
セリシアの婚約者。
王太子レオンハルト・ヴァルディア。
幼い頃から定められていた縁。
……もっとも、最近はその立場すら、曖昧になりつつあった。
「お姉様、殿下と最近お会いになって?」
「いいえ」
「まあ、寂しいこと」
くすくすと笑いながら、ミレイナは机の上の帳簿に指先を伸ばす。
「こんなもの、侍従に任せればよろしいのに。お姉様は公爵令嬢なのですから」
「任せて、滞れば困るでしょう」
「でも、殿下はきっと、もっと柔らかい女性をお好みになりますわ」
柔らかい。
つまり、自分のように。
セリシアはゆっくりとペンを置いた。
「殿下のお好みを、あなたが決めるの?」
「決めるだなんて。そんな恐れ多い……ただ、最近はよくお話をさせていただいておりますの」
にっこりと微笑む。
勝ち誇ったような笑み。
そのとき、扉が開いた。
「セリシア」
低い声。
アルドリック・ルヴァリエ、公爵。
父。
「お前に話がある」
重々しい表情。
だが、その視線はどこか落ち着かない。
「なんでしょう」
「王宮の舞踏会だが……レオンハルト殿下と、ミレイナが並ぶことになる」
静寂。
風の音すら、聞こえなくなる。
「……そう」
「家のためだ」
出た。
その言葉。
「最近、王太子殿下はミレイナを大層気に入っておられる。王家との関係を強めるには、こちらのほうが――」
「父上」
セリシアは穏やかに遮った。
「私は、婚約者ではございませんでしたか」
「それは……」
言葉が詰まる。
代わりに、ミレイナが一歩前に出た。
「お姉様、ごめんなさい。わたくし、望んでいるわけではないの。でも、殿下が……」
うるんだ瞳。
震える声。
完璧な被害者。
セリシアは、ただ見つめた。
父は目を逸らす。
「いまは家の安定が第一だ。お前には、理解してほしい」
理解。
理解しろ。
我慢しろ。
黙っていろ。
それが、ここ数年で何度聞いた言葉か。
母が亡くなってから、家は変わった。
帳簿は乱れ、使用人は入れ替わり、領地の収穫は落ちた。
それを立て直してきたのは誰か。
だが、その名は表に出ない。
「承知いたしました」
セリシアは静かに頭を下げた。
父は安堵の息を漏らす。
ミレイナは、ほんの一瞬だけ、勝ち誇った目をした。
「舞踏会には出席いたします」
「……そうか」
「ただし」
ゆっくりと顔を上げる。
「その結果が、どのような形になろうとも。わたくしは、受け入れます」
静かな声。
だが、どこか硬質な響き。
父は気づかない。
ミレイナも気づかない。
この家は、もう綱渡りの上に立っている。
公爵家の財務の鍵は。
商会との契約の署名は。
領地管理の実権は。
すべて――
セリシアの手にあることを。
彼女は再び帳簿を開いた。
数字が並ぶ。
冷静な現実。
氷の令嬢と呼ばれても構わない。
だが。
奪うのなら。
覚悟は必要だ。
ペン先が、静かに音を立てた。
舞踏会まで、あと三日。
公爵家の運命が、ゆっくりと、音を立てずに軋み始めていた。
公爵家の朝は、いつも静かだ。
静かすぎて、時折、息が詰まりそうになるほどに。
「お嬢様、本日の帳簿でございます」
控えめに差し出された書類を受け取りながら、セリシア・ルヴァリエは小さく頷いた。
「ありがとう。食糧庫の在庫は?」
「北の領地からの小麦が予定より少なく……」
「では南の商会に回しますわ。価格は据え置きで。信用を失うほうが高くつきますもの」
淡々と指示を出し、ペンを走らせる。
公爵家の収支、商会との取引、領地の人員配置。すべての決裁は、いまや彼女の机を通っていた。
――もっとも、それを知る者は少ない。
「まあ、お姉様ったら。また難しいお顔をなさって」
軽やかな声が、重い空気を切り裂いた。
振り向かなくても分かる。
ミレイナ・ルヴァリエ。
継母が連れてきた、血の繋がらない妹。
ふわりとした桃色のドレスに身を包み、まるで絵画から抜け出したような愛らしさを振りまいている。
「そんな怖いお顔をしていると、使用人たちが萎縮してしまいますわ」
くすくす、と可憐に笑う。
セリシアはゆっくりと顔を上げた。
「怖い、かしら」
「ええ。氷の令嬢、ですって。ご存じ?」
楽しげな声音。
悪意を隠そうともしない無邪気さ。
セリシアは微笑んだ。
「そう。便利な呼び名ですこと」
氷の令嬢。
感情のない女。
冷酷な公爵令嬢。
どれも、好きに呼べばいい。
泣きもせず、怒鳴りもせず、黙々と働いていれば、そう見えるのだろう。
「ミレイナ」
静かに名を呼ぶ。
「王宮からの招待状は?」
「あら、それなら昨日届いておりますわ。舞踏会ですって。レオンハルト殿下も出席なさるとか」
わざとらしく頬を染める。
セリシアの婚約者。
王太子レオンハルト・ヴァルディア。
幼い頃から定められていた縁。
……もっとも、最近はその立場すら、曖昧になりつつあった。
「お姉様、殿下と最近お会いになって?」
「いいえ」
「まあ、寂しいこと」
くすくすと笑いながら、ミレイナは机の上の帳簿に指先を伸ばす。
「こんなもの、侍従に任せればよろしいのに。お姉様は公爵令嬢なのですから」
「任せて、滞れば困るでしょう」
「でも、殿下はきっと、もっと柔らかい女性をお好みになりますわ」
柔らかい。
つまり、自分のように。
セリシアはゆっくりとペンを置いた。
「殿下のお好みを、あなたが決めるの?」
「決めるだなんて。そんな恐れ多い……ただ、最近はよくお話をさせていただいておりますの」
にっこりと微笑む。
勝ち誇ったような笑み。
そのとき、扉が開いた。
「セリシア」
低い声。
アルドリック・ルヴァリエ、公爵。
父。
「お前に話がある」
重々しい表情。
だが、その視線はどこか落ち着かない。
「なんでしょう」
「王宮の舞踏会だが……レオンハルト殿下と、ミレイナが並ぶことになる」
静寂。
風の音すら、聞こえなくなる。
「……そう」
「家のためだ」
出た。
その言葉。
「最近、王太子殿下はミレイナを大層気に入っておられる。王家との関係を強めるには、こちらのほうが――」
「父上」
セリシアは穏やかに遮った。
「私は、婚約者ではございませんでしたか」
「それは……」
言葉が詰まる。
代わりに、ミレイナが一歩前に出た。
「お姉様、ごめんなさい。わたくし、望んでいるわけではないの。でも、殿下が……」
うるんだ瞳。
震える声。
完璧な被害者。
セリシアは、ただ見つめた。
父は目を逸らす。
「いまは家の安定が第一だ。お前には、理解してほしい」
理解。
理解しろ。
我慢しろ。
黙っていろ。
それが、ここ数年で何度聞いた言葉か。
母が亡くなってから、家は変わった。
帳簿は乱れ、使用人は入れ替わり、領地の収穫は落ちた。
それを立て直してきたのは誰か。
だが、その名は表に出ない。
「承知いたしました」
セリシアは静かに頭を下げた。
父は安堵の息を漏らす。
ミレイナは、ほんの一瞬だけ、勝ち誇った目をした。
「舞踏会には出席いたします」
「……そうか」
「ただし」
ゆっくりと顔を上げる。
「その結果が、どのような形になろうとも。わたくしは、受け入れます」
静かな声。
だが、どこか硬質な響き。
父は気づかない。
ミレイナも気づかない。
この家は、もう綱渡りの上に立っている。
公爵家の財務の鍵は。
商会との契約の署名は。
領地管理の実権は。
すべて――
セリシアの手にあることを。
彼女は再び帳簿を開いた。
数字が並ぶ。
冷静な現実。
氷の令嬢と呼ばれても構わない。
だが。
奪うのなら。
覚悟は必要だ。
ペン先が、静かに音を立てた。
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