悪役令嬢と魔王

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王子とマイア

プロローグ

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「さぁ、オレにつかまって」

 引き締まった大きな身体をした男は、優しい眼差しを車椅子に乗った老婆に向けた。凜々しい顔立ちは、何事にも揺るがない自信を感じさせた。と同時に、零れるような笑みが、温かく包み込むような愛情が伝わってくる。

「ごめんなさい。いつも頼ってばかりで」

 二十代にしか見えない男は、老婆を抱きかかえると、ベッドへ寝かせた。そして、椅子に座ると、老婆の手を握り、優しい口づけをおとした。

 世界で最も愛し合った恋人同士であり、婚姻で誓った通り、死ぬ直前までお互いに心から愛し合った夫婦であった。その口づけも、端から見たら、若者と年寄りの異様な関係に見えるが、たった二人しかいないこの世界では、甘く固い絆の一端でしかない。

「オレは、そうしたいと思っているから、しているだけだ。何も気にする必要はない」

 老婆は、悲しげに顔を振る。心いっぱいまで積もった悲しみと男への申し訳なさが溢れ出す。

「もう寿命みたい。あなた一人を残して死んでしまうわ。それが、辛くて、心残りで……」

「もう何度も聞いたよ。オレは、マーガレットがそばにいてくれたこのときが宝物なんだ。君と出会えなければ、こんな素敵な時間は過ごせなかった。だから感謝してる。君が死んだとしても、この思いはずっと消えないし、一人でいても幸せでいられるから、何も気にするな。ねぇ?」

 明らかに心音が弱り、今にも消えそうなマーガレットに明るく微笑んだ。

 病気が存在せず、自然の恵みを思う存分享受できる天国のような世界。それでも、生き物である限り死へと刻一刻と近付く。マーガレットも天寿が全うする時刻がすぐ目の前まできていた。この世界にきて、およそ100年。二人だけの甘い時間を過ごせていた。それは、ゼウストがいうように、かけがえのない宝物のような時間。

 魔王であるゼウストは、この世界にきても容姿は変わることなく、来たときのまま。若々しさに溢れ、生気に満ちた華やかさは、全く変わることがない。

 一方、マーガレットは、人間としての制約から逃れることはできなかった。年齢とともに、しわができ、美しかった金髪は、白髪へと変わっていった。100歳を越えると歩くのも不自由になり、最近は車椅子に乗り、ゼウストに押してもらう毎日だ。

 それでも、ゼウストからマーガレットへの愛情はいささかも衰えることはなかった。それを感じるからこそ、マーガレットにとって、胸の苦しみは日に日に強くなっていった。

 この世界は、人間や魔物は、ゼウストとマーガレットの二人しかいない。二人にとって夢のような天国であっても、一人では、決して抜け出すことのできない檻なのだ。

 もし、自分が亡くなってしまったら、ゼウストたった一人で、この世界で過ごしていかなかればならない。色鮮やかな四季の変化に富んだこの世界も、孤独の身ではきっとただの監獄でしかないのだ。

「わたしのためにこの世界に来ることになったのに、あなた一人を置いておくんですもの。わたしって、結局あなたにとってただの疫病神でしかなかった。本当にごめんなさい」

 マーガレットの瞳からツゥーーと涙が零れた。宝石のようなあまりに美しい涙。それが、しわしわになった肌を滑り落ちていく。その涙を慈しみながら、ゼウストは指で拭い、顔に刻まれたしわを優しく撫でた。

「ごめなさいって、それは悲しいな。それじぁ、二人で過ごした時間がまるで無駄だったみたいじゃないか。オレといて楽しくなかったの?」

「楽しかった。本当に楽しかったわ。ここに来るまでがいつ死ぬかと震える毎日だったから、愛するあなたといる時間がまるで夢のようで。断言できます。最高の人生だったと」

「だったら、何も言うことないじゃないか」

「わたしにとってはね。でも、あなたは違う。あなたに苦しい思いをさせてしまうかと思うと、悲しくて……」

「マーガレット、愛してる。愛している、愛している、愛してる。何度でも言うよ。オレにとって君がすべてだ。若いときの綺麗な君も、年老いた今の君も愛おしくて仕方がない。そんな君と一緒にいられたんだ。これ以上の幸せは罰があたるよ」

「わたしも心から愛している。あぁ~、ゼウスト、大好き」

 二人は、再び唇を重ねた。瞳から流れた涙が、ゼウストの頬を濡らす。

「わたし、必ず生まれ変わってあなたをこの世界から救うから。毎日神様にお祈りしてるの。絶対に絶対にあなたを迎えにくるわ。だから待ってて」

 辛うじて吐く息の中に、必死な思いを込めて伝える。もう時間がないことは分かっていた。

 必ずあなたを迎えにくると。一人にはしないと。だから、悲しまないで欲しい

 それが今できる唯一のことだったから。

「分かった。待ってるよ。君が来るのをずっと待っているから」

 その言葉を聞いて、安心したのか、マーガレットは、穏やかな笑みを浮かべ、目を閉じた。

 そのまま、眠りについたのか思った。だが、ふいに不安に駆られ、ゼウストは、マーガレットの呼吸を確認する。

(息をしていない)

 ゼウストは、マーガレットの身体を揺らしても反応がないことに、心身が急激に冷えていくのを感じた。

「マーガレット?マーガレット?生きてるよな?」

 自分がすべてが奪われ、暗闇の世界に落ちたような感覚すらした。ゼウストの顔は、マーガレットの脈が止まっていることを確認すると、まるで死人のように青ざめた。

「死ぬな、マーガレット。オレを置いていくなよ」

 ゼウストの瞳から涙がポタポタと落ちていく。

 最愛の女性を失ったことの悲しみが、絶望が、ゼウストの心臓を抉る。

 そのとき初めてマーガレットを励ますために言っていた言葉が、ただの軽口だったことを知った。魔王と呼ばれ、人々から恐れられていた自分が、実は、愛する女性を失っただけで、これほどまで、苦しく、地獄までたたき落としてしまうほどの衝撃を与えるものであるということに気付いた。それと同時に、マーガレットの存在がどれほど心を支え、幸せなものしてくれたのかを改めて感じた。

「マーガレット。マーガレット」

 ゼウストは、冷たくなったマーガレットを抱き締め、何度も何度も名前を呼ぶのだった。





 それから二百年後のアルバーン公爵家。

 エイジス国の西側にアルバーン公爵家がある。エイジス国西側の盟主であり、隣国のハイバン国との対応を考えると、エイジス国でも重要な家柄だ。

 三百年もの歴史があるアルバーン公爵家邸で、アルバーン公爵は、椅子に腰掛け、膝に今年五歳になる次女のマイアを座らせていた。

「また、絵本を読めばいいのかい?」

 次女の手には、もう何度読んだか分からない絵本があった。マイアは、この絵本が大のお気に入りで、寝るときにもそばに置いている。

「読んで、ゼウスト様のお話を聞かせてください、お父様」

 マイアは、目を輝かせて、父親におねだりした。アルバーン公爵は、領民からも使用人達からも慕われ、愛されている。領民達にも使用人達にも気配りができ、思いやりがある人格的に優れた貴族だったからだ。そして、次女に対しては、目に入れても痛くないほどの可愛がりで、次女の願いを断ることなどありえないことだった。

「マイアは、この絵本が本当に好きだね」

「お父様、勘違いしてます。この絵本は大嫌いです」

 大きな瞳に気の強さを宿らせ、きっぱりとした口調で言った。アルバーン公爵は、なぜ、マイアがこの絵本を嫌いだと言ったのか知っている。その絵本の中身が、真実ではなく、時の権力者の都合の良いように書かれているからである。

「では、なぜこの絵本を読んで欲しいのかな?」

「絵本を聞きながら、ゼウスト様を身近に感じられるからです。それに、真実をお父様がちゃんと教えてくれますし」

「そういえば、マイアは、魔王ゼウストのことが大好きだったね」

 そう言うと、マイアは、大きな瞳をキラキラと輝かせる。整った顔に美しい金色の髪。将来美しい女性になるであろうマイアが、にっこり笑うと、実に愛らしく感じた。

「大好きです、お父様。ゼウスト様ほど優しくて、思いやりがあって、頼りになる人はいません。まるでお父様みたいです」

「あははは。それはありがとう。では、読んであげようかね」

 小さなマイアの膝の上で絵本を拡げると、アルバーン公爵は、絵本を読み始めた。





 昔、アロハ国(今のエイジス国)は、活気があり、賑やかで、国民は楽しく暮らしていました。アロハ国は、隣国のハイバン国が苦しいときにも、手を差し伸べ、優しさに満ちあふれていたのです。

 ある日のこと。

 ハイバン国の奧にある魔族から魔王が単独でアロハ国を攻めてきたのです。人を殺すことに喜びを感じる魔王のこと。貧しい暮らしをするハイバン国を攻めるより、きらびやかな生活を営むアロハ国を蹂躙する方が面白いと思ったのでしょう。

 魔王は、恐ろしい力で、アロハ国を攻撃し始めました。人の心の分からない魔王は、人を殺すことなど、何も思いません。良心も、道徳もないからです。それは、家畜となんら変わりません。

 アロハ国にいた国民達はあちこちへ逃げていきます。それでも、魔王は容赦なく、アロハ国の国民を殺していきました。

 そこへ、一人の美しい女性が現れました。その女性は、アルバーン=マーガレットといいました。マーガレットは、貧しい子ども達のお世話をする等、とても心優しい女性でした。

「魔王様。どうして罪のない人達を殺すのですか?」

 魔王は、残忍な目で、マーガレットを睨んだ。

「面白いからに決まっているだろうが。人間は、オレのおもちゃだからな」

「もう止めてくれませんか?近くには、わたしが面倒をみる子ども達もいるのです。大人しく自分の場所へ帰ってください」

 魔王は、マーガレットの言葉を聞いて、馬鹿にしたように笑った。

「何を言っている、小娘。何もできない力のない人間の分際で。おまえもオレのおもちゃとしていたぶってやるよ」

 その時です。マーガレットの手に持っていた小箱が光り始めました。

 すると、魔王が、その光に向かって身体が浮き、小箱へ吸い込まれていったのでした。そして、二度とその小箱から出てこれなくなったのでした。

 人々は、アルバーン=マーガレットに熱狂しました。口々に女神様が現れたと言って、崇め始めました。

 国は、魔王によって崩壊し、残った人々で新しい国を造りました。それが、今のエイジス国です。

 新しく国王に就任したエイジス国王は、マーガレットを宮殿に呼びました。

「マーガレット。そちのおかげで、この国は救われた。感謝するぞ。何か欲しい物はないか?」

「ありがたき幸せにございます。ただ、命をかけて国を救うのは当然のことですので、そのお言葉だけで十分でございます」

 マーガレットは、跪きながら、恭しく言った。

「国王としてそういうわけにはいかん。褒美をあげるのが、わしの仕事だからな」

「それでは、ハイバン国の国境付近を領地にください。そこで、魔王を閉じ込めた小箱を保管したいと思います。万が一魔王がこの小箱から出てきたら、この首都では危険ですから。それに、隣国ハイバン国には、魔王を慕う愚か者がいます。わがエイジス国によからぬことをしないように、そこから見張りたいと考えます」

「分かった。そのようにいたそう」

 そう言って、マーガレットは、アルバーン公爵として、エイジス国の西側に領地を構え、魔王を閉じ込めるとともに、エイジス国を末永く見守ったのでした。







「お父様。ゼウスト様は、本当は、アロハ国が貧しいハイバン国を奴隷のように扱っていたから、怒ってアロハ国を攻めたんでしょう?」

 アルバーン公爵が読み終えると、いつものようにマイアの質問攻めが始まった。

「そうだよ。アロハ国は、ハイバン国から搾取したり、奴隷としてこき使ったりと、それは酷いものだった。それを目にしたゼウスト様は、激怒してしまって、アロハ国に向かい、国を滅ぼしてしまったんだ」

 アルバーン公爵家だけに代々伝わる真実。それを幼いマイアに聞かせる。

「マーガレット様が、ゼウスト様を小箱に閉じ込めたわけじゃないですよね?」

 ふわっと柔らかい笑みを浮かべ、アルバーン公爵は、マイアの頭を撫でる。

「そうだよ。マーガレット様は、小さい時から不治の病でね。ゼウスト様に会ったときは、死ぬ直前だったんだ。そのマーガレット様を助けるために、一緒に小箱に入ったんだ。なんでも、小箱の中は天国のような世界で、病気がないらしい。きっと今も幸せにそこで暮らしていると思うよ」

「ゼウスト様、格好いいです」

「マイアの中では、魔王様は英雄なんだね?」

「はい、英雄です、わたしのヒーローです」

 マイアは、絵本をぎゅっと胸に抱き締めた。そして、いつかゼウストのように、自分も人のために何かできる人間になりたいと強く思うのだった。
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