婚約破棄? では、その誠実さはどちらに置いていらしたのですか?

鷹 綾

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第三話 父は見ない

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第三話 父は見ない

 昼下がりの書斎は、重たいカーテンに遮られ、薄暗かった。

 アルドリック・ルヴァリエは椅子にもたれ、額を押さえている。

 机の上には、未処理の書類が山のように積まれていた。

 その大半は、セリシアがすでに目を通し、必要箇所に付箋を貼ってあるものだ。

「父上」

 静かに呼びかける。

「……なんだ」

「北の領地の税収が予定より下回っております。原因は輸送費の増加です。港の契約を見直す必要がございます」

「そうか……」

 気のない返事。

 視線は書類ではなく、窓の外へ向いている。

「対応を決めていただかねば、来月の支払いが滞ります」

「お前に任せる」

「最終決裁は父上でなければなりません」

「だから任せると言っているだろう!」

 声が荒くなる。

 だが怒りというより、苛立ちと疲労の混ざった響きだった。

 セリシアは黙った。

 父は、決めない。

 決めることを恐れている。

「最近はな……」

 アルドリックがぽつりと漏らす。

「家の空気が重い」

「……」

「お前が、いつも難しい顔をしているからだ」

 その言葉に、セリシアはわずかに瞬いた。

「わたくしの、せいですか」

「お前は優秀だ。だが冷たい。ミレイナのように、もう少し柔らかくなれんのか」

 柔らかい。

 またその言葉。

「父上」

 セリシアは机の端に置かれた帳簿を開いた。

「こちらをご覧ください」

 数字が並ぶ。

 赤い印がつけられた箇所。

「昨年からの損失は、継母上の新規投資によるものです。採算が取れておりません」

「エルヴィラが?」

「はい」

 父は顔をしかめた。

「だがあれは、社交界での立場を強めるための……」

「結果が伴わねば、家は傾きます」

 静かな声。

 責める調子はない。

 ただ、事実を並べているだけ。

「ミレイナの持参金も、予定額に達しておりません」

「それは……」

「王太子殿下との縁が成立すれば、問題ないとお考えですか」

 父は沈黙した。

 図星。

「殿下が婚約を破棄なさった場合、我が家はどうなりますか」

「破棄など……」

「可能性の話です」

 父は目を逸らす。

 見ない。

 聞かない。

 考えない。

 セリシアはゆっくりと帳簿を閉じた。

「父上は、わたくしが冷たいとおっしゃいました」

「……」

「ですが、家を守るために必要なのは、涙ではございません」

 言い切る。

 アルドリックの顔が曇る。

「お前は昔からそうだ。正論ばかりだ」

「事実でございます」

「だがな、家は感情で動くこともあるのだ!」

 感情。

 それがいまの公爵家を揺らしている。

 そのとき、ノックもなく扉が開いた。

「まあ、難しいお話?」

 エルヴィラが現れる。

 紫のドレスを揺らし、柔らかな微笑みを浮かべている。

「あなた、そんな怖い顔をなさらないで。セリシアも、もう少し優しく言えないの?」

「優しく、とは」

「父親を責めるような物言いは、家族としていかがかしら」

 エルヴィラは父の肩に手を置いた。

「あなたはお疲れなのよ。最近、舞踏会の準備で大変なのだから」

「そうだ……舞踏会がある」

 父は安堵したように話題を変える。

「レオンハルト殿下とミレイナが並ぶのだ。失敗は許されん」

 セリシアは視線を落とした。

 家の財務より、舞踏会。

 損失より、体裁。

「セリシア」

 エルヴィラがにこやかに言う。

「あなたは控えめにしてちょうだい。目立つ必要はないわ」

「……承知いたしました」

「それと、舞踏会後の資金については、こちらで管理することにしたわ」

 さらりと告げられた言葉。

「管理、とは」

「あなたも忙しいでしょう? 細かいことはわたくしが」

 父が頷く。

「そうだな。エルヴィラに任せよう」

 決定。

 相談もなく。

 セリシアは一瞬だけ目を閉じた。

 ――そう。

 それでよろしいのですね。

「承知いたしました」

 父はほっとしたように笑う。

 エルヴィラは満足げに微笑む。

 書斎を出たあと、廊下はやけに長く感じられた。

 管理を奪われる。

 だが。

 名義までは奪えない。

 署名の重みも、理解していない。

 彼らは、表面だけを見ている。

 セリシアは立ち止まり、窓の外を見た。

 庭では、ミレイナが王宮から届いた花束を抱えている。

 誇らしげな笑顔。

 きっと、舞踏会ではあの笑顔が勝利を飾る。

 父は胸を張る。

 継母は満足する。

 王太子は酔いしれる。

 そのとき。

 足元の土台が、すでに脆くなっていることに気づくだろうか。

 見ない者に、見えるはずがない。

 セリシアは再び歩き出した。

 冷たいと呼ばれても構わない。

 だが、冷静であることは、罪ではない。

 舞踏会まで、あと一日。

 公爵家の歯車は、静かに軋みを増していた。
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