Smile for you

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Smile for you

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 その日の朝の目覚めは、僕の人生史上最悪のものだった。

「……っ!!!!!」

 普段ならばスマホのスヌーズ機能が匙を投げるほど簡単には目を覚まさない僕が、その朝に限っては、まだ一度目のアラーム音が鳴る前だというのに、一瞬で瞳孔が全開になるほど鮮明に覚醒した。声を上げることもできないほどの猛烈な激痛によって。
 脈の鼓動に合わせて、頭の芯をハンマーで殴り付けるような痛みが、右の足先から波打って広がる。その出処を確認しようにも微動だに出来ない。身体を動かそうものなら、伝わった振動が、耐え難い疼痛とうつうとなって全身を駆け巡る。
 僕の全身から噴き出した冷や汗で、いつの間にか寝巻きやシーツは水をかぶったようにびしょ濡れになっていた。
 尋常じゃない僕の形相に驚いた母がすぐさま救急車を呼び、朝から我が家の周りにご近所さんが集まる事態となった。

   ***

「おそらく痛風ね。血液検査で尿酸値をはかりましょう」

 若い女医があっさりした声で宣告した。
 こちらはホントに死ぬかと思うほどの、未知の痛みに気が気ではなかったというのに。
 痛風といえば、いわゆる“贅沢病”というやつではなかったか? 酒呑みの肥えた中年男性がかかるという……。
 待て待て、僕は健康優良な大学生。今年成人式を迎えたばかりのピチピチの新成人だぞ。
 確かに成人式後の同窓会では調子に乗って飲みすぎたし、焼き肉も大好きだけど、それにしたって贅沢だと言われるほどの生活をした覚えはない。

「この若さで……嘘だと……言ってくれ」

 現実を受け止められない僕は、懇願するような声を振り絞る。

「私は診察で嘘はつかないわ。えーと、宮田颯平みやたそうへいクン。なにか勘違いしてるかもしれないけど、痛風の原因は遺伝的要因が大きいのよ。おそらく尿酸が溜まり易い体質なのかもね。お父さんとかお爺さんも痛風じゃないかしら?」

 僕はフルフルと力なく首を横に振った。

「そう。まぁ遺伝が多いけど、そうじゃないこともあるしね。痛み止めを出しておくから、痛みが強いとき飲んでね。あと胃の粘膜を保護する胃薬も一緒にね。尿酸値を下げる薬は検査の結果を見て決めましょう」

 もう帰っていいですよと、僕は診察室を追われ、迎えに来た母の車でその日のうちに帰宅した。
 今は薬で治まっているが、痛みは三日から一週間ほど続くらしい。経験的に言えば骨折や脱臼に匹敵する痛みが、だ。風が吹き抜けるように痛みが全身を駆け巡ることから名づけられたその名前は伊達じゃなかった。
 僕は腫れと痛みが完全に引くまで大学を休むことを母へ進言した。二十歳で痛風など恥ずかしくて公開できたものではない。
 しかしその要求は「松葉杖ついてでも通え」とバッサリと切って落とされた。がっくりと肩を落とす僕のお腹の虫がグーッと大きな声で鳴いた。
 かくして壮絶なる一日は幕を閉じた。

   ***

 痛風の発作を起こしてから一ヶ月。
 あの時の痛みは遠い過去のことのように、だんだんと記憶の彼方へ消えていき、今では酒宴の席の語り草となっていた。アルコールを控えろという忠告も記憶の彼方。
 検査の結果は女医の予想通り、投薬治療が必要な値の尿酸値が検出された。女医が言うには、おそらく身体から尿酸が排出されにくいという体質とのことだ。今は尿酸の排出を補助する薬と、尿酸の生成を抑える薬を併用して服用している。
 この体質に関しては改善できるものではなく、継続した投薬治療が必要だ。一生これらの薬が手離せない不幸を思うと、自分の不運を呪った。
 何せ大好きな肉もお酒も控えろというのだから。そんなストレスの反動からか僕の腹の虫は毎日毎日エネルギーを欲するのだ。日に日に僕の食欲は増していった。
 その上、薬を飲んでいるんだから平気だろうと、立て続けに大学の仲間と飲み会(合コンでないのが悲しいところだ)を催していたところ……。
 ある宴会の翌日、僕は二度目の地獄を見ることになったのだ。宅飲み会場でざこ寝していたところ発症。後輩宅に救急車を呼ぶ始末。
 なんでこの痛みを忘れられていたのか不思議なほど、僕は人目も憚らず激痛にのたうち回った。
 朝の空腹と二日酔いの気持ち悪さも重なって、僕は早くも人生史上最悪をあっさり更新するのだった。
 そんなときでも僕のお腹はグーっと食べ物を要求するのだから、我ながら恥ずかしい。恥の上塗りとはこのことか。
 そして搬送された病院で女医にカルテチョップをくらったことは言うまでもない。

「このペースで発作繰り返してたらあんた死ぬわよ」

「どこかの占い師ですか!?」

 スパーンとカルテのバインダーが飛んでくる。カルテは患者を叩く道具じゃない!

「検査します!」

「え、検査って前もしたじゃん」

「今度はもっと詳しく。いくらお酒を飲んだとは言っても、その若さで通院もしているのに発作の間隔が狭すぎるわ。死にたくないなら受けなさい」

「せんせー今持ち合わせが……」

「つけとくわ」

「できるの!?」

 こうして俺は奥の検査室へと連行された。僕のお腹がグーッと大きな音をたてる。

   ***

 それから三日後。
 先月切った髪がもうボサボサになってきたので美容院にでも行こうかと考えていたところに、病院から連絡が入った。検査の結果が出たから今すぐ来いとの御達しだった。
 僕はというと、まだ腫れの引かない足の他に、しばしば手足の関節に軽い炎症を起こしていたので、そちらの診断も仰ぎたくてすぐにそれに応じた。
 わさわさとウザったくなっている前髪も気になったが、昔から健康だけが取り柄だった僕が、今では痛風持ちの関節痛持ちになってしまったことを思うと、まぁ病院の方が優先だろう。
 体質の問題だから仕方がないとはいえ、僕の周りにはブルーな空気がたちこめていた。僕はポリポリと頭を掻いて、伸びた爪を見てとぽそりとつぶやいた。

「あれ? 爪……いつ切ったっけか。もう伸びたのか、めんどくせー」

 病院へ着くと、結構混んでいるはずなのにすぐに診察室に通された。
 なんだか妙だなとも思ったが、検査の結果を伝えるだけですぐ済むからだろうと特に気にしなかった。

「今日から 一週間検査入院してもらいます」

「へ?」

 待っていたのは唐突なその一言だった。

   ***

 わけもわからぬまま入院が決まったその日のうちから 、仰々しい機器を使った検査を三つも受けた。
 そして、その日のうちに一週間の検査入院から無期限の治療入院になると告げられた。
 僕はたまらず女医に説明を求める。

「後天性過剰代謝症候群。それがあなたのかかっている病気よ」

「こ……こうてん……かじょう……?」

「そう、あなたの細胞は常人とは比べ物にならないスピードで代謝を繰り返しているのよ」

「はぁ……?」

「尿酸は細胞代謝の老廃物よ。そりゃ痛風にもなるわね」

「もしかして髪とか爪が早く伸びるのも?」

「そうね」 グ~~!!

 女医の声を消すほどの大きな音が僕のお腹からこだまする。

「その空腹も、代謝に必要なエネルギーを体が欲しているからよ」

「なぁあんだ!そんなことか。なんかヤバい病気かと思った」

「ヤバいわよ。説明聞いてた?」

「へ?」

「細胞の代謝が早いということは、それだけ早く歳をとるということよ。しかもこの奇病は年齢を重ねるごとに代謝スピードが加速していくというところ。症例の少ない珍しい病気だけど、十一年前の報告ではこの病気にかかったアメリカの 二十代の男性が たった五年で老衰死したわ。亡くなるときはもうヨボヨボのお爺さんだったそうよ」

 女医の話に僕の顔はどんどん血の気を失っていった。

「は? 五年って……? じゃあ俺も? あと五 年で……お爺ちゃんになるの!? ま、まだ女の子と付き合ったこともないんだぜ!!」

 窓ガラスに映った自分の身体を見る。まったく違和感のない年相応の僕の姿があった。いや、多少老け顔だとは言われることはあるが……。それでも 五年でお爺さんなんて、そんな奇想天外な話には全く現実感が持てなかった。
 僕がまだ若い体でいられるのは発症したばかりだからと女医は言う。早老病と呼ばれる病があるが、この病気が異なる点は急にアルツハイマーなどの老化現象が現れるのではなく、あくまで早く歳をとっていくだけだというのだ。
 何もしなければ来年の誕生日には僕はめでたく 二十五歳という肉体のピークを迎え、その後急速に加速した代謝によって再来年には三十路を通り過ぎて 四十路の身体となるらしい。
 そして 五年後には 八十を超える……。

「そんな……ウラシマタロウじゃあるまいし……」

「わたしは狙っている男と父親以外に嘘をついたことはないのよ」

「……もしかして狙ってる?」

 僕は自分の顔を指さして、引きつった笑顔で一応聞いてみる。

 女医はニッコリと笑って一言。

「ワイルドピッチ」

 野球に詳しくない僕でもわかった素晴らしい喩えだった。

   ***

 入院生活はそれは退屈なものだった。
 なにせ僕の身体には悪いところがない。今のところ。
 ただ毎日の点滴と、毎日毎日何らかの検査を強いられ、毎日毎日毎日ベッドの上で過ごすだけだった。
 その間外出は許可されていなかった。どうやら僕はこの珍しい奇病の貴重な貴重なサンプルらしい。世界中の医者が僕の身体からとられたサンプルを躍起に研究しているのだ。
 その割に、部屋は大部屋で食事も質素。貴重な検体なのだから、何なら個室に専用の世話係でもつけてくれたっていいのではないかと、声を大にして訴えたい。もっと大事に扱ってくれよ……。
 大きな溜息が漏れる。

「ため息つくと、幸せが飛んでくぞぃ」

 カーテンの向こう、隣のベッドからそんな言葉が聞こえた。
 たしかかなり高齢なヨボヨボのお爺さんが入院していたはずだった。
 カーテンを開けると枕を背もたれに半身を起こした老人が優しいそうな笑顔を向けていた。

「笑いなさい笑いなさい。若いんだから」

「はは、久しぶりに聞いたなその言葉」

 笑いなさい、ため息をつくと幸せが逃げる。
 どちらも父の口癖だった言葉だ。何となく懐かしい気分になる。最後にその言葉を聞いたのはいつだっただろうか。

「はて? おまえさんどこかで会ったこと、あったかな」

「どうかな? 検査のときとかすれ違ったかもね。颯平っていいます。よろしくねお爺ちゃん」

「あたらしい看護師さんは男かい」

「……」

 僕も 五年後にはこうなってしまうのかな、などと考えた。そりゃため息も出るわな。

「幸せが逃げる、笑いなさい……か。そうしてたつもりだったんだけどな……」

 ことあるごとに父が口にしたその言葉を、小学生頃の僕は信じて疑わなかった。幸せを逃がさないように必死だった。
 ため息をつきそうになったら深呼吸。そして笑うこと。父はそう言って僕の頭を優しくなでてくれた。
 なのに……。
 それを守っていた僕のもとから幸せはあっという間に逃げてしまった。

   ***

 中学生に入学してすぐ、僕はいじめを受けた。
 最近のニュースで報道しているような酷いいじめではなかったと思う。いじめてる側はちょっとからかっている程度の気持ちだったろう。だがいじめられる側に大も小もない。
 その当時は本当に辛くて、学校に通うのが嫌で嫌で仕方がなかった。勉強は大事かもしれないが、精神を削ってまで通わなくてはいけない場所なのか疑問だった。
 その頃の僕は、笑うことを忘れていた。
 それでも父は、僕に笑いなさいというのだ。辛い時こそ笑っていなさいと。ため息を吐く前にゆっくり深呼吸しなさい、と。
 馬鹿げてる。
 そう言って僕は父に反発した。肩に置かれた父の手を思い切り振り払って。
 お父さんは間違ってる! お父さんは嘘つきだ! お父さんの言うとおりにしたって幸せになんかなれないじゃないか! そう怒鳴り散らした。
 僕が父に怒鳴ったのは後にも先にもこれきりだ。
 初めての、そして最後の反抗だった。大好きな父に、尊敬していた父に、信頼していた父に、この時ばかりはこれでもかというくらいの罵声の言葉を浴びせた。
 父は真剣な顔で黙ったまま、じっと僕の目を見ていた。
 僕は辛かった。泣きたかった。
 辛い時どうすればいいか知りたかったんじゃない。ただ父の前で思い切り泣いて、全部聞いて欲しかっただけだ。今思えばただの子どもの八つ当たりだ。
 ただ、甘えたかっただけなのだ。
 次の日の朝、僕は父と一言も言葉を交わすことなく学校へ向かった。重い足取りだったが、家を出る前に一度大きく深呼吸をして。笑顔を作ることは出来なかったけど。
 父が亡くなったのはその日の夕方のことだった。信号無視のトラックに轢かれて即死だったそうだ。
 人の人生とは何てあっけなく終わってしまうのだろうかと思った。
 そしてやっぱり父の言っていたことは嘘だったのだと、僕は父の前で泣きながら毒づいたのだ。

   ***

 今でも時々父のことを思い出す。あの時の交わした最後の言葉は僕の心にずっと引っかかっていた。
 それを考えないように、僕は勉強に打ち込んで大学へ進学し、仲間たちといろんなところを遊び歩き、たくさんの恋をして、失恋して、また恋をして。
 父のようにいつ死んでも後悔しないようにと、生き急いでいた。
 だが、人生のタイムリミットまで示されて、僕の生きた方に後悔は無いだろうか。残り僅かな時間を後悔なく過ごせるだろうか。
 よくわからないが、あまり自信はなかった。
 父はこんな時でも笑えというのだろうか……。
 またため息が出そうになったので、今度は大きく息を吸って、思い切り吐き出してみた。少しだけ胸の奥がすっと軽くなった気がした。

「お隣さん。起きとるか?」

 深夜に突然、隣から呼ばれた。
 何かと思ってカーテンを開けると、隣のベッドに何やら嬉しそうな顔をしたお爺さん。その腕に大事そうに抱えられていたのは、なんと日本酒の一升瓶だった。

「どうじゃ、一杯付き合わんか?」

「じ……じーさんいったいどこでそれを!? しかもそれ! ま……幻の大吟醸! 『風神』じゃないか!?」

「おちょこがなくて困っておる。青年どこかから調達してきてくれんか?」

 もちろんここは病院であり、飲酒はおろか酒の持ち込みも禁止されている。どういう経路で入手したかわからないが、久々の、しかも逸品と噂の酒を前に僕の目が輝いたのは言うまでもない。
 僕はこっそりと病室を抜け出すと、給湯室から湯呑を二つほど拝借してきた。その早業たるやとても入院患者の動きではなかっただろう。まぁ当然なのだが。

「青年よ、窓のカーテン開けろ。今日は満月じゃ」

「月見酒とは冴えてるな!」

 夜空には大きな満月が明るく輝いて、窓から差し込むその明かりはちょうど良い照明だった。
 僕の手にある湯呑に透き通った液体が注ぎこまれる。よだれが零れるのを我慢して、僕はその液体を覗き込む。表面に反射した月が湯呑みの真ん中でユラユラと揺れて、風情が出ている。久しぶりの酒!

「かっか、やっと笑顔を見せおったな。いい顔じゃなぁ。病も吹き飛ぶ」

 なかなか粋なことを言ってくれる。
 もし父が生きていて、一緒に酒を飲むことがあったら、きっと似たようなセリフを言っていたんだろうな。
 そっか。辛い時こそ、その中から楽しみを見つけることで、こうやって笑うこともできるんだ。 
 湯呑みに波打つ月ごと、こくりと一口飲みこむ。
 心に引っかかっていたものがスルスル溶けて流れて行ったような気がした。そして一気に飲み干した。
 それは何の味もしないただの水だったのだけれど、今まで飲んだどのお酒よりもおいしく感じた。

「うまいじゃろ? かっか」

 お爺さんもそれを一気に飲みほし、そしてまたかっかっかと笑った。
 僕は急におかしくなって、楽しくなって、うれしくなって、一緒に笑おうと思ったのに、自然と僕の目からは涙が零れた。

「あれ? おかしいな……」

 僕は頬を伝う涙を袖で拭うが、それは次々と、後から後から溢れ出してくる。そして涙とともに心から溢れた言葉をぽつぽつと紡いだ。

「僕さ……父さんに、酷いこと言ったんだ。ほんとはそんなこと思ってなかったのに。学校から帰ったら謝ろうと思ってたのに。あの日、最後に見た父さんの顔は、いつもみたいに笑顔じゃなかった。俺が父さんから笑顔を奪ったから、父さんは……」

 ずっとずっと、僕は父に謝りたかった。あの日のことを。あの時の言葉を。
 今まで目を背けていただけなんだ。悔いのないように生きるとか言って、一番大きなものを置き去りにしてた。
 馬鹿な僕は、今やっとそれに気が付いた。死ぬ前に気付けてよかった。
 お爺さんが僕の湯呑みに水を注いだ。

「笑いなさい。かっか」

 その言葉にまた涙が溢れてきたけど、僕はぐしゃぐしゃの顔のまま思いっきり笑顔を作って注がれた水を飲み干した。

 その笑顔は父さんに向けて。

   ***

 それからしばらくして、僕に一時帰宅の許可が降りた。週一の通院と、薬の服用を条件に。
 その薬は最近日本でも認可された薬で、病気の進行を抑えることができるものらしい。特効薬の開発研究も進んでいるのだが、もしかすれば僕がまだ若さを保っていられる間に、完成の日の目を見ることができるかもしれない。
 今は信じてそれを待つことにする。
 もし完成しなくても僕の場合、早期発見できたことでより高い薬の効果が得られるということだったので、それなりに長く生きられるようだった。
 実はこの病気は加齢スピードの遅い段階での早期発見は非常に困難なのだが、連続した痛風の発作を起こしたのが幸いしたというわけだ。
 母に聞いたのだけど、実は父も痛風持ちだったらしい。僕が知らなかっただけで、毎日薬を飲んでいたのだ。
 その体質が遺伝していたおかげで、僕はもう少し長く生きていられる。そして、その僅かな父との繋がりがうれしくて、僕は今日も笑って家を出るのだ。
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