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顔をあげると、そこには湯上りの湿り気を漂わせた篠山がたっていた。
「遼太郎、ありがとうな。もう大丈夫。帰っていいぞ」
「あぁ。うん。コレ飲んだら帰る。匡彦さんも、なんか飲む?」 
 一瞬彼と視線があってしまった神野は、慌ててイヤホンを両耳に詰めると、机のうえのテキストを眺めているふりをした。

 ひさしぶりの篠山に心臓がドクドクと鳴りはじめ、はやくも平然ではいられない自分を自覚した。心持ち緊張しながらソファーへと移動する彼を、こっそり目で追う。
 濡髪にタオルを被った篠山は、神野がここに住んでいたときとは違って、今夜はきちんとパジャマの上下を着ていた。

(そっか。寒くなったもんな。半裸で過ごすのはもう無理か)
 九月頃の彼は湯上りにはしばらく上になにも着ず、下だけ穿いてリビングで過ごしていた。首にタオルをかけて、ビール缶にそまま口をつけていたことを思いだす。
 彼がいま羽織っている濃紺のパジャマの下には、程よい厚みの滑らかな胸板や、毎晩酒を飲んでいるわりには引き締まった腹筋が隠れていて、それが若すぎる自分や春臣よりもいい具合に熟し、男の色気を醸しているのを知っている。

「んー? お前なに飲むの?」
「コーヒー」
「あー、じゃあ俺のもよろしく」
「ん」
 髪をがしがし拭きながらソファーに腰かけた篠山が、ローテーブルに伏せてあった遼太郎のクロッキー帳を手にとった。そんななに気ない所作に、彼の遼太郎にたいする遠慮のなさを感じてしまい、そのことに苛つく。
(馬鹿らしい……。なんでこんなことで嫌な気持ちになる?)

 彼の顔はクロッキー帳が邪魔をして見えなかったが、そのかわり彼からも自分のことは見えないだろう。神野は長い脚を組んで座る篠山の姿を見つめつづけた。
 彼が紙を捲ると、パラリと音がたつ。
「あっ!」
 ガチャッ!
 遼太郎が声をあげたのと、陶器の割れたような音が部屋に響いたのは同時だ。

「やめろっ! 匡彦、見んな!」
 びくっとした神野の視界のはしを、遼太郎が素早く横切っていった。
「返せっ!」
 怒った遼太郎がソファーのうえの篠山にとびつく。彼がクロッキー帳を取りあげようとするのを、篠山はひょいと腕を伸ばして遠ざけた。
「なんだ? このぐるぐる」
 なにが描かれているのか見当もつかないが、遼太郎から逃れながら帳面を見る篠山は不思議顔だ。

「うずしお? どこ地獄?」
「ばかっ、返せってば!」
「うわっ、イテテッ! こら、肘! 重いっ 遼太郎降りろっ!」
 掲げあげたクロッキー帳をひったくろうとした遼太郎が、バランスをくずして篠山のうえに倒れると、篠山が「ぐぇっ」と悲鳴をあげた。
 押し倒された彼の腹についた遼太郎の左手には、彼の体重がぜんぶ乗ってしまっている。確かにそれは痛そうだ。
「痛い痛い痛いっ!」

「じゃあ返せよっ! はやくっ! 匡彦が悪いんだろっ! 勝手に見んなって!」
 遼太郎の指さきが、篠山が彼から遠ざけているクロッキー帳に触れそうで届かない。肩を押さえつけられている遼太郎はやっきになって、篠山の腹のうえで、ぐいぐい身体を跳ねあげて必死に手を伸ばしていた。
(いちゃいちゃしている……)
「珍しいもん描いてるから、ちょっと聞いただけだろ? そんな怒んなよ」

 篠山は意地悪をするつもりはなかったようで、「なんだよ、いつもは見せてくれるくせに」と、痛めつけた横っ腹をさすりながら遼太郎にクロッキー帳を返した。そして「その、ラク、」と、云いかけたところで、遼太郎に口を塞がれていた。
(らく……? らく……だ?) 
「いいから黙れ!」と一喝されて、篠山がそれに頷くのを確認した遼太郎は、それでやっと篠山の口を解放してやっていた。
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