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(……なんか、恥ずかしくなってきた)
「今日はこれ、おいて帰ります」
「いいよ。わざわざここまで来たってことは、よっぽど飲みたかったんだろ? で、あいつは? 来ないのか?」
 篠山がグラスを用意してきたので、とりあえずソファーに腰を下ろす。

「今日はもうお風呂に入って寝るそうです……」
 春臣のことは誘ってもいないが、そこはしらっと嘘をついた。
「而今なんですが。どうでしょうか? ほんとに飲みます? 休まなくて大丈夫ですか?」
 神野は眉をハの字にして彼を見上げた。
「それはすごいな。大丈夫だよ。さっきからすでに飲んでいたところだし」
 彼が顎をしゃくったさきを見てみれば、口の空いたビール缶が三本並んでいる。
「お前さっきから顔が赤い。外、相当寒かったんだろ? 部屋、寒くないか? 温度もっとあげるか?」

 神野はローテーブルにグラスを置いた篠山の手をとった。
「あのっ」
「どした?」
「あ、いや……」
 やっぱりちょっと飲んでからだ。
(飲みながら、彼を慰める方法を考えよう)
 神野は膝のうえに載せた酒瓶の封を切ると、キャップをとりのぞく。
 キュポンと音がして蓋が外れると、濡れた蓋から甘い芳香がふあんと広がった。鼻を近づけくんと嗅いでみる。

「いい匂い」
 うっとりして呟くと、篠山がくすっと笑った。
「なんですか?」
「いや、お前さ、一升瓶似合うなって思って」
「ひとを酒豪みたいに云わないでください」
「いや、そうじゃなくて。姿勢もいいし、脚そろえて膝のうえで酒瓶抱えてるの、ちょこんとしてて、なんかかわいい」

 つまり子どもっぽいってことなのだろう。しかし「かわいい」の言葉に、冷えていた神野の身体がほわんと火照りをもつ。頬がやたらと熱く感じる。
 ふいに伸びてきた篠山の指にどきっとして、その指の背で頬を擦られると胸がきゅんとした。
「あの。入れますのでちゃんと、グラス持ってください」
 慰めに来ているのに、なにをときめいたりしてるんだ。
(今日はホストに徹する!)

 決意をあらたにして彼のグラスに甘い香りの液体をなみなみと注ぐと、一度グラスをテーブルに置いた篠山に「お前もグラス、持って」と一升瓶を取りあげられた。
 ひさびさの接近に緊張してしまう。心臓の高鳴りが聞こえてしまったらどうしようと思うと、グラスをもつ指が少し震えてしまった。

「乾杯」とグラスをあわせられる。フルーティな香りのたつ酒をくいっとひとくち含み、しっかり舌のうえで液体を転がしてから、コクリと嚥下する。
「おいしい」
 思わず頬が緩んでしまうと、篠山がやさしげに目を細めていた。
「うまいな」
「はい」
 いっしょに笑ってくれるけども、やはり彼には元気がない。

 近藤の結婚のことも仕事の失敗のことも、自分が下手に触れない方がいいのだろうか? 彼がはやく忘れたいと思っているのだとしたら、蒸し返さないほうがいいのかもしれない。このまま余計なことは云わないで、楽しくお酒を飲んでいればいい? そうしたら彼は元気になれるだろうか? それとももしかして肩でも揉んであげたほうがいいのだろうか? 身体の疲れだけでもとれると、ちょっとは気分も向上できるかもしれない。

 ちびりちびりと酒を舐めながら、神野はあれこれ考えた。
(篠山さんには、ここにいるのが近藤さんだったら、よかったんだろうな)
 そう思うと、胸が痛む。でも自分は近藤ではないし、彼のようにもなれない。顔も体格も、声だってまったく違うのだから。
 ここにもし彼がいたら、仕事に失敗した篠山をどうやって慰めるのだろうか。しかし彼のことをよく知らないので、神野にはまったく想像がつかない。せめて近藤のあの穏やかな話かたや微笑みだけでも、自分が真似してみるのはどうだろう。

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